第2481号 2002年4月8日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第2回

ラスベガスの医療危機

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2480号よりつづく

 ギャンブルの都ラスベガス市を深刻な医療危機が襲っている。廃業したり,診療オフィスを閉じて他州に引越したりする医師が続出し,未曾有の医師不足が到来しているのである。

医師たちが強いられたギャンブル

 なぜ,医師たちはラスベガスで医療を続けることを諦めて引退したり転出したりしているのだろうか。それは,彼らが「ギャンブル」に大枚の掛け金を払うことを強いられたからである。しかし,医師たちが大枚の掛け金を払うことを強いられたギャンブルとは,カード・ゲームやルーレットではない。そのギャンブルとは,医療過誤保険という名のギャンブルである。
 ラスベガスの医療危機のきっかけは,2001年12月にミネソタ州の「セント・ポール・カンパニーズ社(以下,SP社)」が「年間10億ドルの損失を被っている」と医療過誤保険からの全面撤退を発表したことにあった。SP社は,加入医師4万2千人と,医療過誤保険分野で全米第2位の契約高を誇っていたが,医療過誤訴訟における賠償金が高騰を続け,過誤保険はもはや商売として成り立たなくなったと,全面撤退を発表したのであった。SP社の撤退の結果,同社の医療過誤保険に加入していた医師たちは,保険契約の更新時に別の保険会社の保険に加入することを余儀なくされることになったのだが,新たな保険に加入することは容易ではなかった。

医師たちを襲った高額の保険料

 医師たちが新たな過誤保険に加入することが難しかった理由は,べらぼうに高額の保険料を請求されたことにあった。そして,保険会社を変える際の保険料がべらぼうに高額なものとなった原因は次の3つであった。
 まず第1に,医療過誤訴訟の賠償金が高額化していることに加えて,昨(2001)年9月11日の同時多発テロ事件の影響で保険会社が支払う再保険料が上昇したために,全米一般に医療過誤保険の保険料が上昇していたのである。同一企業の医療過誤保険を更新する場合でも,州によっては,昨年との比較で保険料の3割程度の値上がりを覚悟しなければならないと言われている。
 また,新たな過誤保険に加入する際の保険料が高くなる第2の原因は,「tail coverage」という,特別の保険料を請求されることにあった。これは,(従前の保険会社の過誤保険のもとで)過去に診ていた患者が新たに過誤訴訟を起こした場合に備えて新しい保険会社が請求する保険料であるが,この保険料がかなりの額にのぼったのである。
 さらに,ラスベガス市があるネバダ州では,70年代中期に最初の医療過誤保険危機が起こった際に医師団体が運営する保険会社を設立してこれに対応したのだが,この医師団体が経営母体となった保険会社を95年にSP社が買い取ったという経緯があり,SP社の保険料は他の保険会社よりも割安な傾向にあったことが第3の原因となった(SP社によると,ネバダ州では1ドルの掛け金に対する保険金支払いが1ドル88セントに達したという)。このような歴史的経緯があったために,ネバダ州ではSP社の過誤保険に加入する医師がとりわけ多く(全医師の60%),SP社の市場撤退の影響がとりわけ深刻に現れたのであった。

保険料の高騰で医療が危機的状況に

 過誤保険の保険料の高騰は,特に,産科・救急外科など,過誤訴訟のリスクが高い科の診療にたずさわる医師を直撃した。それまで,年4万ドルだった保険料が,年20万ドルを超すことになった例も稀ではなく,「過誤保険の保険料を払うためだけに診療をするなど馬鹿げている」と,医師を廃業したり,産科医が妊娠中の患者を置き去りにして過誤保険料が高いネバダ州から安いカリフォルニア州に転出したり,家庭医が保険料を安くするために産科診療をやめたりする事例が続出したのである。
 また,ラスベガス市には救急外傷センターは1つしかないのだが,「常勤外科医が過誤保険の保険料が払えず,勤務を辞めざるを得なくなったので,24時間体制の運営が不可能になった」と,同センターが3月に閉鎖されることが発表され,同市の医療危機の深刻さを象徴することになった。外傷センターを運営する南ネバダ大学医療センターは,同センターが閉鎖となった後は,交通外傷や銃創などで緊急の手術を要する患者はヘリコプターで隣接州の外傷センターに移送することになると説明したが,この例でも明らかなように,過誤保険料の高騰は,医療へのアクセスの障害とコスト高という重大な結果を招来し得るのである。
 結局,ラスベガス市の救急外傷センターの閉鎖は,同市が所属するクラーク郡が辞めざるを得なくなった外科医の過誤保険料を肩代わりするという緊急処置を発動したことで回避された。また,ネバダ州のケニー・グィン知事は,過誤保険への加入を拒否されたり高額の保険料を請求されて保険加入が困難となっている医師たちのために,州が割安の医療過誤保険を設定することで,同州の医療危機を回避することを発表した。