第2550号 2003年9月8日


おきざりにされた健康

第1回

「売春婦の健康」

神馬征峰
(東京大学大学院・医学系研究科 国際地域保健学教室 講師)


「おきざり」にされている人たちのために

 いつの時代にも,またどこにいっても,「おきざり」にされている人たちがいるものです。弱い立場にあり,病気になりやすく,若くして死と向き合うこともある人たちです。
 そんな「病気」との接点があるせいか,「おきざり」の問題に敏感な医師もいます。「聖医」とか「赤ひげ先生」と呼ばれるような人たちです。しかし,いくら1人,2人ががんばったところで,貧困,差別といった「おきざり」の「根っこ」そのものがなくなるわけではありません。
 「聖医」のそのような限界が世界規模で見えはじめたのは,エイズの流行によってでしょう。そのエイズとの取り組みのなかで,「健康と人権」アプローチは育ってきました。
 エイズは1981年に,はじめて報告されました。最初は,どう感染するのか,どうしたらそれを防げるのかといった,生物学的,疫学的問題点が注目されていました。エイズの社会的側面が注目されはじめたのは,1980年代末になってからです。政治,社会,文化,経済,どれをとっても,エイズの流行に影響することがわかってきました。
 ところが多分野間にわたる協力というのは難しいものです。まず言葉が違います。専門用語をバラバラに使っていたのでは協力できません。そこで共通言語として注目されたのが「人権」でした。そして,1993年に設立されたハーバード公衆衛生大学院・「健康と人権」センターなどの強い影響力のもと,「人権」をキーワードとしたエイズ対策が検討されはじめました。このセンターは,人命救助活動中に,ヘリコプター事故で亡くなった24歳の若きパイロット,フランソワ・ザビエル・ビグノー氏の死を悼む家族や友人の寄付によってできたものです。
 公衆衛生と人権の関係についての研究も同時に進められ,この2つは福祉向上の両輪としてさまざまな健康問題対策に使われるべきだといわれています。そして,これまで弱い立場におかれた人たちの「おきざり」にされた健康を,何とか取り戻すための努力がはじまっています。
 これから数回にわたり,「健康と人権」に関する話題を提供したいと思います。そして,「おきざり」にされた健康の問題を一緒に考えていきましょう。

タイのエイズ対策にみる売春婦の人権

 最初にとりあげるのは売春婦の健康の問題です。
 売春にまつわる問題は,人権問題としてこれまでもよくとりあげられてきました。ところが,議論されるのは,売春という仕事のもつ倫理性やスティグマ(社会的烙印)に関するものがほとんどでした。売春婦ひとりひとりの健康を守るため,ということが議論の対象となるのは比較的最近になってからのことです。
 その具体例として,「100%コンドーム戦略」が効を奏したタイのエイズ対策についてみてみましょう。この戦略は売春婦と客のコンドーム使用を推進させる目的で,1989年に始まりました。1994年までの5年間にコンドーム使用率は14%から90%以上に高まり,性感染症も85%以上減少しました。国連や世界銀行はこの対策の成功を絶賛しました。それによって,確かに公衆衛生的成果はあがったわけですから。
 しかし,2003年6月7日号のランセット誌の「健康と人権」特集記事によれば,この戦略に異を唱える人々もあります。公衆衛生的な成果だけをめざしており,売春婦の人権を配慮していないという理由からです。この戦略で活躍するのは,公衆衛生行政官,警察,売春施設の経営者などです。戦略づくりに売春婦の参加はありませんでした。売春婦はあくまでも対策事業の対象としてしか見られておらず,売春婦への健康配慮はおきざりにされてきたのです。

自らの健康を勝ち取るために

 100%コンドーム戦略をとっていない国ではどうでしょう。売春施設によっては,売春婦にコンドームを無料で配布しないところがあります。コンドームを使わないセックスが可能な売春婦を写真付きで示す施設もあります。それによって最大の健康の危機に直面するのはいうまでもなく売春婦であるというのに。
 日本でも似たような問題があります。途上国からセックス産業に出稼ぎにきている女性の多くは,ビザの有効期限が切れ,超過滞在しています。客もよくそのことを知っています。知っているからこそ,彼女たちがコンドームを使うことを要求するとそれを拒否し,「もしコンドームを使うのなら,警察に訴えてやる」と脅すこともあります。暴力を振るっても警察に訴えられないことをいいことに,暴力を振るう客もいます。
 「健康と人権」アプローチはそんな日本でも必要とされています。無理を強いる客の行動変容を期待するのは難しいことです。それを防ぐためには,グループを結成したり,相談所を設けたりすることが必要です。医療機関の適切な対応や売春婦の健康づくりのための活動支援も欠かせません。すでにいくつかのNGOはこのような活動を行なっています。しかし日本全体で見ると,まだまだ地域差があります。「健康と人権」というキーワードのもと,点から面への活動展開が今後なされていくべきでしょう。
 そのためにも売春婦は,政策,事業,研究の「対象となる」だけの状態から脱皮しなくてはなりません。「健康と人権」アプローチはそこに注目します。そして彼女たちが,これまで「おきざり」にされてきた自らの健康を勝ち取る担い手として参加できるような社会環境づくりをめざすのです。




 神馬征峰(じんば・まさみね)氏

浜松医科大学在学中,恩師・故伊藤邦幸氏と出会い,国際保健を志す。1985年卒業後,飛騨高山赤十字病院,国立公衆衛生院に勤務,この間1年半ハーバード公衆衛生大学院にて環境保健研究に従事する。1994年から2年間,ガザ地区WHO事務所所長。1996年から5年間,国際協力事業団・日本医師会によるネパール学校地域保健プロジェクト・チームリーダー。その後「武見フェロー」として,ハーバード大で国際保健研究を終え,2002年7月より現職。紛争国や南アジアでの生活経験をもとに,健康格差,健康と人権,ヘルスプロモーションをテーマとした研究・教育に従事している。