医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第4回

Defensive Medicine(防衛医療)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2483号よりつづく)  

医療過誤訴訟の恐怖が医療そのものを歪める

 米国の医師にとって何が一番イヤかというと,医療過誤で訴えられるほどイヤなことはない。万が一訴えられた時のために医療過誤保険に加入するのだが,その過誤保険に加入できないということになれば,現実問題として診療に携わることはできなくなる。だからこそMalpractice Crisis(医療過誤危機,2483号参照)が医療へのアクセス一般にかかわる深刻な社会・政治問題となり得るのである。
 しかし,医療過誤でいつ訴えられるかわからないという恐怖心のもとで医師が診療を行なわざるを得ないことの最大の問題は,誰の目にもそれとわかる社会現象として表に現われるMalpractice Crisisにあるのではない。より深刻な問題は,医療過誤訴訟の恐怖が,医師たちに「Defensive Medicine(防衛医療,保身医療)」の実施を強制し,それと見えない形で医療そのものを歪めていることにあるのである。
 米国議会技術評価室(1995年9月に閉鎖)は,Defensive Medicineを「主に医療過誤の賠償責任にさらされる危険を減ずるために医師が行なう検査・処置・診察。あるいは,反対に,医療過誤の賠償責任にさらされる危険を減ずるためにリスクの高い患者の診療を忌避すること」と定義している。
 この定義では,たとえ幾分かは患者の利益になる診療行為であっても主たる目的が賠償責任の危険を減じることにあるのならば,それはDefensive Medicineであるとしている(ちなみに,医療過誤訴訟が増加すると,本来不必要な検査を施行するなど,医師たちがDefensive Medicineを施行せざるを得なくなるという危険は,すでに,米上院が1969年に作成した報告書「医療過誤:患者対医師」の中で指摘されていた)。
 また,米国ではマネジドケアを運営する保険会社が外科医の手術成績について合併症発生の頻度などに目を光らせているので,「手術以外に患者を治療する手段がないのはわかっているが,リスクの高い患者の手術に手を出して死亡したり合併症が起こったりして自分の手術成績が悪くなると,保険会社との契約で不利になる」と,過誤訴訟に巻き込まれる恐怖以外にも,Defensive Medicineを奨励するインセンティブが米国には存在するのである()。

科学的スタンダードと社会的スタンダード

 そもそも,患者の利益を主目的としない医療行為は「First, do no harm(まず何よりも患者に害をなすなかれ)」というヒポクラテスの誓い以来の医療倫理にもとるものである。しかし,医療倫理にもとるだけでなく,Defensive Medicineが広く行なわれている実態は,現代の医療には「科学的エビデンスで決められるスタンダード」とは別に,判例や患者が抱いている根強い先入観などの「社会的条件で決められるスタンダード」とがある現実を示している。
 科学的スタンダードと社会的スタンダードの矛盾の問題を,産科での分娩監視装置の使用に見てみよう。「分娩監視装置を使用すれば胎児の合併症を防ぎ,母親の安全を守るだろう」という患者・社会の思いこみとは裏腹に,多くの研究が「分娩監視装置を使用する場合と産科医の定時的聴診だけで胎児の状態をモニターする場合とを比較すると,胎児の予後に差はない」,「分娩監視装置を使用するほど母親の死亡率は上昇する」という逆の結果を示している(Am J Obstetr Gynec 174巻1382頁,1996年)。
 現在の分娩監視装置の技術レベルでは胎児の予後を予見することは不可能であり,分娩監視装置が発する擬陽性の所見ゆえに不必要な医療行為が行なわれる結果,母親の死亡率が上昇するからだろうと考えられている。また,米国産婦人科学会は,リスクを伴わない出産の胎児のモニターについては医師による定時的聴診でも分娩監視装置でもどちらでもよい,という指針を出している。しかし,訴訟に巻き込まれたり,負けたりする可能性を考えれば,分娩監視装置を使用したほうが得策と考える医師は多いのである。
 また,米国では1965年には5%未満であった帝王切開の施行率が1986年には24%と,20年で5倍以上に増えている。これは,出来高払い制度のもとでの経済的インセンティブに加え,訴えられた経験のある産科医は帝王切開の施行率が増えるという報告(JAMA 269巻366頁,1993年)もあるように,訴訟の危険を考えてのDefensive Medicineによるものもこの上昇に寄与したと考えられている。

Defensive Medicineによる医療費の「無駄使い」

 Defensive Medicineによる「無駄な」医療がどれだけ医療費を押し上げているかについてもいくつかの研究があるが,医療過誤の賠償金に上限を設けるなどの法的対策を講じていない州では,そのような法的対策を講じている州と比較して,医療費総額の5-10%が余計にDefensive Medicineに消費されているのではないかと推計されている。しかし,Malpracrtice Crisisに対する法的対策を講じている州でDefensive Medicineがゼロになるということはありえず,Defensive Medicineによる医療費の「無駄使い」は想像もできないほど巨額なものであると考えてよいだろう。


:日本でも,個々の保険者が医療機関などを選別できるようにしようという動きがあるが,やり方を間違えると,Defensive Medicineを奨励する危険がある。また,日本での導入を検討しているDRG/PPS(診断群別包括支払い方式)では,患者の重症度と関係なく診断名が同じであれば診療報酬が同じになるので,Defensive Medicineと同様に重症患者を忌避するインセンティブが生じる。