第2380号 2000年3月20日


〔対談〕

-Meet the Expert-

「社会的共通資本」から医療とリハビリテーションを語る

 
宇沢弘文氏
東京大学名誉教授・日本学士院会員
    木村彰男氏
慶應義塾大学助教授・
リハビリテーション医学


木村 少子高齢化社会を迎え,社会構造の変化とともに医療・保健・福祉などの基礎構造の変革が求められ,リハビリテーションの領域でも近年慌ただしさが増してきています。間近に介護保険導入を控えて,医療と介護の関連の中でリハビリテーション医学・医療がどのような役割を果たしていくのか,社会的にも注目されています。そこで今日は,日頃から幅広く鋭い提言をなされている宇沢先生に,特に医療の問題,中でもリハビリテーションに関連してお話をおうかがいしたいと思います。
 先生は「社会的共通資本」というキーワードで,教育の問題,医療の問題,あるいは環境の問題などに対してご発言されておりますが,まず最初にこの「社会的共通資本」からお話を展開していただきたいと思います。

「社会的共通資本」について

●ヴェブレンの「制度主義」
宇沢 この言葉は,“social overhead capital”という言葉を私が訳したものです。今から約100年ほど前に,ヴェブレン(Veblen TB, 1857-1929)というアメリカの経済学者が制度主義という考え方を展開しました。彼はマルクスの考え方に対して批判的であり,同時に新古典派の経済学,つまり市場経済を最高のものとするという考え方にも反対でした。そして新しく提起した考え方が制度主義と言われるものです。
 資本主義や社会主義は,その結果に対しての十分な検討がないまま自然発生的に作られたものです。それは19世紀の終わりに非常に大きな弊害をもたらしました。それに対してヴェブレンは,その時々の社会の歴史的,文化的,自然的,社会的な条件を十分考慮に入れながら,すべての国民,市民が一生を通じて人間らしい生き方をすることができるような制度を経済学者は考えなければいけないと主張したのです。それを社会的共通資本(social overhead capital)という形で具体的に表したのです。
 ヴェブレンは社会的共通資本の経済学を完成しないまま亡くなったのですが,その後制度学派という形で,アメリカを中心に経済学の1つの大きな流れが作られました。ただ,この制度学派はヴェブレンの考え方を一面的に捉え,経済学における理論そのものを否定して実証だけに依存しようという,ある意味で極端な方向に向かい,一時それが主流になったことがあります。しかし20世紀の後半に入り,それに代わって社会的共通資本をヴェブレンの考え方の中心に据えて経済学の展開が続けられてきています。

●「社会的共通資本」の3つのカテゴリー
宇沢 この社会的共通資本は大体3つのカテゴリーに分かれます。
 第1は自然環境,大気とか森林,河川,土壌,水,海などのさまざまな自然資源,これは人間が生きていくために不可欠なものです。これらは,決して新古典派の経済学が言うように,個人の所有に分割し,マーケットを通じて取り引きするということは基本的には考えられません。そうかといって,社会主義のように国が官僚的に支配することも大きな弊害をもたらします。
 それぞれの自然環境・資源の持っている特色を十分生かしながら,そして森林なら森林という自然に重要なかかわりを持つ人々が一緒に共同体(コモンズ)を作って管理していこうという考え方です。
 第2のカテゴリーは社会的インフラストラクチャーです。道路や橋,交通手段,電力,上下水道といった設備・施設は人々が快適な生活をしていくために不可欠なものです。これらは基本的には民間が経営の主体になりますが,あくまでも社会的な基準に従って料金を決めるなり,あるいは配分を決めていくということが大事です。
 第3は「制度資本」と言われるもので,学校,病院,あるいは司法制度などのさまざまな制度など人間が人間らしく生きていくために重要な役割を果たすものです。
 もともとヴェブレンの考え方は,アメリカの独立戦争の原点であったリベラリズムの考え方に基づいています。リベラリズムは日本では自由主義と訳されていますが,これとはまったく違った意味を持っています。日本語の自由主義は英語ではリバータリアニズム(Libertarianism)です。
 リベラリズムというのは,すべての市民が人間的尊厳を持ち,魂の自立を保ち,そして市民的権利を最大限に享受できるような,そういう社会を作ることをめざして学問的研究をする,あるいは運動を展開するというのが本来の意味です。そして,制度資本はその人間的尊厳を守り,魂の自立を支え,すべての国民,市民が市民的権利を十分享受できるような,そのために重要な役割を果たすサービスや物を提供するものなのです。

