第2536号 2003年5月26日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第18回

Conflict of Interest(利害の抵触)(4)
Patient vs. Patent

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2532号よりつづく

〔前回(2532号)までのあらすじ:遺伝子治療治験で被験者が死亡,治験のスポンサーは研究者自身が出資した企業であった〕

 前回,コーネル大学医学部のロナルド・クリスタル教授が,自ら出資した企業をスポンサーとして虚血性心疾患に対する遺伝子治療治験を行なったことを紹介したが,当時,虚血性心疾患の遺伝子治療領域でクリスタルの最大のライバルと目されていたのが,タフツ大学のジェフリー・イスナー教授だった。2000年2月,FDAは,イスナーが,ボストンのセント・エリザベス医療センターで行なっていた遺伝子治療の治験4件の停止を命令した。死亡例の未報告・インフォームド・コンセントの不備など,イスナーが主導した治験に数多くのルール違反が認められたことが理由だった。イスナーが治療に使用したのはVEGF2(血管内皮増殖因子2)遺伝子だったが,増殖因子遺伝子の投与が癌の増殖を促すことが懸念されたため癌患者は治験から除外することが決められていたのに,肺癌を合併していた症例にVEGF2の遺伝子治療を実施したことも問題とされた(患者の癌は遺伝子治療後増大した)。

学問的競争から商業的競争へ

 クリスタルの臨床治験のスポンサーがジェン・ベック社という,クリスタル自身が創設したバイオベンチャー企業であったのと同様に,イスナーの治験のスポンサー,バスクラー・ジェネティクス社も,イスナー自身が創設した企業だった。さらに,バスクラー・ジェネティクス社の最大出資者は,VEGF2の特許を保持するヒューマン・ジェノム・サイエンス社だった。イスナーは,VEGF2の遺伝子治療の治験が成功すれば莫大な財政的利得を得る立場にあったわけだが,虚血性心疾患の遺伝子治療におけるイスナーとクリスタルのライバル関係は,単に科学者としての競争にとどまらず,ジェン・ベック社,バスクラー・ジェネティクス社,ヒューマン・ジェノム・サイエンス社を巻き込む,商業的競争にも及ぶものだったのである。
 前回も書いたように,初めての遺伝子治療治験が公認されたのは1990年のことである。その後十数年間,遺伝子治療の領域については,その将来性のみが過大に喧伝され,慎重に科学的事実を積み重ねることよりも,商業的関心に基づく冒険的な臨床治験の数を重ねることが優先されてきた。数千の被験者を対象にあまたの臨床治験が実施されてきたにもかかわらず,有効性と安全性とが確固と証明された遺伝子治療は,いまだに1つとして存在しないと言ってよい。遺伝子治療の対象疾患にしても,治験が開始された頃は先天性の遺伝子異常に基づく稀な疾患がほとんどであったのが,遺伝子治療研究の商業化の進展とともに,虚血性心疾患や癌など「マーケット」が広大な疾患に偏るようになり,進歩の乏しさとは裏腹に,治験の数と被験者の数だけが増大し続けた(クリスタルにしても,初めは嚢胞性線維症の遺伝子治療を手がけていたのだが,後に,虚血性心疾患に対象を拡大するようになった)。

疑われた客観性と公正さ

 その一方で,遺伝子治療を研究する科学者自身が出資者としてベンチャー企業を興すことが常態化し,遺伝子治療研究の科学としての客観性と公正さに疑惑の目が向けられるようになった。臨床治験の成否に研究者自身の巨額の財政的利害が直結しているときに,客観的かつ公正な研究が行なわれ得るのか,患者の安全が損なわれることはないのかと,「利害の抵触(conflict of interest)」の影響が懸念されるようになったのである。
 一般に,「利害の抵触」とは,「ある役職に就く人が,その立場や権限を利用することで,その人自身や近しい人の個人的利得を得ることが可能となる状況」を言う。例えば,裁判官が,自身や家族の罪を裁くような状況に身を置いた場合である。利害が抵触する立場に身を置いた裁判官が取るべき処置は,自身を当該事案の審理から排除する以外にないことは言うまでもない。私情が入り得る状況では客観的かつ公正な判断を下すことができない危険があるし,仮に客観的かつ公正な判断を下すことが可能であったとしてもその意図が疑われることになるからである。換言すれば,「利害の抵触」に対する正しい対処は「利害が抵触する状況をつくらない」ことに尽きるのである。

研究者がやってはならないこと

 医学研究,特に臨床治験において,研究の成否が研究者自身の財政的利害と直結する場合も,典型的な「利害の抵触」に相当する。これまで,ジェシー・ジェルシンガーの死をきっかけに明るみに出た遺伝子治療治験のルール違反の数々を紹介してきたが,それぞれのルール違反が行なわれた背景に「利害の抵触」が大きく影響していた可能性があるのである。「合併症・死亡例のデータを公表すると自分が出資している企業の株価が暴落する危険がある」,「治験のルールを厳格に守って被験者を厳選していたら進行が遅れて競争相手に負けるかも知れない」等々,「利害の抵触」が治験実施時の公正かつ客観的な判断を損ない得る場面は枚挙に暇がない。研究者がそれと明瞭に意識しようがしまいが,「患者(patient)を取るか,特許(patent)を取るか」という判断を迫られることが起こり得るのである。
 裁判官の例でも述べたように,医学研究における利害の抵触に対する正しい対処も,「研究者は利害の抵触に巻き込まれるような状況に身を置かない」ことに尽きる。2000年4月,遺伝子治療臨床治験に関わる研究者の多くが「利害の抵触」を抱えていることに対する批判の高まりに対し,アメリカ遺伝子治療学会は,「スポンサー企業の株を所有している研究者は,ヒトを対象とした臨床治験に関わってはならない」とする倫理基準を定めた。