医学界新聞

 

《プロフェッショナルな外科医を育てる-心臓血管外科領域の新しい動向》

経験が足りない日本の心臓外科医

米田正始氏(京都大学教授・心臓血管外科学)に聞く


●国際基準から格段に遅れた日本

―――2002年に,厚生労働省から外科手術件数の施設基準が示されました。海外でスタッフ心臓血管外科医としてのキャリアを積まれた先生から見た印象をお聞かせください。
米田 「厚生労働省の『年間症例数100』に根拠がない」という批判はありますが,世界的にみたらどんなに少なくとも500例は必要なところを,日本の実状―――99%の施設は潰れてしまう―――に合わせ,せめて最低限100例は行なってほしいという考えだと思います。実は,胸部外科学会でも専門医の質向上のため「ボーダーラインを100例にしよう」という声がありましたが,それでは日本で施設の2/3が除外されてしまうため,75例となりました。学会も当初は政府と同じ考えでしたが,結局は政府にさえ遅れをとってしまった形です。力弱い仲間を見捨てられないという心情は当然理解できますが,角をためて牛を殺すことになりはしないか,という懸念が強まっています。世の中の状況はそれほど厳しいのです。
 一方,欧米では「一人前の心臓外科医」になるには執刀・助手・術後管理とりまぜておよそ5000例ほどの経験が必要です。不文律ですが。年間2000症例をこなす施設なら1人が1000例以上は診るあるいは学ぶことができ,5年でゆうゆうと5000例に達します。最近ではドイツのように,年間3000-5000例の大施設で束ねる国もあり,世界の情勢はより改善方向にあります。日本の現状では,仮に年間50例としたら,欧米の基準に達するのに100年かかる計算になり,せめてその半分の2500を目標としても50年かかり,この違いは致命的です。
 この傾向はアジアも同様で,中国も1000例が基準です。上海もそうですし,北京では年間4000例の病院があります。できたばかりで年間300-400例の病院もありますが,1000例ぐらいを目標にしています。ベトナムも年間1000例が標準です。初めての国立の大学病院として私たちが立ち上げたチョーライ病院でも300を超えており,いずれ1000例に達するでしょう。これは韓国,台湾,マレーシアやシンガポール,インドネシアなども同様です。基準が1000例を大きく下回っているのは世界で日本だけです。
 このままいけば,日本の心臓外科は成り立たなくなり,結局,患者さんに迷惑がかかってしまいます。この意味で年間100例というのは議論の対象にさえならないレベルというのが国際的な見方です。
 高度な専門技術が問われる手術は,熟練した手術チームではじめて可能になります。そして,どんなに手術が上手くても,手術中には不測の事態が起こるものです。運悪く合併症が起こりそうになっても,術後管理を含めて5000例の経験があれば,何か起こりそうだと「ピン」とくるため,すぐに手が打てるのです。一方,経験が少ないと,理屈だけで考えて余計なことをしたり,逆に後手に回ってしまう。外科,特にスピードが要求される心臓外科では,学問というよりは知的スポーツという側面も大きいため,例数がすべてではありませんが,熟練度つまり場数を踏むことは手術に携る者にとって重要です。

