第2526号 2003年3月10日


《座談会》

わが国の精神科医療の歴史をめぐって

『日本精神科医療史』発刊に寄せて

原田憲一氏
(前東京大学教授)
岡田靖雄氏
(精神科医療史研究会世話人/
元・荒川生協病院医員)
松下正明氏<司会>
(東京都立松沢病院院長)


『日本精神科医療史』について

松下<司会> 今回,岡田靖雄先生が『日本精神科医療史』という大著を出版され,大変啓発されました。そこで本日は,これを機会に,歴史に詳しい原田先生と著者の岡田先生を交えた3人で,現代の精神医療のあり方等についてお話をしてみたいと思います
 最初に,岡田先生からこの本を執筆なさった動機をお聞かせいただけますか。
岡田 私は医師になった2年後の1958年4月に松沢病院に移りました。その頃,立津政順先生の論文「戦争中の松沢病院入院患者死亡率」が出され,そこに,敗戦の年に死亡率が40%を超えたという記述があり,大変衝撃を受けました。
 もう1つは呉秀三先生との出会いです。1962年頃から精神衛生法改正が問題になり,勉強を始めた時に呉先生らの「精神病者私宅監置」を読みました。有名な「我邦十何万ノ精神病者ハ…」という文章に感激しました。
 しかも,この論文は忘れられていたのですが,それをいわば再発掘したわけです。歴史というものは決して,ただ過去のことを学ぶのではなく,現在の問題にどう取り組むかの指針だということを知らされました。松沢病院,東京大学は呉先生の下にあって,資料が豊富にありましたので,歴史の研究をするためにはよかったと思っています。
原田 松沢病院の敗戦時の患者死亡率の話が出ましたが,岡田先生のご本によると平時の,例えば大正時代の死亡率が25%,それは一般病院の10倍だというほうがむしろ驚きですね。そういう史料を踏まえた上ですので,日本の精神医療が戦前から貧しく,差別されていたというこの本の主張がよくわかります。
松下 いくつかキーワードが出てきましたので,それらを中心に話を進めていきたいと思います。
 1つは呉秀三先生。それから松沢病院,戦前の精神病院,戦後の精神病院のあり方。また戦争の話が出ました。これらと現代の精神科医療と結びつけるものを考えてみたいと思います。

資料:近代日本精神科医療略史(『日本精神科医療史』より抜粋)
1901年留学より帰国の呉秀三東京帝国大学医科大学教授。呉秀三東京府巣鴨病院医長に(翌日には手革足革を禁止)
1902年(4月)第1回日本連合医学会(現:日本医学会総会)開催。呉秀三・三浦謹之助,日本神経学会を発足させる(機関誌『神経学雑誌』創刊)。
(10月)呉秀三主唱による精神病者慈善救治会発足
1904年(4月)東京府巣鴨病院,院長制に復帰(呉院長),外来診療開始。
(12月)精神病科懇話会設立(→東京精神病学会)
1906年帝国議会で医学校に精神科設置をのぞむ建議案を可決
1908年医学専門学校で精神病学必須となる
1910年東京帝国大学医科大学精神病学教室による私宅監置調査始まる
1911年第7回帝国議会「官公立精神病院設置ニ関スル建議案」を可決
1912年呉秀三「我邦ニオケル精神病ニ関スル最近ノ施設」
1914年東京帝国大学医科大学に精神病科外来診療所設立
1916年精神病者慈善救治会寄附による東京帝国大学医科大学精神病室落成式。
1917年日本精神医学会設立
1918年呉秀三・樫田五郎「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」の掲載始まる(『東京医学会雑誌』)
1919年(3月)精神病院法,結核予防法公布。
(11月)東京府巣鴨病院は府下松沢村に移る(東京府立松沢病院)
1920年日本精神病医協会設立(~1935)
1931年日本精神衛生協会正式発会(機関誌『精神衛生』発刊)
1935年「日本神経学会」が「日本精神神経学会」と改称(機関誌は『精神神経学雑誌』に)
1936年東京帝国大学医学部脳研究室開所。
1949年日本精神病院協会設立
1950年精神衛生法公布
1952年国立精神衛生研究所開所
1954年第1回精神衛生実態調査
1955年精神分析学会発足
1958年日本精神科看護協会発足
1959年『精神医学』誌創刊
1960年第1回日本精神身体医学会総会
1964年ライシャワー大使刺傷事件
1965年精神衛生法改正案成立。全国精神障害者家族連合会結成大会

