医学界新聞

 

連載
メディカルスクールで
学ぶ

   第4回
   プロフェッショナリズム教育

  高垣 堅太郎
ジョージタウン大学スクール・オブ・メディスン MD/PhD課程1年

前回2532号

 ……この誓いを守りつづける限り,私は,世々とこしえに尊敬を受け,人生と医術の喜びに満たされて生きるであろう。しかし,もしもこの誓いを破るならば,その反対の運命をたまわりたい。
 僕らの医学生生活は,このヒポクラテスの誓いで始まりました。ヨーロッパの古城を思わせるような,彫刻と壁画で彩られた講堂に集まり,壇上で1人ひとり短い白衣を着せられ,上級生から校是のバッジを胸につけられて,2000年以上続いてきたこの誓いを口にすると,わが身に降りかかってくるさまざまな現実などは一瞬完全に消え去り,ただひたすら誓いを唱える自分がそこにおりました。
 今回は,ジョージタウン大学で行なわれている臨床前(1,2年次)のプロフェッショナリズム(職業倫理)教育を授業ごとにご紹介します。

プロフェッショナリズム教育をめぐって

 米国ではこのところ,医師のプロフェッショナリズム欠如の話題が絶えません。手術中に病院を抜け出して銀行で小切手を換金した医師の話,インターネット経由でバイアグラやオキシコンチンの処方箋を1万通以上発行した医師の話,患者の腹部にメスで自らの頭文字を刻んだ医師の話,毎月のように何かしら話題になり,医学関連の不祥事がマスメディアから消えることはありません。そんな社会背景もあり,メディカルスクールでの教育のあり方も厳しく問われています。
 これに対して,全国的に対策が打たれています。例えば,医学の卒前教育を統括するLCME(Liaison Committee on Medical Educationの略,公的認定機関)の現行基準では,以下の項目の教育が義務づけられています。
・behavioral science, socioeconomics
・cultural competence
・communication skills
・medical ethics
 また,この認定基準に沿って行なわれているUSMLEにおいても,Step1で該当分野の出題がありますし,3年後に本格導入予定のStep2のCSE(すでに実施されているECFMGのCSEと同等)でも対人能力が問われる予定です。
 全国の制度だけでなく,各校でも,卒業生の倫理水準を高める取り組みがなされています。全人医療,プロフェッショナリズム教育を標榜するジョージタウン大学のような学校に限らず,各校のさまざまな試みはリクルート段階でもセールスポイントの1つになります。
 倫理教育の前提はまず,入学審査の段階で明らかな不適格者を篩い分け,なるべくcompassionateな(おもいやりのある)学生を募ることです。前回・前々回(2532号2523号)とご報告したように,成績がいくらよくても,面接で人格問題が認められると,メディカルスクールには入学できません。入学して臨床前教育を受ける段階では一貫した方針として,学生の志を挫かせないこと,つらい状況下での燃えつき(burn-out)を防ぐこと,そして理想主義を保ちつつも徐々に医療現場の現実に慣れさせることが目標となっているようです。

Religious Traditions in Health Care

 ジョージタウン大学の医学生になって最初に遭遇するのがこの名物講義です。内容は大きく2つに分かれ,1つは世界の五大宗教についての概略や,医学や健康にまつわる世界観の諸相と施療上の禁忌などです。もう1つは,宗教や文化の精神作用,chaplainの役割や紹介のタイミング,患者のspiritual historyのとり方や宗教にまつわる法的な側面などで,すべての宗教に共通の内容として扱います。神を否定したアメリカの都会人は,医師に神父や牧師などの役割を求めているともいわれており,その意味で,患者の多様な宗教観をうまく聞きだしながら柔軟にニーズを満たすことが強調されていました。
 母体がカトリックの学校なので,統括は僧医の先生が行なっていますが,実際の授業には専門家,各宗教の病院づきのchaplainおよび外部からの各宗教の指導者が呼ばれました。
 *chaplain……病院(または学校,軍隊など)の付属司祭・牧師など。病院については,JCAHO(病院の公的認定機関)の認定基準でも,chaplainへのアクセスが義務づけられている。

Introduction to the Patient

 精神科の主催で,1年次の最初から週に1回程度,3か月にわたって開講されるこの授業は,10人程度の班で行なわれ,各班の教員は部長級の先生や定年前後の先生をはじめ熟練した精神科医・総合医が中心です(写真)。
 内容は2部に分かれます。第1部は学生の発表で,毎週の読書課題をもとに,死,病名宣告,性,人種,医師-患者関係,上手な話の聞き方など,患者を取り巻く社会心理的な諸問題についてです。第2部は,事前承諾を得た入院患者に対しての面接で,毎回代表者が患者個人のサポート体制や患者体験について面接し,社会的な側面や心理的な側面を検討した後で先生を囲んで話し合います。おなじみの短い白衣を着て「かもさんおとおり」のように病室を訪れるわけですが,医学的にはまだなにも手助けできないのだ,という無力感と同時に,聞くことの難しさも強く感じました。