日本では外科手術をどれだけ経験できるか

―――では,日本では外科手術をどれだけ経験できるのでしょうか。
米田 どの施設でどう研修するかによりますが,例えば年間150例を経験できるなら数年でさしあたり1000例前後になります。そこからさらに次のレベルの研修に入り,留学での経験分などを加えて2000-3000例にはなります。まだ不十分ですが,そのレベルからなら打つ手はあります。こうした観点から,私たちは5年前から,年間症例数が100例を大きく下回る関連病院には,改善傾向がなければ研修医を送らないことにし,また例数を考慮したローテートを併用し,仕上げに臨床留学を活用しています。これまでに,例数がきわめて少ない2つの関連病院から撤退し,2つの病院への応援をやめています。好んでこうしたことをやっているのではなく,若手や日本の将来を考えて私たちも身を切る努力をしているのです。この100例規制問題をめぐっていわゆる核拡散防止条約問題と同様の「持てる者」と「持たざる者」との対立構造が存在し,ともすれば「君たちは例数が足りているからいいよな」というズレた話になりがちで,議論が進めづらいところがあります。
 個人的には長期的・最終的には400-500例規制ぐらいにまで持っていくべきと思います。それなら現在の私たちも当然アウトになり,生き残るために近隣施設と協力してより優れた制度を作るためのきっかけになり,結局好ましい結果に結びつくと思います。つまりこの問題は皆でともに苦労することが不可欠な問題と考えています。
 ともあれ例数が少ない施設に研修医を送らないようにしたのは,医療の水準からみてよくないと考えているからです。私が患者なら,そうした病院では手術を受けたくありません。だからこそ例数が少ない病院から撤退したのですが,そこには,日本的といいますか,さっそく他の医局から人が行っています。症例が少なければ若い人が犠牲になるから撤退したのに,その代わりに他の医局の若手が犠牲になったというのでは,全然うれしくありません。医局によっては,大学では1例もできないから年間10例でもとそうした病院にいく人がいて,日本が抱える根本的な問題を感じます。
 また,医療費の観点からみても,症例が少ない施設をそのままにしておくのは社会の重い負担になります。年間例数がどんなに少ない病院でも人工心肺,モニター,ベンチレーター,IABPなど手術や管理に必要な器材はすべて装備することになります。これは,膨大な赤字を抱えて,国家の借金返済に2-3世代かかると言われる日本において,無用な医療費の浪費と指摘されています。まして車で5-20分のところに,もっとしっかりした施設がある場合が多いわけですから,国がいつまでこうした無駄遣いを認めてくれるのか,よく考えるべきです。医師が見識をもって構造改革しなければ,政治家が金銭勘定だけで制度を変える日が来るかもしれません。
 「日本では少ない症例を工夫してうまくやってきた。これが日本の医療の姿なんだ」というご意見もありますが,それは古い制度の存続を前提とした議論であり,よりセンター化したシステムで同じ努力をやればもっと優れた,世界に誇れるような医療が展開できるでしょう。また例数が少なめでまずまずの成績を上げている施設があっても,そのトップは大抵の場合,例数が多い施設で研修を受けた経験があります。例数がそれほど要らないというなら,例数が少ない施設でそこまでの人生のすべてを過ごした外科医の成績を調べれば実態がよくわかるでしょう。
 なお100例規制については,施設基準よりも外科医基準のほうが好ましいという意見も多く,これも検討に値することと思います。それにより,優れた外科医を雇う施設は浮上する,したがって外科医もやりがいがある,張り切った人生が送れるからです。しかしその基準を改良する場合でも,施設の総数を抑制する必要は今後避けられないものと思います。これまでの余裕ある経済情勢が続くという前提に立った議論はもう止めるべきでしょう。時代は変わりつつあるのです。

●悪しき諸問題

門番外科

米田 あまりよい言葉ではありませんが,「門番外科」という言葉があります。これは,内科での治療中に事が起こった時に,施設内で処理したいがために存在するような外科です。したがって年間手術例数はかなり少ない。普段は症例をあまり送ってくれないのに,緊急あるいは事故の時だけ送ってくる。しかし,平素手術をあまりやっていない外科医が難しい緊急例を余裕をもっててきぱきと手術できるには無理があります。しかし,そうした病院へ外科医を赴任させるのを渋ったりすると,ある種の内科医は「そちらがだめなら,他医局から来てもらう」と言い,一方で症例数の少ない医局はここぞとばかり人を送りますから,いわばダンピング的状況となって,外科医をとりまく環境はますます悪化します。この手の話は全国あちこちの先生方から耳にします。
―――ある心臓病の患者さんの治療にあたり,内科の選択肢もあるのにかかわらず,診療報酬との関連で外科での治療を優先する施設もあると聞きます。
米田 病変がゆるくて適応がないのに,手術や治療をしたという話を聞いたことがあります。逆に外科手術の適応なのに,内科治療を繰り返し続けるというという話はもっとよく耳にします。他にも,バイパス手術の場合,まず3本をオンポンプでつなげて,1か月後にオフポンプで別の血管をつけて2例稼ごう,という話を聞いたことがあります。あるいは紹介病院や救急車にリベートを出すなど。今後は保険審査委員会などが司直とタイアップして,こうしたパターンも見逃さず監視する必要があるでしょう。

手術周辺の問題

米田 現状では残念ながら,心臓外科の門をたたいた研修医全員が将来術者にはなれるとは限りません。術者になれる確率を上げるべくいろいろな努力していますが,海外には及びません。開心術が年間100例でも医師は最低3人必要になります。その中で2人もいれば手術自体はできますが,2人で術後管理を回すには,1日ごとに当直することになり結構大変ですから,長期的には成り立ちません。
 また,この問題を解決するために,例えば術後管理については,海外の一部施設のように外科的止血以外は麻酔科やICU科に担当してもらうなども考えられますが,日本の現状ではそれらの科も人手不足なため無理があります。新しい方向として,一部の病院では心臓外科の術後管理補佐を多数経験したコメディカルが現場で活躍し始めていることです。術後管理を熟練したコメディカルに手伝ってもらうことも1つの手です。医師でない人が医療をやるという形にならないように注意は必要ですが。

