医学界新聞

 

 連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県健康づくり事業団総合健診監・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第27回〕
西太平洋地域でのプログラム展開-(1)

WHO西太平洋地域事務局の発展途上国への協力

 WHOがん疼痛救済プログラムに関する加盟各国への実際的なアプローチは,世界を6つに分けた各地域の本部として機能するWHO地域事務局が行なっている。日本が所属するWHO西太平洋地域には,30を超す国と地域とがあり,発展途上国が多いが,事務局(Western Pacific Regional Office:WPRO)はマニラにある。地域内加盟国の選挙で選任される地域事務局長には,1999年から自治医大出身の尾見茂博士が就任している。それまでの10年間はST Han博士(韓国)で,その前は,後にWHO事務局長になられた中嶋宏博士(現国際医療福祉研究所長)であった。がんやその他の慢性疾患が増加するという疾病構造の変化は,西太平洋地域全体に起こっている。そのため,WPROは疾患中心の健康戦略より,人々を中心においた健康戦略が要求されていると認識して,新しいアプローチをとっている。
 がん患者のQOLを改善するがん疼痛救済プログラムには,多くの発展途上国も関心を寄せ,自国のプログラムを策定する場合にWPROの技術協力を要請する。WPROは,要請国にWHO職員を派遣する他,WHO指定研究協力センターなどの専門家をWHOコンサルタントに任命して派遣する。派遣されたコンサルタントは,がんと疼痛の発生状況と治療状況,鎮痛薬の供給状況,医療用麻薬に対する規制状況や麻薬に対する人々の受け止め方などの調査をし,教育研修計画の改善策立案などに協力する。また,臨床の第一線を視察したり,保健省の諮問委員会,大学,主要病院に招かれてWHOのプログラムや治療指針の講義も行なう。コンサルタントは,任務の終了時には訪問中に得た所見をまとめるとともに,自らの意見もつけた報告書をWPROに提出する。
 こうしたコンサルタントとして,私はいくつかの国に派遣された。本紙に連載した第6-9回(1999年5-6月)のカンボジアからの報告も,こうした任務中に得た情報に基づくものであった。私が勤務していた埼玉県立がんセンター脳神経外科は,1990年以来「がん疼痛治療とQOLに関するWHO研究協力センター(現所長:卯木次郎同センター外来部長)」に指定されていたので,さまざまな国からの研修訪問を受け入れ,一方,国外の医学会からの要請もあり,いくつもの国を訪問している。
 現在,世界の医療用モルヒネの約90%は26の先進諸国で消費されており,発展途上諸国は10%弱を消費しているにすぎない。発展途上諸国におけるモルヒネに対する誤解と偏見は,日本においてよりさらに根強いためである。中には,モルヒネの医療目的使用を認めていない国もあり,患者は悲惨な痛みに苦しんだままとなっているのが,発展途上国の大きな問題である。それらの中から,いくつかの国について紹介したい。

ベトナムでの取り組み

 1987年,私と米国のCS Cleeland教授(現MDアンダースンがんセンター教授)がベトナムに派遣された。発展途上国での任務は初めてであり,当時はベトナムから入手できる医療情報は皆無に等しい状態だったために,私は緊張してハノイに着いた。Cleeland教授はDr Robert F Kaiko氏(薬剤師)とMr George Heidrich氏(看護士)を同行していたが,戦争の当事国だった米国籍の3人は,私よりいっそう緊張していた。
 戦後の経済的貧困の中にあった当時のベトナムでは,感染症が死因の上位を占めていたが,その中でもがん患者が増加し,その8割は末期に至ってから訪医するという状況であった。がん医療については,国の責任者であったハノイの国立がんセンターNguyen Cong Thuy総長が,「痛みからの解放」の実現を課題ととらえ,WHOの協力を必要としていた。依存症と乱用の発生を恐れるあまり,経口モルヒネは認可されておらず,モルヒネ注射液の供給も厳しく制約されていた。私たちは,経口モルヒネの有用性や安全性を行政当局に説明する努力とともに,ベトナム国立がんセンターの医師をがん疼痛治療の指導即戦力に養成するための研修に力を入れた。熱心に聴講してくれた医師や看護婦の顔や経口モルヒネが必要と聞いた薬剤規制当局者の怪訝な顔とが思い出されるが,私たちの任務に新たな味方が現れた。私たちがベトナムを離れた直後に,米国が研修用にとモルヒネ速放錠600gをベトナム政府に寄贈したのである。
 このモルヒネ錠のベトナム人患者への試行成績を,国際学会で発表する機会も私たちがお世話するなど,その後の経緯があったが,8年後の1995年に,WPROは私にハノイ再訪問を打診してきた。経口モルヒネ錠を認可することになったベトナム政府が,各省の指導的な医師や看護婦をハノイに集めて,「がん疼痛治療と緩和ケア」と題する国家ワークショップを開催することになり,Thuy総長の後を継ぎ,8年前に私の講義を受けたNguyen Ba Duc新総長が,WHOに私の再派遣を求めたのであった。
 8年ぶりのハノイは見違えるほど活気に満ちていた。旧友に囲まれながら製剤輸入の形で導入されたモルヒネ錠が,国立がんセンターの麻薬金庫の中にあるのを目にもした。さらに,モルヒネ服用中のがん患者にも会うことができ,私はベトナム指導者の8年間の努力に頭の下がる思いであった,しかし15mg錠の価格が0.4米国ドルということが臨床現場では問題であった。ベトナム市民の平均収入からみると高価な薬となるからだった。そうして,私の滞在中にモルヒネの国産化計画案が討議され始めた。

WHO方式がん疼痛治療法の研修を受けるベトナム・ハノイの国立がんセンターの医師,看護婦とともに(前列右から2人目がNguyen Cong Thuy総長,その左が筆者。1987年4月)