日本の精神病院の歴史の特徴

松下 岡田先生,日本の精神病院の歴史について,特徴的なことをひと言でいうとどうなるでしょうか。
岡田 病床数が圧倒的に少なかったのです。しかもきちんとした統計が少ない。私が調べた範囲では戦前の最高が1941年の人口万対3.3床で,そのほとんどが三府(東京・大阪・京都)に偏っていました。
 それから,外国では公的な性格の精神病院がほとんどですが,日本の場合は圧倒的に私立です。1919年に精神病院法ができて,国として精神疾患患者を治療する責任をはっきりさせたわけですが,法律はできても予算がつかない状況でした。日本はいつもそうなのですね。
松下 現代では精神病床は多く,わが国の入院中心の精神医療は世界から批判を浴びております。むしろ精神病床の減少が叫ばれていますが,その点に関してはいかがでしょうか。
岡田 ある時までは必要だったと思います。むしろ,病院が少ないことから,私宅監置という形で座敷牢に入れられて,患者はひどい処遇を受けてきました。
 そして,現在は戦後の病床の増加にどうして歯止めをかけられなかったかという問題があります。
松下 たしかに,ある程度の病床数は必要でしょうが,明治時代には少なかったわけです。もしもそれが,外来中心という意味で少なかったのならば,それはそれで生かすべきだったのではないかと思いますが,実はそうではなかったわけですね。要するに,「精神医療の考え方が普及しなかったから少なかった」という側面があるので,少なかったことを強調するよりも,むしろそちらを強調したほうがよいと思いますが。
岡田 家庭看護と言われるものを,どの程度延ばしていけたかという問題があります。ただ,そのまま延ばしていけるしっかりしたものは育たなかったのではないでしょうか。
松下 私宅監置という問題ですが,家庭で見るという意味ではメリットも多少あったかと思うのですが,いかがでしょうか。
原田 当時の私宅監置と精神病院のどちらがよいかという問題もありますが,少なくとも私宅監置されて,檻のようなところに入っている人にとっては,やはり病床,しかもよい施設があるべきだと思います。
 あの頃は病院の病床数が少なく,さらに大学に精神科教室がない時代ですから,呉先生は専門教育と病院をもっと作れというご意見だったわけです。
 精神病院の病床増加が,戦前は米価と並行していたという岡田先生の指摘は,正直驚きました。
松下 精神病院の適正数というのは大変難しい問題で,一概に割り切っては言えないと思います。
 ただ当時は,精神科の患者さんを治すのは病院の中だという思想が厳然としてあったので,精神医療の発展イコール精神病院の増設という見方があったと思います。

「結核」と精神病院

松下 先ほど,大正時代の精神病院の死亡率が高いというご指摘がありました。それは環境が悪かったこととイコールと考えてよいのでしょうか。
岡田 医療施設というより,収容所性が強いということです。松沢病院の死亡率が高くなったのは,物価上昇に予算が伴わなかったわけです。
 巣鴨病院から松沢病院へ移ったのは,米騒動の頃ですね。おそらく,副食費が減らされて,外米もかなり使われています。外米が脚気の原因ではないかということになっていますが,それで脚気が増え,死亡率も増えているのですね。しかも,自費と公費の患者さんとでは,死亡率が2倍ぐらい違います。
松下 そうですか。私は死亡率が高いのは結核のためかと誤解していました。むしろ脚気などのほうが多いですか。
岡田 結核と精神病院は切っても切れないもので,世界的に結核による死亡率は多かったのではないですか。分裂病のメタトウベルクローゼ説,結核菌の作用で分裂病が起こるという説も出かけたわけです。分裂病の患者さんに結核の人が多いという数字が出ています。
 統計的には,死因では結核が一番多くて,脚気がその次です。

