医学界新聞

 

日本災害看護学会

1・17メッセージ

 今から7年前の1月17日早朝,神戸市を中心とした阪神地区を,震度7の大地震が襲った。捻じ曲がった高速道路,倒壊したビル,そして立ちのぼる黒煙。その一変した市内の惨状を,遠く離れた地域の人々は,テレビの画面を通して見ていた。「阪神・淡路大震災」である。
 死者6400余名を数えた未曾有の災害は,医療に新たな流れを加えることになった。災害医療・災害看護が,その重要性,必要性から注目されることになり,1998年には「日本災害看護学会」が設立された。大震災の教訓は,学術的視点からも検討されることになった。
 現在の神戸の街並みを眺めると,「大震災ははるか昔のこと」のようにも思える。その裏には,未だ心癒されない被災者も多く存在する。この出来事を,後世まで語り伝えていきたい。


●困難は,人と人の支えあいで乗り越えられる

 榊原弥栄子(前神戸西市民病院看護部長)

 震災から7年目を迎えた。震災後数年間は,職場でも家庭でも,いつも震災の話をしていたように思うが,最近はそのようなことも少なくなってきている。しかし,人々の心の中から震災の記憶が薄れているわけではない。私自身も,その当時の看護管理者として,未だにそのあり様が思い出され,反省することも多く,まだまだ過去の出来事にはなっていない。
 このような機会を与えられたので,震災時に支援をいただいた多くの皆様に,感謝の気持ちを込めて,7年経過して,今思うことを「1・17メッセージ」として述べてみたい。
 大震災を体験して痛切に感じたことは,医療者として災害時の医療活動も日常の医療活動と同様に,役割を十分に果たさなければならないということである。今日のように人災,天災が頻発する時代においてはなおさらのことである。個々の施設の規模や日常の役割にかかわらず,災害時に組織として個人として役割が果たせるように準備が必要である。
 神戸市西市民病院は,病院が倒壊し,患者さんが亡くなり,職員は職場を失った。看護婦寮や自宅が倒壊し,住む場所もなくなったスタッフも多くいた。しかしながら,このような突然の危機状況の中で,スタッフは救急活動や他病院の応援,避難者の健康管理にと,本当によくやってくれたと今も感謝の気持ちで一杯である。
 とりわけ避難所の看護活動は,病院とはまったく状況が違い,どんなに戸惑ったことであろう。当時の病院には若いナースが多く,特に卒後1-2年目のナースは,まだまだ先輩の指導が必要な時期であったが,私たちはその若いナースたちを含め,「避難者の健康管理」という目的で2名ずつに分かれて避難所に行き,住民を対象とした看護活動を行なった。そこでは自分で状況を判断し,行動することが求められた。多くの困難を乗り越え,どのナースも卒後年度とは関係なく,誇りを持ち,自律して行動し,立派に役割を果たしてくれた。あれから7年……それぞれのナースは今,どのように成長しているのだろうか。震災時の体験が「辛かった」という思い出だけに止まらず,成長する上で貴重な体験として力になっているであろうことを願わずにはいられない。
 震災前は,災害時救護と言えば医師とともに行動するイメージが,私自身強かった。しかし,この災害を体験して,医師とともに行なう診療活動の重要性と同時に,大勢の避難者が集まる避難所においては,看護職が行なう健康管理の重要性を認識した。
 災害直後の,救急救命医療の役割が終わった後,災害が大規模であればあるほど劣悪な環境の中で「人々の命と健康を守る」活動が重要となる。そのことに,看護職としての職能が大いに役立つことを確信した。
 次に,心のケアの問題も痛切に感じた。それは住民だけでなく,医療者にも重要な問題であった。兵庫県立看護大の南学長,P・アンダーウッド先生のご好意により,1996年3月に「心のケア」のためのグループケアを開いた。その時に,初めて自分たちが震災からいかに大きな衝撃を受けていたかを痛感することができた。それに加え避難所での活動はストレスが累積し,PTSD(心的外傷後ストレス障害)のリスクが非常に高いことを指摘された。その後,「心のケア」の重要性を自らの体験から実感した婦長たちは,スタッフののケアに改めて取り組んだ。看護部長として,もっと早くそのことに想いを馳せるべきであったと思っている。
 大災害のような極限の危機状況における対応は,日常覆い隠されている人間の本質が露呈されてくる。日頃から管理者としてどのような哲学と具体的な知識・技術を持っているかが問われることになる。そのことを改めて突きつけられた気がした。
 震災後,「日本災害看護学会」が設立された。災害を体験してみて,心のケアを含め災害医療に対する認識の浅さを痛感した。このような体験を「単に体験した」ということに終わらせず,その体験を意味あるものにすること,学問として整理し,社会にアピールすることが重要なのである。
 第3回日本災害看護学会(2001年7月29日,神戸市)で,中西睦子会長(神戸市看護大学長)は,会長講演の中で「災害看護は,従来の制度的枠組みを変えないと成り立たない領域の1つである」と述べられ,ボランティア活動を取り上げられた。私たちが避難所活動で,常にジレンマとして感じていたことを的確に分析され,活動のあり方を仮説的モデルとして提唱された。
 さまざまな体験がこのように整理され,災害看護学として構築されていくことを力強く感じた。震災を体験して,どのような困難な状況も,人と人が支えて乗り越えられることを痛感した。看護婦が社会の中で確かな働きをしたことを誇りに,より前進していきたい。そして今,西市民病院が「災害に強い病院」として再建されたことを皆様に報告できることをうれしく思っている。ご支援本当にありがとうございました。


