医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第9回

次の犠牲者を出さないために

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2497号よりつづく

同じ事故を繰り返す日本の無策

 前回(2497号)は,医療過誤について,再発防止よりも当事者の処罰を優先することの愚を論じた。その例として,米国では経管栄養を点滴につなぎ間違える事故を何十年も前に根本的解決を加えることで消失させていたのに対し,日本では当事者を刑事罰に問うことで「一件落着」とする再発防止には何の意味も持たない対処を繰り返すだけで,延々と犠牲者を出し続けてきた事実を挙げた。再発防止についての日本の無策ぶりを示すもう1つの医療事故の代表が,塩化カリウムの急速静注事故である。つい最近も,6月に滋賀県で,7月には新潟県で,相次いで死亡者を出したばかりだが,米国では4年も前に有効な事故防止策が採用され,塩化カリウムの急速静注事故は激減しているのである。
 米国で採用された事故防止策は日本でもすぐに実施できるような簡単なものであるのに,なぜ日本ではいまだに漫然と同じ事故での死亡者を出し続けて平気でいられるのか,筆者は日本の(特に行政の)無策ぶりに,大きな憤りを覚えずにはいられない。

再発数を激減させたJCAHOの警報

 米国のJCAHO(医療施設評価合同委員会)が実施している警鐘的事例(註1)のプログラムについては,国レベルでの大がかりな医療過誤防止努力の実例として,拙著『アメリカ医療の光と影』(医学書院刊)に詳述した。警鐘的事例のプログラムの眼目の1つは,病院などの医療施設で発生した個別の医療事故・過誤についてJCAHOがデータを集積し,「根本原因分析」を加えた後に,類似事故の再発防止策について全米の医療施設に情報を提供することにある。
 警鐘的事例についてJCAHOはこれまで計26の警報(alert)を出しているが,最初に出された事故防止警報が,1998年2月の「塩化カリウム投与事故の防止対策」だった。98年2月は,JCAHOが警鐘的事例制度を運用し始めて2年目だったが,それまで約200例の事故事例の集積の中で一番多かった医療事故が薬剤事故であり,その中でも一番頻度が高かったのが塩化カリウムの投与事故だったのである。JCAHOは塩化カリウムの誤投与10例(全例死亡)を確認したが,8例が濃縮塩化カリウムの急速静注事故によるものであり,そのうち,外見が類似する他の薬剤との取り違えが原因だった症例が6例を占めた(註2)。
 JCAHOは,事故として把握していた10例すべてで,「塩化カリウムという危険な薬剤を,他の注射薬と変わらない条件で病棟に常備していた」ことが事故の「寄与因子」であったことを認識し,「高濃度塩化カリウムを病棟に置いてはいけない。どうしても病棟に置かなければいけない場合は,鍵を開けないと取り出せないような場所に置くなど,他の薬剤とは区別して扱え」という事故防止警報を全米の医療機関に発令したのである(註3)。この警報が出されたのは98年の2月だったが,その効果は劇的だった。塩化カリウム誤投与による死亡例は,97年の12例から,98年1例,99年1例と劇的に減少したのである。数字はいずれもJCAHOが把握した警鐘的事例の中での数字であるが,JCAHOが把握していた警鐘的事例の数は,97年139例,98年280例,99年333例と全体では増えていたのにもかかわらず,塩化カリウムの誤投与による死亡者は激減したのである。

事故から学び次の犠牲者を防げ

 医療過誤の犠牲者は米国では年間4万4千人から9万8千人と言われている。1日当たりに換算すると120人から270人が医療過誤で命を失っているのだが,これはジャンボ機が4日あるいは2日に1機墜落していることに相当する(日本の場合はこのような基礎的データでさえも誰も集めようとしない)。
 航空機が墜落した場合には,ただちに事故調査委員会が結成されて事故原因の究明が行なわれ,調査結果に基づいた再発防止対策がすべての航空会社に周知徹底される。一方,医療過誤についてはその犠牲者の数が航空機事故の犠牲者の数よりも桁違いに多いというのに,その原因究明と再発防止策構築への努力は,航空機事故と比べお粗末なレベルにとどまっていることは日米とも変わらない。航空機事故のように1か所に犠牲者が集積する大事件に対しては政府が先頭に立って徹底的な原因究明を行なうのに,医療過誤のように犠牲者があちらで1人,こちらで1人という具合に散在している場合,「国民の命が著しい危険にさらされている」という認識を持つことが難しいようなのである。
 米国の場合は,それでも,塩化カリウム投与事故の激減に見られるように,医療過誤防止に向けた努力が「実を結び」始めているのだが,日本の場合は,米国ですでに実効性を上げた「簡単」な事故防止策を「真似る」ことさえもしようとしないのだから,嘆かわしいとしか言いようがない。塩化カリウムを急速静注した当事者の刑事罰を問うことは繰り返しても,「事故から学び次の犠牲者を防ぐ」ことは考えようともしてこなかったのである。

(註1)JCAHOは警鐘的事例を「死あるいは重大な身体的・機能的傷害を予期し得ない形で生じた(あるいは生じ得た)事例」と定義し,「ニアミス」の事例をも含めている。
(註2)誰もデータを集積していないので事故原因についての日本の正確な状況を知ることは不可能なのだが,新聞報道などを追跡する限り,「急速静注することが危険だということを知らなかった」とする,医療者の知識・教育の不足が事故原因になっていることが多いのが日本の特徴ではないかという印象を筆者は抱いている。
(註3)塩化カリウムは原則として薬局で調剤せよという趣旨の警報であるが,危険性の高い薬剤は他の薬剤と差別化して扱うということがポイントである。「急速静注厳禁」と書いたラベルをバイアル・注射器に貼るなど,各医療施設で実施可能な処置を,すぐにでも実施されることを切望する。