Introduction to Healthcare

 1年次通年のこの授業は,保険制度,公衆衛生,過誤法などの医療にまつわる法規,家庭内暴力への対応,患者の代替医療の利用などについての全体講義と,少人数グループ授業に分かれます。少人数グループは,small-group形式と,service learningから選びます。
 small-group形式では10人程度の班に分かれ,年長の家庭医を囲んで読書課題についての討議,公衆衛生についての簡単な研究発表,ロールプレーを通しての医療面接の指導などが行なわれます。先日,sexual historyの回では,70歳でバイアグラを要求する患者の役を演じさせられて,なんといっていいのかたいへん当惑しました(医師役の同級生はもっと当惑していました)。仲間内でも面接の巧拙(演技の巧拙)はさまざまですが,最後に先生がお手本を実演する際にはそのうまさに毎回皆うならされます。
 またservice learning形式では,何人かで先生について,貧困地域での健診の手伝いや,周辺の高校での性教育などの授業といった奉仕活動に参加します。

Clinical Ethics

 この授業は1年の冬と2年の春に開講され,形式は20-30人のsmall-groupでの討議,読書課題,作文課題,発表です。1年次の授業は,advanced practice nursing studentたちと一緒に受講し,高学年では選択授業として自由研究ができます。
 *advanced practice nursing student……免許既得の正看護師が,限られた処方,診断,麻酔,助産などといった専門治療を施すための免許取得課程。

Ambulatory Care・Physical Diagnosis

 Ambulatory Careでは1年次後半から2年次の前半にかけて,全員が学内外の内科医・家庭医を1人割り当てられ,外来を見学します。また当たった先生によっては基本的な診察の方法を習ったり,見た疾患についての読書を課せられます。
 僕の先生は首都都心の開業医で,患者を交えての雑談は,社会,経済,国際事情,話題の本などと多岐にわたり,学業とは違った意味でとても大変で,とても刺激的です。また,その先生はcommon diseaseについてはそれぞれ簡単な総説や論文をいくつか用意しており,患者ごとに適宜,コピーしてくださります。
 2年次後半のPhysical Diagnosisでは,診断・検査の方法論を習い,同級生と組んで練習したり,病院で経験を積んだり,陰部検査などは模擬患者を対象に実習を受けます。

学科の授業での取り組み

 以上ご紹介したいわゆる臨床前の「bridge course(橋渡し的授業)」を通して,3-4年次の臨床実習に向けて,徐々に医療の現場に慣らされていきます。また,純然たる学科の授業でも,時折こういった側面を取り上げる努力がなされています。例えば,先日は遺伝学の授業に,2人の患者が招かれました。1人はBRCA(編集部註:家族性乳がんに深く関わる変異遺伝子)家系で4回目の再発の際に乳房と卵巣を全摘出した心理カウンセラーで,もう1人は70年代にfragile X(虚弱X症候群)の子どもを2人生んで,その後病因の解明とともに患者団体に加わって,積極的に活動している方です。患者としての実感,被差別体験などについての話と質疑応答がありました。

プロフェッショナリズム

 メディカルスクールの生活が続くにつれて僕自身も仲間もだんだんとシニカルになってきたように思います。
 医学そのものの性質としても,苦しみ(-passio)をともに(com-)担わねばならない職業であるということから,暗い世界観に引き込まれやすいことは事実かもしれません。しかし,それよりも重大な悩みは,医学生として医師業の末端に加わった今,アメリカ医療の直面するさまざまな問題の大きさが,徐々に明らかになってゆくことです。その現実の中で,医師たちは,「最後の聖職」の1つとして,健康保険制度などに端的に表れるアメリカ社会の歪みを真面に背負わされているのではないかとすら感じられます。
 今回お伝えしたような教育で定期的に医療の原点に回帰させられることで,僕らのすれ具合が緩和されていることは間違いないと思います。「すれる」などといったら,ヒポクラテスの末裔としては恥ずかしいのかもしれません。しかし,僕らが手取り足取り教えられているプロフェッショナリズムとは,一方では崇高な理想であると同時に,他方では,理想的とはいえない現実を踏まえたうえでの行動方針なのだと思います。つまり,どんな悩みや感情を呼び起こされても心の重心を失わずに,常にプロフェッショナルとしてcompassionateに最善を尽くしていくための,実践的な所作なのだと思います。