医学界新聞

 


名郷直樹の研修センター長日記

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さらばU村,よろしくZ市編

名郷直樹(横須賀市立うわまち病院 臨床研修センター長)


連載のはじめに

 社団法人地域医療振興協会 横須賀市立うわまち病院という臨床研修病院で,教育専任というあまり例のないポストで仕事をすることになりました。一体これからどうなるのだろう。そんな不安でいっぱいの中,こんな連載を引き受けてしまいました。いつまで書かせていただけるかわかりませんが,ウソとホントの入り混じった研修センターの真実(現実ではない!)の日々を,フィクションのかたちで書き綴っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。


×月×日
 今日は引越しの日です。
 長年勤めた僻地(へきち)診療所の職を辞し,臨床研修病院での教育担当という新しい仕事につくことになった,なーんて難しく言うのはやめよう。要するに,長い僻地勤務に少し疲れてしまって,ちょっと休憩させてくれ,そんなことだ。
 しかし長年勤めたと思っていたのは自分だけだった。ここU村をいざ去るとなると,どの患者さんも,
 「もう行ってしまうの?」
 そんな反応。患者さんにとっては,長いどころか短かった。確かにそのとおり。多くの外来患者さんは,10年以上前に私が赴任した時とほとんど変わっていない。50歳の人が60歳になり,60歳の人が70歳になり,70歳の人が80歳になった,それだけだ。変わったのはむしろ自分自身と自分の家族のほうだ。ここでおぎゃーと生まれた息子が,今年はもう中学入学である。長男はすでに高校で寮生活,長女も今年は高校入学である。
 僻地診療所での12年間は,自分のトレーニングにとってはまずまず十分な期間だった。しかし本格的な地域医療提供のためには,十分どころかまだまだこれからだった。住民の皆さんからすれば,12年の僻地勤務はあまりに短いものだった。後ろ髪を引かれるどころではない。後悔先に立たず。あとからするのが後悔だ。
 そんなことを考えているうちに,引越しの荷物を積んだトラックも,家族5人を乗せた車も,もう次の勤務地Z市へと出発する。空はあいにくの雨模様。下の息子の友だちが,傘もささずに,手を振りながら追ってくるのがミラーに映る。やばい,ただでさえ視界が悪いのに。

   花に嵐のたとえもあるさ,
   さよならだけが人生だ

 Z市への到着は,市内で散々迷った挙句の午前0時過ぎ,もうこれは一風呂浴びて寝るしかない。ところがどっこい湯が出ない。冷たい水で足だけ洗い,借りておいた布団にもぐりこむ。荷物はまだ明日にならないと届かない。疲れているから,泥のように眠ってしまうに違いない,と思っていたらこれがなかなか眠れない。寝たのか寝てないのか,気がつけば朝,Z市での初めての朝だ。どうかよろしくZシティ。

×月△日
 荷物も届き,お湯も出るようになった。昨夜の風呂は最高だった。積み上げられたダンボールはとりあえず無視して,散歩がてらとりあえず今度の仕事場を見ておこう。Z市立しおかぜ病院まで歩いて10分もかからない。
 そんなわけで,研修センターの拠点となる部屋を訪ねた。掃除機や使い古しの机が2―3,年代物のソファーなどが無造作に置いてある。壁つけのエアコンのスイッチを入れてみたがエアコンが動く気配はない(実は壁つけのスイッチは故障しており,リモコンでは動くことが後でわかったが)。
 門出を飾るにふさわしい部屋だ。ゼロからのスタート,最高の状況だ。でもちょっとやせがまん。
 やせがまんはすぐにばれる。こんなことならもう少し僻地でがんばるべきだったかもしれない。多くの患者さんが「行かないで」と言っていたじゃないか。息子の友だちだって……。新天地へ踏み出した最初の一歩が,底なし沼の中へずぶずぶとめり込んでいくような,それはちょっと大げさか。
 「机の並べ方をどうすればいいでしょうか。来月までに,机は入れておきます」
 「机は,」ということは,机以外はどうなっているのだろう。2歩目もずぶずぶとめり込んでいく。3歩目は進むべきか進まざるべきか。恐る恐る聞いてみる。
 「机以外はどうなっているのでしょうか」
 「徐々にそろえていきます。本棚は机に置くタイプのものだけですが準備しています」
 「徐々に」ということは,「机に置くタイプのものだけ」ということは,3歩目が,ずぶずぶどころか,1歩目の足がめり込んだまま抜けない……。

 虚々実々の研修センター日記,どうかよろしくお付き合いを。






 名郷直樹氏
1961年名古屋生まれ。86年自治医大卒。名古屋第二赤十字病院研修医(多科ローテート,消化器・一般外科)を経て,88年より作手村国民健康保険診療所で僻地診療所医療に従事。この頃,EBMのバイブルと言われるサケット著『Clinical Epidemiology 2nd ed. 1991』に出会う。1992年自治医大地域医療学で循環器疾患の疫学研究,Evidence Based Medicineを学ぶ。95年作手村国民健康保険診療所所長。2003年4月より現職。僻地医療現場から医学教育へと活動の中心を移す。主な著書に『EBM実践ワークブック―よりよい治療をめざして』(南江堂)がある。