●制度資本としての教育
宇沢 制度資本の中で最も重要なものが医療と教育です。医療については後でお話しますが,すべての子どもが人間らしく健やかに成長していくために教育は非常に重要な役割を果たします。学校教育は儲けを目的にやってはいけないし,国のある理念を子どもに押しつけることがあってもいけない。あるいは1つの宗教的な考え方によって子どもを育ててはいけない。ここで重要なことは,実際に学校を経営し,教育する人たちが教育の専門家としての考え方,理念,規律に基づいて教育していくことです。
 社会的共通資本としての学校教育は,必ず財政的に赤字を伴うものなのです。膨大な費用をかけて学校を作り,先生を養成し,そして学校を経営していくには,当然収入より支出のほうが多くなります。一般的に言うと,社会的共通資本が果たしている社会的・人間的な役割が大きければ大きいほど赤字も大きいと考えられます。
 教育で一番重要なことは平等主義で,どんな貧しい家に生まれても,どんな僻地に育っても,その時社会が提供できる最善の学校教育をすべての子どもが受けられるように社会的に配慮しようということです。

●制度資本としての医療
宇沢 医療は学校教育と並んで重要な制度資本です。医療は病気やけがで正常な機能を果たせなくなった人たちを医学的知見に基づいて診療し,できるだけもとの体に回復させることです。この時重要なのは,医師は職業的な基準に従って医療のサービスを提供するわけで,儲けを多くしようと思っているわけではありません。また官僚的な基準に従っているわけでもなく,あくまでも職業的な専門家としての立場に立って,ベストの診療をすることが基本的な原則です。しかも学校教育と同様に,すべての人がその時の医学が提供可能な最善のサービスを受けられることがリベラリズムの出発点です。そうかといって,無料で医療サービスを提供すれば混乱しますし,利潤追求金だけでも大変なことになります。
 経済学の考え方ですと,例えば脳腫瘍の手術をする時,マーケットの基準に従えば,患者さんが手術を受けてどれだけ得をするか。それに見合った額を病院が請求できますが,一方で病院の間で競争がありますから,患者は一番安い病院を選んで行きます。いわゆる競争原理が働くわけです。
 しかし,脳腫瘍の手術の費用は高額ですから,所得の低い人は受けられないかもしれない。また所得の高い人にとっては,病院の請求額は支払い可能な額より少ない。これを経済学では「消費者余剰」と言います。つまり,貧しい人は手術が受けられず,金持ちは消費者余剰を享受できる,というおかしなことになってしまいます。

●社会的限界費用
宇沢 そこで,ある社会的な基準に従って費用を決めようということになります。この場合,「社会的限界費用」に見合った額を料金として決めるのが一般的原則です。
 社会的限界費用というのは,ある手術を行なった場合,限界的にどれだけ費用がかかるかという意味です。担当医や看護婦さんなどの人的な費用,さらに病室の使用,薬剤,その他を含めてどれだけかかるかというのを計算したものです。そして費用負担は個人,保険,あるいはサービス制度などによって社会的に決めていこうということです。
 しかし,実際にかかった医療費と患者さんがどれだけ払うかということの間には大きな差が出てきます。つまり,病院の場合は一般に赤字が出るもので,この赤字は医療という制度資本の果たしている社会的・人間的役割の大きさをある意味で反映しているものだというのが,社会的共通資本の考え方なのです。

社会的共通資本の展開

●専門家の職業的知見,技術が優先される
木村 社会的共通資本の考えでは,個人の尊厳や社会的,文化的,伝統的なものを大切にするということ,また,官僚や国による一元的な支配を排するということがポイントになるのでしょうか。
宇沢 そうですね。それぞれの社会的共通資本を担当している職業的な専門家の知見や判断に従ってどういうふうに分配したらいいかということを決め,供与するということが重要なポイントですね。
木村 具体的にはどのような分野でこの考え方が展開されていますか。
宇沢 先ほど申したように,教育制度が社会的共通資本の理念に近いような形で展開されています。例えば,初等・中等教育の場合でしたら,それぞれの自治体やそれに準ずる地域が,すべての子どもたちがその時の一番良い教育が受けられるように,地域全体で考えていくという考え方です。
 アメリカで良いと言われている大学はほとんどが私立大学です。そこでは職業的な教育の専門家,つまり教師,学者が中心になって大学を運営しています。当然赤字になるのですが,かなりの部分が相続財産の遺贈をもとにして経営されています。寄贈する側も国に税金としてとられて官僚的に使われるよりは,自分の志に合った大学,病院に寄付して,遺志をそういう形で果たしている。その場合,税制でも有利な取り計らいがなされています。
木村 日本の場合はバブル崩壊後,しわ寄せが大学とか病院などの制度資本のところにきているように思うのですが。
宇沢 日本の最近の混乱は資本主義とは無縁なのです。日本の中央官僚がマイナスの役割を果たし続け,そのツケがこういう形で出ているのです。官僚は必要ですが,権力をかさにきて,大学や国の具体的な中身に関与していくということは本来避けなければいけないのです。同じことは金融にも言えて,本来,金融も大事な社会的共通資本です。ところが大蔵省が金融の専門家の職業的な知見とか規律とかを無視して,行政的な権限によってコントロールしてきたところに日本の今の問題があるわけです。