「精神病者慈善救治会」について

松下 次に,呉先生をキーワードとして話をうかがいたいと思います。
 呉先生は今年が100年にあたる日本精神神経医学会の前身である「神経学会」を,また「精神病者慈善救治会」を創設され,日本の精神科医療の発展にとって,言い尽くせない努力をなさいました。
 原田先生,慈善救治会のことをお話しいただけませんか。
原田 呉先生が100年前に「精神病者慈善救治会」という組織を作り,最初は主として巣鴨病院の入院患者さんに対して物質的な援助,慰安を行ない,また精神科医療の内容を充実すべく,東京大学構内に病室を作られ,また外部に相談所を作られたりしました。精神医療そのものを充実させていこうという動きだと捉えられます。言ってみれば,日本の精神医療,精神衛生関係で最初のNGO,NPO運動です。
 呉先生は当時のヨーロッパからも多くを学ばれてこのような活動を始めました。ヨーロッパでは,精神病院を増やしても増やしても足りない。過剰入院も多い。入院して病状がよくなっても,退院していく先がない。精神病院に対する社会の不信,非難が高まるといった状況があった。退院させ,社会復帰,地域療養を何とか促進しようというのがドイツのHilfsverein(救援会)やイギリスのアフターケア協会の活動目的でした。呉先生の心中は複雑であると思います。呉先生の目の前にある日本の精神医療は,ヨーロッパでの問題以前の,まだ圧倒的に病院医療が不足している状態だったのです(当時のヨーロッパでの精神医療の問題は,まさに100年遅れて,今,日本のそれである!)。
 その後,わが国にはアメリカからの精神衛生運動の形も取り入れました。戦争中はすべてこれらの活動は停滞しましたが,戦後はいろいろな精神保健関係の事業,民間の運動体ができまして,最近は活発に活動しています。セルフヘルプ活動もそうですし,さまざまな相談・援助活動や地域精神保健組織が拡大しつつあります。
松下 精神病者慈善救治会ができた背景の1つは,時の政策の問題があったのではないでしょうか。政府は精神病者に何もやってくれないから,別のルートから救ってあげなければいけないという発想があったわけですね。
岡田 原田先生が言われたように,ドイツの精神科病院のHilfsvereinに学ぶところが多かったわけです。
松下 基本的に精神医療に対しては,行政と民間が車の両輪としてやらなければいけないという思想はあったのでしょうね。
原田 そうでしょうね。
岡田 行政との関係といえば,東京帝国大学は精神科の病室を持っておりませんでしたので,精神病者慈善救治会が寄付しています。呉先生は大隈重信首相と接触があって,病室ができた時に大隈首相が来て挨拶してくれました。病室を作る援助をしてくれてもよかったと思いますが,挨拶だけに終わっているわけです。
原田 当時の国の施策からいえば,精神病対策などはずっと下位ですからね。
岡田 帝国大学の中には「巣鴨にあるからいい。本郷の構内には精神病者を入れるな」という空気が強かったですからね。
松下 精神病者慈善救治会は日本の精神衛生運動の始まりとも言われていますし,原田先生が言われるように,それが現代のNPOへと広がりをもってきたということは事実です。呉先生が当初描いた方向で,その後の100年の歴史は動いたと考えてよいのでしょうか。
原田 岡田先生のお考えでは,呉先生の思想がそのまま広がってきたのではなく,戦後新たに欧米からきた刺激によって動き出したということですが,その通りでしょう。
 呉先生の思想が徐々に力強くなってきたとは残念ながらとても思えません。
岡田 そうですね。その点で特に顕著なのは,退院患者さんのリハビリテーションのために作られた小金井の収容所ですが,当時のことですから,病院としては設備が不適切だということで認可されずに終わったのです。
 大震災直後にお茶の水で無料診療をやったし,通所の作業患者さんがいたわけですから,呉先生がやろうとしたことは,全部が実現はしなかったけれども,戦後もわれわれの時代になってから展開するようなことを志していたわけです。それがいったん途切れて忘れられていたのですね。

