医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第25回

神の委員会(6)
世界初の人工心臓手術

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2551号よりつづく

世界中を駆けめぐったニュース

 69年4月4日,ベイラー医科大学のクーリー教授が,患者の心臓を取り出し,機械の心臓に置き換える手術に成功したという報は,あっという間に世界中を駆けめぐった。患者はハスケル・カープ,47歳の男性だった。虚血性心疾患による心不全で,心臓移植以外に助かる道はないといわれ,移植手術では世界一との評判が高かったクーリーを頼ってきたのだった。というのも,世界で一番最初に心臓移植を手がけた医師は,南アフリカのクリスチャン・バーナード(67年12月)だったが,69年4月の時点で,クーリーは心移植手術例数でバーナードを大きく引き離し,世界最多例(18例)を誇っていたからだ。
 手術後のクーリーの説明によると,当初予定されていた手術は,カープの心臓から機能していない部分の心筋を切除しダクロン膜で形成するというものであった。しかし,形成術後の残存心臓の機能があまりにも悪く,「人工心臓に置き換える以外に患者の命を救う術がない」と,手術中のとっさの判断で人工心臓への置換に踏み切ったというのだった。

賞賛された術者の「勇気」

 使用された人工心臓は,アルゼンチン人外科医ドミンゴ・リオッタ(ベイラー医科大学助教授)とクーリーが,4か月かけて共同開発したものということだった。クーリーとリオッタは,人工心臓への置換は永久的な処置ではなく,「あくまでも心移植のドナーが現れるまでのつなぎ」と説明した(註1)。カープの妻は,夫の命を救うドナーが現れるよう,テレビカメラの前で哀願した。
 メディア側も,患者の命を救うために今まで誰もしたことのなかった手術に踏み切ったクーリーたちの「勇気」を賞賛,全米に,世界で初めて人工心臓手術を受けた患者を救え,という気運が盛り上がることになった。「いつ,ドナーが現れるか」ということが,米国民の最大関心事となったのだが,人工心臓置換術から3日目,マサチューセッツ州にドナーが現れた。脳死状態の「死体」がヒューストンに空輸され(註2),クーリーにとって19例目の心臓移植が行なわれた。しかし,その甲斐もなく,カープはその翌日,拒絶反応が原因で死亡した。
 最終的に患者は死亡したものの,クーリーとリオッタは人工心臓の手術そのものは成功したことを強調した。クーリーが自らの功績を世界最初の人工衛星「スプートニク」にたとえる一方で,リオッタは,「患者から取り出された人工心臓には何の異常も認められなかった。心臓移植をしなくても半年は患者を生かし続けることができたに違いない」と述べたのだった(註3)。

寝耳に水

 クーリーの人工心臓置換手術は世界の医療関係者を驚かせたが,誰よりも驚いたのは,ベイラー医科大学学長としてクーリーの上司にあたり,かつ心臓外科では同僚にあたる,ドゥベイキーだったに違いない。ドゥベイキーはベイラー医科大学の人工心臓・左心補助装置研究グループの責任者だったが,クーリーが「独自」に人工心臓の開発に取り組んでいたなど,まったく,寝耳に水の話だった。
 さらに,クーリーの共同研究者としてメディアの脚光を浴びたリオッタは,ドゥベイキーの研究グループの一員であり,リオッタがドゥベイキーの許可もなくクーリーと共同研究をしていたとは,「裏切り」以外の何物でもなかった。しかも,クーリーとリオッタがテレビカメラの前で自分たちが開発したと得意げに説明していた人工心臓は,ドゥベイキーの研究グループが何年もかけて開発してきたものと瓜二つだった。ドゥベイキーは出張先のワシントンでクーリーの歴史的手術の報に触れたのだが,まるで,クーリーは,自分が留守をする日にあわせて手術日を選んだかのようだった。
註1:心臓移植までの「橋渡し」に人工心臓を使用するというアイディアは,当時すばらしいアイディアと賞賛されたが,ドナーの数が限られているという移植の根本的問題を解決するものではないことに注意されたい。莫大なコストをかけて人工心臓を「橋渡し」に使っても,「より多く」の患者が救われるわけではなく,「異なった」患者が救われるにすぎないのである。
註2:カープにドナーがすぐ見つかったように,メディアに大きく報道され,社会の注目を集めた症例に対しては,「何としても救いたい」という気運が高まり,通常では望み得ないような迅速な救済処置が発動されることが多い(「rule of rescue(救済原則)」と呼ばれる)。
註3:リオッタとクーリーが開発した人工心臓の動物実験での最長生存は3日に過ぎなかった。