介護保険を社会的共通資本からみる

●先進諸国に比べて高くない医療費率
宇沢 介護保険とも関係しますが,医療保険も非常に大きな問題を含んでいます。保険点数の上では,医師や医療関連職の技術や人間的な素養に対する評価が非常に低く,一方,薬や検査の評価が高い。薬価差益の問題も過剰検査の問題も,現在の保険制度のひずみの現れだと思いますね。
 ただ,患者の立場に立つと,日本の病院は総体としてうまく機能していると思います。それは医師や関連職の人達がいわば献身的な形で診療に当たっているからです。つまり,医師が患者に接する時は,医師としての職業本能的なものが支配していくのですね。看護婦さんも同様です。問題は医療制度自体の矛盾なのです。
木村 現行の保険制度では医師の技術は評価されていません。良い医療をしているかどうかに関係なく,保険点数は同じです。リハビリテーション医学は他の臨床医学とは異なり,単に病気を治すだけでなく,患者の社会復帰まで含めたトータルな関わりが求められ,手をかければかけるほど赤字を生むという矛盾があります。ですから,リハビリテーション医療では,この社会的共通資本という考え方が特に必要な領域なのではないかと思います。
 ところで,実際は日本の医療費は諸外国に比べてさほど高くはないのですが,これから始まる介護保険制度は医療費の高騰を理由に医療から介護の部分を切り離して別の制度で支えていこうというものです。社会的共通資本という考え方からこれはどう理解すればよろしいでしょうか。
宇沢 医療は教育と並んで重要な制度資本だと申しましたが,教育の場合には一般に小・中学校の教育費の額や収入ということは問題にならないのに,医療費の場合は,国民医療費を厚生省が発表すると大変な騒ぎになります。日本は先進諸国の中でも,その比率がかなり低く,医師や看護婦さんなどの人的費用の比率は特に低いです。医療は財政的な負担でカバーしているところが大きいのでこうなるのですが,医療が重要な社会的共通資本であると考えればおかしいと思います。また人間の生き方としても,医療や教育に携わる,つまり社会的共通資本の重要な一環を担うことはすばらしいわけで,良い医師や教師がたくさんいる社会,また,そういうことができる経済は良い経済,良い社会と言えると思いますね。
 そういう意味で,医師や教師は聖職といわれるわけで,それだけの知識,技術や人間的な資質を必要とされるのです。特に医師の場合,手術で人体に直接メスを入れて治療したりもすることが許されるのは医師だけで,そういう意味で聖職なのですね。しかし,聖職だったら収入は要らないという考え方は逆で,社会がそういう大事な聖なる職業について,その責任を果たしていることに対するお礼,昔の言葉で「束脩(そくしゅう)」と言うのですが,そういう職業に従事して,十分責務を果たしていることに対する社会のお礼ですね。私がシカゴ大学にいた頃,医学部の教授は経済学部の教授の3倍の給与でした。でも,医師の平均収入に比較すると,同じ技術水準でもかなり少ないと言っていました。
 もっと大きな問題は,看護婦さんの待遇です。肉体的にも精神的にも非常に厳しいのに,信じられないほど低い。社会にとって大事な存在なのですから,もっと大事にして,それにふさわしい経済的,社会的な立場を用意するのが社会の義務だと思っています。