「日本精神神経学会」について

松下 次に学会についてですが,日本神経学会(現:日本神経精神学会)が1902(明治35)年にできて,昨年100年を迎えました。そして同時に,機関誌『神経学雑誌』も100年を迎えるわけですが,これも呉先生の指導の下に創刊されました。
 歴史的にはその年に,大日本連合医学会というものができたことがあります。それに“乗り遅れない”ために,精神科という1つの組織を作りたいという考えがおありになって,神経内科の大家である三浦謹之助先生に声をかけて,呉先生が主導権をもって実現したといういきさつがあったのではないでしょうか。当時,呉先生は教授になられて2年目で,血気盛んな時期でした。
 しかし,精神医療の専門家が数も量もきちんと育ち,その中で専門の学会を作りましょうという状況ではありませんでした。
 当時は,日本の精神科の専門家は100人もいなかったと思います。でも会員数は1年目に800人ぐらいで,ほとんど内科系の人たちが入っています。つまり内科系の人たちを巻き込んで学会を作らざるを得なかったところがあるのでしょう。
 その後の学会の100年の歴史は,それを引きずっているのではないかという気がします。当時,純粋な精神科医が育っていたら,むしろ神経学会ではなく,「精神」の名前をつけた学会ができたに違いないと思います。
 一方,東京大学の講座名は「精神病学講座」でしたが,学会には「精神」を入れなかった。ここに呉先生なりのある種の悩みがあったのではないでしょうか。
岡田 その点について呉先生のお弟子さんが,「世人が『精神』という言葉を忌み嫌った」と言っています。また,呉先生が書いたものを読んでも,「精神病学」というものが必ずしもまともなものとして見られなかったからだと思います。
 当時の精神疾患は脳疾患であるという考え方が,神経学と一緒になった理由としてあるのではないでしょうか。いろいろな意味で,なぜ神経という言葉を選んだかというのは簡単には言えないと思います。
松下 私は呉先生は三浦先生にかなり気を遣っていらしたと思います。三浦門下の内科医をかなり会員に引き込みました。
岡田 関連領域の人を引き込んでいるのは事実です。当時の東京帝国大学医科大学の教授のほとんどが会員になっていますし,主だった人が評議員になっています。
 それから,心理学の領域の人も入っています。ですから,会員数をみますと,1500人ぐらいになったのが,10年ぐらいで1000ぐらいになっています。引き込んだ人のかなりの方が去っているのだと思います。
 初年に会員だった人の素性を確かめましたが,やはり精神科ということがはっきりしている人のほうが,神経病学の人よりは多かったと思います。
松下 私も調べてみたのですが,5分の3は地方在住,5分の2が東京です。
 東京の方はおっしゃるように心理学や解剖などさまざまな分野の方がいますが,地方の方は,ほとんどが開業医か勤務医ではないかと思います。400人ほどだと思うのですが,そのうちの大半が内科の医師ではなかったかと思います。
原田 ヨーロッパでも1850-60年代まで,日本では明治中期になってさえ,内科の中で精神科を教えていたという時代でした。
 当時はようやくヨーロッパでも専門分化し始めて20-30年というところですから,地方の内科の先生で精神病学に関心を持っている人たちがいたわけです。
岡田 神経学会を作る時には,呉先生は非常に積極的な組織力を示したようですが,その時は榊保三郎先生がかなり準備していたようです。呉先生が教授を辞めたとたんに,精神病者慈善救治会の力も落ちてきます。強力に人を組織するというような面,政治力のようなものは呉先生にはなかったと思います。そこが,呉先生の長所でもあり,短所でもあると思います。

「1960年代体制」について

松下 いくつかのキーワードをあげて,それに沿ってお話していただきました。
 この他にも,戦時中の精神医療の話や戦後に精神衛生法ができた時からの精神医療の話などお聞きしたいこともありますが,時間の関係もありますので,現代に話を移させていただきます。
 岡田先生のこの本の大きなポイントは,1960年体制の打破なくして日本の精神科医療の改革はないというのが基本的な線としてあったと思います。そのへんのことを,お話しいただきたいと思います。
岡田 1960年体制については,昔『精神科慢性病棟』という本に,松沢病院で自分のかかわった動きを書きました。
 この本では,それをそのまま繰り返しているに近いのですが,あの当時に私的病床が伸びていく傾向がはっきりしてきて,例の「特例」で医者・看護者は少なくてよい,そして土地の問題もあって,居住地から離れたところにできる,しかもそれも単科の大病院です。そこに送り込む。日本的な精神科医療の戦前から続いている基本的な方向がはっきりした形で1960年前後に定まりました。ご承知のように,精神保健法や保健福祉法が変わって,いろいろ試みはされましたが,やはり入院中心主義というのは変わっていないわけで,1960年体制というのは確固としてあると思います。
松下 岡田先生のおっしゃる1960年体制というのが,単科の大精神病院への詰め込み,入院中心主義とイコールとするならば,おそらくご指摘のように,今も日本では続いているし,それは世界各国からの批判が最も集まるところです。
 「精神科アビューズ(精神科乱用)」という言葉があります。ある論文に,世界三大の精神科アビューズがあるとして,1つはナチスの精神科患者の殺害,1つは旧ソ連の反体制運動家の精神病院への収容,そして1つは日本の精神病者の処遇。この3つがあげられていました。

