医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第21回

神の委員会(2)
スクリブナー・シャント

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2542号よりつづく

 2003年6月19日,シリコン製のU字型チューブを発明することで,慢性腎不全患者に対する血液透析を実用化した,ベルディング・H・スクリブナー(82歳)が世を去った。
 スクリブナーは,1921年,シカゴに生まれた。喘息を患うなど,子どもの時から病気がちだったが,スタンフォード大学医学部を出た後,臨床よりも研究の道に進んだのも,重い視力障害があったことが理由だったと未亡人のエセルは語っている(後に,両眼とも角膜移植を受けている)。エセル夫人によると,病気がちの一生を送ったスクリブナーの口癖の1つは「良い医師になるためには,まず患者でなければならない」だったという。

スクリブナーのアイデア

 スクリブナーが血液透析に興味を持ったのは1950年代に入ってからだった。人体に応用し得る透析機そのものは第2次大戦中に,オランダの医師,ウィレム・コルフが実用化し,腎不全患者の状態を一時的に改善し得ることが証明されていた。しかし,透析機を使用する際には,毎回新たな血管を確保して透析機のガラス管につなげなければならなかった。1回使って傷つけた血管は二度と使うことはできず,1人の患者に長期に及んで透析機を連用することは不可能だった。患者の状態を一時的に回復させることはできても,慢性腎不全の患者にとっては,死までの経過がごくわずかに延びるだけの効果しかなく,実際的には何のご利益もなかったのである。
 スクリブナーにとって,透析機という,理論的に患者を救い得る手段が目の前にあるのに,使用の際に血管をつぶさなければならないという技術的理由で患者を救い得ないことが歯がゆくてならなかった。何とかして,透析機を長期連用する手段はないものか,スクリブナーは考え続けた。1950年代終わりのある夜,スクリブナーは,突然あるアイデアを思いついて目を覚ました。動脈と静脈をつなぐU字型のチューブを患者に留置すれば,透析機を長期連用することができるのではないか。スクリブナーは自分の思いつきに興奮した。
 しかし,チューブにどういった材質を使ったらいいのか,スクリブナーにはわからなかった。体内に留置するためには,チューブは異物反応を引き起こさない材質のものでなければならなかった。スクリブナーはワシントン大学の同僚に,何かいい材質はないかと聞きまくった。市販されたばかりのテフロンが異物反応を起こさないとスクリブナーに教えたのは,ある日階段で出会ったワシントン大学外科医のローレン・ウィンターシードだった。

凄まじいシャントの威力

 技師のウェイン・クゥイントンと外科医のデイビッド・ディラードの助力を得て作成したテフロン製のU字型チューブ(スクリブナー・シャントと呼ばれる)を留置した最初の患者は,39歳の男性,クライド・シールズだった。スクリブナー・シャントの威力は凄まじかった。寝たきりで死を待つだけの状態だったシールズは,スクリブナー・シャントのおかげで,その後,11年間生き続けたのである(5人目の患者ティム・アルバースは36年生き続けた)。
 スクリブナー・シャントを留置することで透析の長期連用が可能となること,そして,透析を続けることで慢性腎不全患者が社会復帰を遂げるまでに回復し得ることが証明されたのだった。スクリブナー・シャントが発明されて40年が経つが,スクリブナーのおかげで命を救われた腎不全患者の数は百万人を下るまいと推測されている。その百万人の1人目となった患者,シールズは,シャントに感染を合併した最初の患者ともなった。アサリ漁りに行って前腕のシャント部に感染を起こしたのだが,死ぬのを待つだけの状態だったシールズがアサリ漁りに出かけるまでに回復したからこそ起こり得た合併症だった。

誰も遭遇したことのない倫理的問題

 シャントの威力は発明者スクリブナーの予想をも越えるものだった。当初は入院で始められた透析だったが,やがて,外来で週2-3回施行すれば患者の状態をコントロールできることがわかり,患者の職場復帰も容易となった。スクリブナーにとって,瀕死の状態だった患者が,次々と劇的に改善していくのを見ることほど嬉しいことはなかった。しかし,彼は,自分の成功ゆえに,今まで誰も遭遇したことのない倫理的問題に直面することになった。
 透析には1人当たり年間1万5000ドルのコストがかかり,スクリブナーが勤めていたシアトル市のスウェーディッシュ・ホスピタルでは,どんなに頑張っても,病院として5人の患者に透析を施行するのが精一杯だった。当時の米国では腎不全で毎年10万人の患者が死亡するといわれたが,膨大な数の腎不全患者の中からたった5人の命しか救うことができないのだ。腎不全患者にとって,透析を受けられることは生きることを,透析を受けられないことは死ぬことを意味したが,どの患者が透析を受け,どの患者は受けるべきでないかという決定を,誰かが下さなければならなくなったのだった。
 生きることを許される患者と,生きることを許されない患者の選別を,誰が,どのようにしたらいいというのだろうか?