●心臓血管外科医の専門教育について

外科専門医制度とのリンク

米田 昨年(2002年)の4月から,心臓血管外科など外科のサブスペシャリティの専門医になるのに,外科専門医の取得が必須になりました。これは基本的によい制度と思いますが,消化器手術の手法と,心臓血管手術の手法とは相当異なるため,必ずしも役には立たないという側面もあり注意も必要です。例えば鈍的剥離は血管内皮を傷つけることが多いので,心臓血管外科,特にCABGなど小口径血管を扱う領域ではあまり推奨されませんが,腹部外科では普及しています。
 さらに,心臓血管外科領域を年間100-150例ずつ経験するケースでは,7年で1000例前後に達しますが,もし一般外科での長期間の研修が必須となれば,一人前になるのに10数年以上かかります。もしそうなると,若い人たちが研修に耐えるだけのモチベーションが維持できるのか心配です。何年かかっても一人前になれるかどうかわからない,またその先に希望の持てないような領域には,誰も行きたくないでしょう。それと多くの努力労力と時間を要する領域には,相応の報酬が与えられるようなシステムにしなければなりません。霞や雲を食べてでも好きなことをやるという世代は,すでに過去のものであることを知らねばなりません。
 カナダでは,腹部一般外科研修はかつての5年必須から最近は1-2年まで短縮しています。アメリカではまだ腹部外科5年が必須ですが,そのかわり心臓外科を2年あまりで300例執刀できる教育体制とその後の高い報酬が約束されており,日本とは根本的に違う状況です。つまり,腹部外科研修をあまり長く強いるのは,日本の心臓外科の衰退や荒廃につながるため慎重にすべきです。現行程度を超えなければ工夫で何とか成り立つかと思いますが,現時点でも入局者が少なく困っている医局が多いという現実を直視する必要があるでしょう。

日本に専門医は何人必要か

米田 欧米では,専門医には開心術執刀で通算300例以上が必要です。日本でそれは無理だとしても,せめて100-150例の執刀数は要るでしょう。その意味で,新しい専門医制度はよい方向にありますが,一方で厳しくした基準を緩めようという動きもあるようです。それではせっかくの制度が骨抜きになる可能性が高いと危惧されます。また,先ほど述べたような,少ない症例の取合いをしているような状況を解決するためにも,「日本に専門医がどのくらい必要か」という議論も必要な時期にきています。
 今までの認定医制度は,条件が緩くアプライしたらみな認定され,数のコントロールはされてきませんでした。日本全国の心臓血管手術数は年間4-5万例ほどで,1チーム平均200例をこなすとすれば200-250チームで十分となり,現役の心臓外科専門医は日本に200-250人しか必要ないという計算になります。私がオーストラリアでコンサルタント(スタッフ外科医)をしていた時,全豪で現役コンサルタントは60名程度と言われていました。日本の人口はオーストラリアの人口の約6倍,しかし疾病頻度は半分とすれば,相応する日本の専門医数は60×6×1/2=180となり,かなり少ない数になります。
 日本胸部外科学会は会員が9000人ほどですが,アメリカ胸部外科学会は500-600人ほどです。それは,数を抑えないと会員のレベルとステータスを維持できないからです。つまり,「会員数を減らすわけにいかない」という発想自体を,「どうすれば外科医や学会が患者さんの支持を受けつつ本当に繁栄するのか」という点で再考する必要があります。これも身を切るような苦労と努力が要求されるでしょう。「君らはいいよな」とか「僕らは関係ないよ」ではすまされない問題です。
 これらの心臓外科にまつわる諸問題は,広く社会,特に患者さんによく知ってもらいたいですし,「力量のない病院がメンツのために心臓外科を持つ必要があるのでしょうか」と,世論を盛り上げる必要があります。
 そして,医師側としては,施設のセンター化――複数の施設を束ねて症例を1つの施設に集積することができれば,ハイレベルの大学や病院を作ることが可能です。そしてそれはその気になれば難しいことではないと思います。さしあたり100例規制を続け,ただし欠点弱点を補正し(例えば数が集まらない僻地の病院や教育に多大な労力を費やす教育病院には補助を出すなど),特に問題が多い年間50例以下の施設に対する方略をより徹底するなど,識者の間ではかなり議論は煮詰まりつつあります。また医局制度そのものについても,今後のあるべき姿を議論すべき時期に来ていると思います。良心的な教授ほど苦しんでいるというのが現実です。これらにより,少しでも現状を変えていくことができるのではないでしょうか。
(了)