医学界新聞

 

連載(5)

    新医学教育学入門

教育者中心から  
学習者中心へ
  

成人の学習とは

  
大西弘高 国際医学大学(マレーシア)・医学教育研究室上級講師


2534号よりつづく

五月病になってしまった音長さん

 厳しい受験勉強の末,大学医学部に入学した音長学さんは,医師になるための授業がどんなに興味深い内容かと心待ちにしていました。ところが,英語は古典文学,化学は無機化学,数学は微分方程式……というように,必修単位の授業が本来の目的に合っているのかどうかがかなり疑わしく,すっかりやる気をなくしてしまいました。音長さんは,何とかやる気を奮い立たせなければとクリニックを開いて15年ほどになる叔父を訪ねましたが,
 「学くん。医者もねぇ,結構口やかましい患者の相手をするばかりの退屈な仕事だよ。結構飽きちゃうところがあるから,学生のうちから何か一生続けられるスポーツか趣味でも見つけておいた方がいいよ」
 と言われて,すっかり五月病になってしまいました。
 音長さんは,夏休みに大学の友人たちに誘われて東南アジア諸国を旅行することになりました。現地で挨拶や買い物ぐらいは1人でしたいと感じた音長さんは,とりあえず英会話を独学で学び始めました。旅行先ではタクシーや店員にぼられそうになったものの,何とか自力で切り抜けた音長さんは,さらに英語を勉強し,また旅行に行きたいと思っています。親から餞別をもらう時には,
 「これからの医者は英語が必須なんだから!」
 と理由をつけています。ともに旅行した友人たちと過ごすのが楽しくなり,授業が楽しく感じられるわけではないものの,音長さんは大学に行くようになりました。

大学の教育に対する姿勢

 音長さんが大学で受けている教育は,音長さんが学びたいと感じる要素がなさそうですね。大学の教員/教官が「大学は自分で学ぶ内容やプロセスを身につけるべき場所だ」と言うのを耳することがありますが,音長さんの大学では学生が何を学ぶべきか,どのように学んでほしいかに関してあまり考慮していないように見えます。
 しかし,夏休みを境に音長さんは成長しました。同じ英語でも古典文学はやる気が出ないのに,英会話だとやる気が出るという違いが表れています。夏休み以降,学ぶ目的を見つけ始めた音長さんには,自分を高めたい,いろいろな経験を積みたい,人とのつながりを増やしたい,医師になるまでに英語でのコミュニケーション能力を高めたいといった学習動機が生まれたようです。
 大学の教育に対する姿勢を考えてみましょう。教育者側が形式的,権威的に決めた内容を,教育者側の決めたプログラム,教育目標によって教えているという印象です。音長さんが学びたいか内容かどうか,将来役に立ちそうか,楽しく学べそうかという視点はあまり感じられません。前々回,学習と教育の視点の違いを示しましたが,今回はさらに「おとなが学習する」という視点を採り入れたいと思います。

成人教育原理

 米国成人教育学の父と言われるリンデマンは,教育と生活の関連を説き,学習者自身が「学習への要求や関心」を抱いた時に学習に動機づけられると述べました。また,自己決定の下で自己主導的に学習するという自己概念の変化,学習者自身の経験が持つ学習への役割も示しました。ノールズは自己概念の変化や経験の重要性に,学習へのレディネス,時間的観点を加えた4つを成人学習の前提としました。レディネスとは,自らの役割を果たすために学習の必要性や意義を感じて学ぼうとする気持ちの準備状態を指します。時間的観点とは,おとなになると「学んでおけば将来役に立つ」という考えから「具体的な目的や学ぶこと自体の楽しさのために学ぶ」などと近未来のある具体的目的のために学ぶように変化することを指します。
 音長さんは,海外旅行をきっかけとし,英語を学ぼうと自ら決定し,1人で学び,実際にどの程度うまくコミュニケーションできるか試し,さらに弱点を克服して学ぼうとしているわけです。ここには,成人教育のいろいろな要素が詰まっていると言えるでしょう。その結果,さらに自らを動機づけ,将来像とも結びつけようとしています。
 それに比べ,古典文学の授業は押しつけられたカリキュラムですし,必要性を感じなくても進級のために試験に通らなくてはならないという強制力が働いています。将来“教養”があるように見せたいというような役に立つかどうか曖昧で,それもいつ役に立つかわからない動機づけでは,それまでに学んだ英語の知識も活かされにくいですし,古典英文学を学ぼうという意欲が出ない可能性が高いでしょう。

学習者を「おとな」と考えること

 医学教育の多くの場面では,「学習者がすでにおとなである」というふうに捉えた方が建設的で将来性のある教育環境を整えられると思われます。「○○を学んでおけば,きっと将来役立つから」という教育者の言葉は,学習者がそれをなるほどと感じれば有効ですが,感じなければ「先生は自分の教えたい内容を押しつけようとしている」と受け止められてむしろマイナスになる可能性さえあるのです。
 ところで,カリキュラムという視点からは,教育者が教えようとしている内容を,学習者が学びたい内容と比較することは非常に有意義です。次回からはカリキュラムについて考えていきたいと思います。