現在の問題と今後の課題

松下 それもさることながら,問題はなぜそうなったのかということです。そのあたりをきちんと分析し,今後どうすべきかという方針を出すことが大事だと思います。
 原田先生のご意見はいかがでしょうか。
原田 日本の精神医療への批判は,精神病者の迫害ということに対するものですが,一方で岡田先生はこのご本の中で公平に,よくなった点もあげておられます。例えば,精神医療センターができたこと。通院公費負担ができたこと。作業所が急速に広がっていることなどです。
 また,外来診療所がこの頃広がっていることもあります。現在約4000か所ですか。大雑把に言って,1つの診療所が実数100人の患者さんを診ていると思います。そうすると,それだけでも40万人もの人を外来で診ていることになります。精神病院の外来も患者さんが非常に増えている。これは,おそらく世界的に見ても,評価できることではないでしょうか。
 しかし,このようによい面がたくさん出てきているのに,入院患者の絶対数が減らないわけです。入院が多いのはどうしてか。どうすれば減らせるのかという問題がありますね。
 その問題を考える時,精神医療の対象が一時代前とかなり違ってきていて,入院・外来ともその部分が増えてきている問題があると思います。最近の外来で苦労するのは境界例や思春期の方が増えていることがありますし,もっと広い意味では学校の問題,子どもの問題などがあります。精神医療の対象が拡散し,拡大している。安易に対象を拡げることは注意すべきですが,必要なことには力を尽くすべきでしょう。
 なお,今度厚生労働省から出た「新障害者プラン」では,今後10年で7万2000床の病床削減が提唱されていますよ。それを,どのように実現させていくか,私たち当事者の責任です。
岡田 今のままでいくと,結局,病床は減らすけれども,病院の敷地内に,かつての中間施設と言われていたものを作ろうとすることになる。私はイタリアが精神科病院を廃止したというのは正しいと思います。やはり,一般病院のなかの精神科であるべきです。以前から言っていることですが,サンダル履きでお見舞いにいけるような近所の精神科病棟です。そうすれば,病院の密室性などあり得ないことです。そういうふうに切り替えないといけないのです。
 どのように切り替えるかは難しいと思いますが,目標をそこまでもっていかないと駄目ではないかと思います。
松下 私なりに考えがありますが,現在は国の施策で社会復帰施設が年々増えていますし,診療報酬改定等を通して精神科の医療をできるだけ上げるようにして,質の低い病院は淘汰していくという方向にありますね。それは正しい方向をとっていると思います。それから国が社会的入院者の7万2千人を退院促進するという方針を打ち立てました。私はそれでも不十分で,10万床以上減らなければ精神医療の質は高くならないかもしれないと思いますが,そういう方向も少し出てきていることはよいのではないかと思います。
 また,医師と患者さんの比率が48対1というデータがありますが,私は少なくとも16対1ぐらい,あるいは一般科並みの8対1にしなければ精神医療は絶対に質が向上しないと思います。ただ,それをきちんと法律的にするにはいろいろ問題があるでしょう。
 今度の改正でも,精神病院協会から抵抗がありましたが,例えば16対1にすることによって,かなりの病院が淘汰されると思います。病院によってはほとんどやっていけなくなる事態になる。それで病床を減らしていき,そういう病院はむしろ診療所みたいなかたちで再起してもらって,診療所をどんどん増やしていくという方向に向けていく。かなりドラスティックにやらないとだめだと思います。
原田 病床を減らすのは大賛成ですが,医療費を上げて,医師・看護師の病床数当りの人数を大幅に増やさなければ,きちんとした治療もできないし,患者の人権も守れないですね。
岡田 後は減床補助金を整備することです。炭坑を廃止する時や紡績の織機を廃棄する時に補助金を出しましたね。単に医療費で誘導するということだけでは足りないと思います。
 私的精神病院の功罪はいろいろありますが,国がやらないことをあるところまで担ってきたのですからね。しかし,うまくそういう方向へ行くかどうか。この差別医療に対して,違憲訴訟まで行かなくではだめかなという気も強いですね。
松下 私もそう思います。本日は長時間にわたり貴重なご意見をお聞かせいただきましてありがとうございました。