医学界新聞

 

 連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県健康づくり事業団総合健診監・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第23回〕患者とのコミュニケーション(3)
がん患者に真実を伝える-その3

2411号より続く

日本独特の理由はあるのか?

 「日本人の文化,信仰,信念,死生観は欧米と違うのだから,がん患者本人には病名を伝えるべきでない」と言われ続けてきた。この理由は果たして本当なのだろうか,という疑問から埼玉県立がんセンターでの議論が再開された。
 真実を伝えられた時に,患者の心が受ける衝撃は文化や宗教を超えた世界共通のものであり,日本人の心が受ける衝撃も同じなのである,と私は実感していた。しかし,心の衝撃の表現方法には文化,信仰,信念,死生観,あるいは個性が大きく影響する。心が受ける衝撃とその表現方法とを混同せずに考えてみると,文化や宗教,死生観の違いによるという理由は信憑性に乏しくなる。
 さらに深く理由を探ってみると,真実の伝え方や患者の心が受ける衝撃への対処方法がわからないというところにたどり着くのであった。欧米でもがん患者自身に真実を伝えることを安易に行なっているのではなく,患者の心の衝撃を監視し,衝撃からの回復の支援を前提として行なっている。日本人の心に悪い知らせ(bad news)を軟着陸させることはできるはずなのである。

海外からの情報

 海外からの情報にも学ぶところが多かった。米国では30年前に,比較的短期間のうちに「患者本人に真実を伝えない」という方針が,「伝える」との方針に切り替わり,この切り替えは西欧へとゆっくり広がった。この切り替えに医療訴訟の増加という社会現象が果たした役割はそれほど大きいものではなく,それよりも「患者の人権尊重」という考え方が大きな役割を果たした。
 このような推移の中で明らかにされたことは,「本人に伝えないことが患者のためである」との従来からの憶測が誤っていたこと,真実を告げると患者は苦悩するが得られる利益も大きいこと,人間誰もが苦難を乗り越えていく潜在力を持っていることなどである。また,この潜在力を引き出すのが医療者側の責務であることも指摘されていた。

人権尊重や信義との関連

 医療の原則は,患者の人権の尊重と信義に基づく実践である。医師と患者との信頼関係は誠実さによって増進され,虚偽によって破壊される。患者に偽りの情報を伝えることは人権尊重にも信義にも反しており,患者の自己決定権を奪うことでもある。WHOがん疼痛救済プログラムの審議も,人権尊重のもとでは「真実に基づく情報を患者に伝えるのは当然」として進められた。
 わが国では,「真実を伝えても患者は大丈夫か」「生きる希望を失うのではないか」と考えることが多かったが,もう一歩踏み込んで「真実を伝えないでいても大丈夫な患者か」とも考えてみる必要がある。真実を知らされないために患者が不適切な自己決定をするのを回避するためである。発病前の患者は,自分で得た情報に基づいて自己決定しながら日常生活を送ってきたのであるが,がんと診断されるや途端に情報を隠され,患者が意見を述べたり,自己決定したりする機会を奪われる。
 これは,患者にとっても非常に不合理なことであり,自尊心は傷つけられ,不信や怒りも生まれる。しかも,日本人の教育水準は高く,巷にはがん情報があふれているのである。そういう状況の中にあって,病気について嘘の説明を貫き通すことは不可能なのである。今年(2000年),ある家族から私に相談が寄せられた事例を通して考えてみたい。

事例 B氏,69歳,男性(繊維関係会社の経営者),病名:進行肺がん。
 ヘビースモーカーのB氏は,若い時に設立した会社を発展させてきた努力家であった。半年前から咳が多く出るようになり,ついに血痰が出た。本人は肺がんだと思い,地域の中核病院を受診した。その結果は末期の肺小細胞がんであったが,主治医はその診断名を長女に伝えるにとどめ,本人には入院を勧めた。がんであろうと思っていたB氏は,事業,財産,家族のことなどの将来計画の立て直しを考え始めた。対症療法により咳と痰は数日で軽快した。
 その頃,本人から診断についての質問が主治医に寄せられた。主治医はとっさに「肺炎」と答えた。これは,B氏の社会的な立場への考慮を欠いた主治医の心ない行為であった。B氏は,主治医の答えががんではなかったのに驚くと同時に喜び,将来の計画の立て直しを止めてしまった。
 そのような状況にあって,家族も会社職員も窮地に陥っているが,どうしたらよいかという,私への遠地からの相談であった。私は,本人の意見も家族の意見も主治医に伝えるべく,急ぎ話し合いを行ない,本人へありのままの説明を求めるよう勧めた。主治医は内視鏡生検による確定診断を得てから本人に話したいと答えたそうであるが,なかなか実現せず,そんな中で家族は本人にありのままを話すことに恐れを強めてしまっているという。