●7年を振り返って,今思うこと

 赤穂あや(神戸市看護大編入4年)

■突然の出来事とその後の苦しみ
 阪神淡路大震災が起きて,7年が過ぎました。私は,当時K市民病院の看護婦1年目でした。不意に大きな衝撃が身に降りかかり,また親友を失いました。あの頃は,動揺する自分自身の心を閉じ込めて日々を過ごしていました。「時間が経てば,心の痛みは薄れるだろう」と思っていましたが,トラウマは現在も消えません。
 その後,機会に恵まれ,2000年4月から看護大学へ編入し,学習を進めるうちに,じっくりと自分と向き合う時間が増えました。いつしか「あの事件は自分にとって何だったのか」と考え始めていました。その年の10月,鳥取大地震が起きました。神戸でも大きな揺れを感じ,大震災当時の怖さが一瞬蘇ってきました。幸い「死者なし」の報を聞き,ほっとしたものの,地震の復興過程を思うと心が痛みました。

■トラウマを前向きに捉えたきっかけ
 数日後,大学のボランティア部の呼びかけで,鳥取県西伯町への災害ボランティア募集がありました。私自身,当時の恐怖もあり,大変躊躇しましたが,震災時,ボランティアの方にお世話になったので,そのお返しをしようと考え参加しました。報道は被害は少ないと伝えています。確かに緊急時の医療ニーズは低かったようです。しかし,戸別訪問に行くと,生活支援のニーズは非常に高いものがありました。また,地域的に高齢化率が高く,瓦礫を運び,家の中の物を片づけるには,もっと多くの人的パワーが必要でした。阪神大震災で感じた,「報道だけでは見えないものがある」ということを思い出しました。
 鳥取の現場では,すでにいくつかのNGOボランティアの方々が入っておられ,その方々と行動をともにしました。NGOの皆さんは,さまざまな現場を経験されており,災害初期の現場での活動の難しさを話されていました。

■コーディネーターの不在
 緊急時の救援活動で最も困ることは,全体を統括するコーディネーターがいないことです。被災地の公的機関とNGOの連携等の調整が難しく,有効な支援が提供できないこともあったようです。
 例えば,被災地役所とNGOの連携,また,NGO同士の協働など,コーディネーターの不在が大きな混乱を招きます。同じ地域をモニタリングするにも,各々の連携があれば人的パワーを効率よく分散させ,より多くの情報を得ることができるのでしょう。また,それ以外にも阪神大震災でも露呈した救援物資の公平な運搬や,近隣他府県との連携の不備など,日常からの情報の統制を図る役割を担う,コーディネーター存在の必要性を強く実感しました。

■災害発生時の看護婦・士の役割として
 緊急時,病院では管理職の方々がコーディネーターとしての役割を取られるのだと思います。当時を思い起こすと,病院関係者はすぐに何らかの手段を駆使し,病院をめざしました。医療関係者が持つ使命と責任が引き起こす行動です。
 しかし同時に,みなが被災者でもありました。特に,家族を持つ方々は,「医療者としての使命感」と「家族を思う気持ち」の間で葛藤を生じながらの出勤や,交通手段の崩壊や自らの被害が大きすぎて,すぐには病院へ来られない方々も多くおられました。状況が落ち着くにつれて,家族をおいて出勤することを躊躇した自分や,すぐに行けなかったことで自分を責めるケースもあったと聞いています。
 でも,私は病院以外でも看護婦の使命を果たせると考えます。確かに,大切な患者さんを守る責務はあります。しかし,すぐに病院へ行けない場合,他のケアの提供場があるように思うのです。自分の安全を確保し,最寄りの避難所に行って,そこで初期段階の医療活動や周辺病院での活動もあります。勤務する病院との安否確認がとれた後,管理職の方々の柔軟な発想により,そのような方法も可能だと思います。
 また,緊急時のための個人的な努力として,普段からどのような行動を起こすか,何通りかのモデルを自分で考えておくことも必要だと思います。加えて,普段からの自分の時間を利用してNGOの方々とコンタクトを取ること,人脈を広げる努力をすること,自分や家族の身の安全を確保する方法をシミュレーションすることなどです。こう提言すると,「災害は突然で,種類も異なるから事前準備はできない」と言われるかもしれません。でも,私は普段からの地道なネットワーク作りが大切だと思っています。その人脈が,力と共通理解を生み,緊急時のコーディネーターの出現へとつながると考えるのです。

■最後に
 被災地以外では,残念ながら阪神大震災はすでに風化しているようです。しかし,被災者の方で,未だ震災の影響で苦しまれている方がたくさんおられます。震災で人生が大きく曲げられ,その上この不況です。私自身,7年経ってもその痛みを忘れることはできません。しかしそれでも,被災者のすべてが,少しずつでも前を向いて生きていくことを願います。
 震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りして,このメッセージを終わります。

※なお,本メッセージは,看護系出版各社の雑誌等にも重複して掲載されています。