医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 「扱いやすい」という物差しを捨ててみて

 加納佳代子


 ふと思い出す光景がある。何気なく交わされた会話なのだが,その会話を強烈に覚えていて,何かの折りにその光景が浮かんでくるのである。
 もう40年も前,中学生時代のことで,私は生徒会の役員をしていた。放課後の生徒会室での上級生たちとの会話は,中学生の私が少し背伸びをしながら大人になっていく「人生の学校」でもあった。
 ある日,1人の上級生が節目のたくさんついた15センチ四方位の木片を手にして眺めていた。美術の時間にこの木片を削って顔を彫ることになっているという。ダンボールの箱に入ったたくさんの木片の山から,自分の気に入ったものを探すのだが,彼の選んだ木片は節だらけで,一見して思うように彫るには苦労するだろうとわかる木片であった。
 いつも人が嫌がる仕事をいとわずに担う姿をみせていた彼だったので,クラスの皆が彫りやすい木片をこぞって取り合い,最後に残ったものを彼の木片としたのだろうと私は推測した。
 ところが彼は,「いや,これは自分が選んだのだ」と言う。級友の誰もが,このごつごつとした節目の多い木片を払いのけて,加工しやすいものを探すのを見ていて,自分はこれを選んだという。
 黙って待っていれば,きっと最後に残るだろうから,それに甘んじてもよかったのだが,それじゃあこの木片に悪い。
 級友にことごとく排除されていく,その扱いにくそうな木片に愛着を持ったから,自分は敢えて選んだのだと言う。
 排除された木片が彼の手元にあれば,もう誰にもこの「最悪の木片」が当たってしまうことはない。
 「いいなあ,これ。俺,これにするよ」
 このひと言は,扱いやすい木片を選ぶのにやっきになっていた級友たちに,
 「えっ? こんな扱いにくそうな木片が,そんなにいいものなのか」と思わせただろう。「変ったヤツだなあ」とも思っただろう。しかし,彼は本当にこの節だらけの木片が気に入っていたのだ。
 級友が排除したからこそ敢えて選んだということ,ごつごつとした木片をしみじみといいなあと言っていたこと,「そりゃあ,扱いにくさ。だからいいんだよ」と言ったこと,そのどれもが当時の私には新鮮な言葉であった。
 40年前,中学校の生徒会室で交わされた何気ない会話は,何かの折りに思い出され,そのたびに新鮮な響きをもってあの時の情景が浮かんでくるのである。
 自分にとって扱いやすい人間が,自分にとって必要な人間というわけではない。経験を積んでいくとそのことがわかるようになる。そもそも扱いやすいなどという価値観を持つことが,ずいぶんと失礼なことである。
 扱おうと思うから,扱いにくいか扱いやすいかが気になるので,扱いやすいかどうかの物差しを捨ててみると,相手の個性がみえてくる。扱うことをやめて,相手が何者なのか見てみようとすれば,相手のくせを発見することがおもしろさとなる。節の多い木片の主張を聞こうとすると,おのずと木片の使い道がわかってくるということなのだろう。
 自分もかたくななくせを身につけた節だらけの人間である。さぞかし扱いにくいことだろう。