●それを支える専門的職業集団があいまい
宇沢 ところで,介護保険についてですが,これは非常に大きな問題を含んでいると思います。先ほど,医療保険制度は全体としてうまく機能していると申しましたが,それは職業的な専門家としての医師が中心になり,その背後には膨大な医学に対する知見と蓄積,優れた医師やコメディカル・スタッフという職業的な集団が支えてきたからなのですね。ところが介護保険制度にはそれがなくて,基本としてどういう介護が必要かを行政的な基準によって判断するというおかしな制度ですね。
木村 それはわれわれも心配しています。まず医療の立場で捉えなければならないのに,介護だけがクローズアップされて,経済性,効率性が前面に出てきてます。医療と介護がいい意味で連携ができればいいのですが……。しっかりした医療なり,リハビリテーション医療を展開すれば介護は必要なくなるかもしれませんし,逆に適切なリハビリテーションが行なわれずに介護にいけば悲惨な目に遭うかもしれない。医療の現場ではなく,行政優先という感じが免れないのです。

●「経済に合わせて医療を考える」のではなく「医療に合わせて経済を考える」
宇沢 私も日本へ帰ってから,原点に返って医療について教えを受けているのですが,先生から「経済学者なんだから,国民所得の何%が最適な医療費か計算しろ」と言われて,「とんでもない,そんな大それたことはできません」と答えました。
 経済学がなすべきことは,最良の医療を可能な限り多くの人が受けられるような制度をどのように作れば良いのかを考えることです。経済に合わせて医療を考えるのではなく,医療に合わせて経済を考えようというのが私たちの基本的な立場です。介護保険はまさに経済に合わせて作られたものです。しかも介護は,まだその定義さえはっきりしていません。ほとんどの人は,「自分は介護を受ける資格がある」と思っていますが,現実には必要な人がすべて受けられるのではなく,行政的な基準で意義のはっきりしない質問表で決められるわけで,不満が出てくると思います。
木村 まだ見えていない部分があり,施行しながら直していくようです。
宇沢 それで財政負担がさらに大きくなったら一層まずいことになるのではないでしょうか。きちんと医学的な判断に基づいて認定が行なわれるようにしないと,不公平が出てきて混乱するばかりだと思います。

医師,医療関連職の教育

●EEPによる現場教育
木村 次に,教育,特に医学教育の問題についてお伺いします。先生が言われたように,医師には高度な人間的尊厳が不可欠です。そのためには常にそういうものを医学教育の中でも教えていかなければならないと思います。そうは言いながらも,実際には時間的制約もあって難しい問題です。医師を養成する医科大学や医学部で倫理面の教育をどのようにしたらいいか,それがまさに問われているのが現状だと思います。
 私どもでは,EEP(early exposure program)というものをカリキュラムの中に採り入れています。これは大学生活の最初に,医学部の学生を医療の現場に触れさせるために,1年生の時から医療の現場に送り込んで介護の現場やコメディカル・スタッフがどのようなことをしているのかを身をもって体験させるプログラムです。このようなことを大学でやるべきかどうかはわかりませんが,こういう倫理面の教育,医師としての厳しい倫理観を養うというプログラムに関していかがですか。
宇沢 私は旧制一高の頃は医学部志望で,3年生の時に悩みまして,ヒポクラテスの本などを読んだりしましたが,その中に次のような一節があります。
 それは医師が後継者としてどのような若者を選べばよいのか,というところなのですが,そこに「人格高潔,知識習得に優れて,そして一生を患者のために捧げるという固い決意を持った若者でなければいけない」と書いてあります。社会的にも人間的にも重い仕事を一生やらなければいけない。人間的な資格というのですか,果たして自分が持っているかどうかということを悩んで,それを超越できなくて,土壇場になって変えて数学を選びました。
 もう1つヒポクラテスの誓いでは,医師になる者は必ず自分の息子を医師にしなければいけない,ということも要求されているのです。社会にとって大事な役割なので,小さい時から医師としてきちんと責任を果たせるように育てなければいけないということなのですね。

●リベラルアーツの意味と意義
宇沢 旧制高校は,今で言うリベラルアーツのカレッジですね。リベラルアーツというのは,専門を問わず何でも勉強するということですね。10代の成長が著しい時に,人類がこれまで蓄積してきた芸術,科学などのさまざまな知的遺産をできるだけ多く吸収し,そのプロセスを通じて人間的な成長を図る。可能な限り学問的,芸術的な遺産を吸収することが大事なのです。
木村 いろいろな意味で刺激を受けて可能性を開発するということですね。
宇沢 現在の日本の大学教育の最大の欠点は,リベラルアーツに身を浸すという大事な課程が抜けていることです。
木村 きついカリキュラムの中で専門教育だけを押し込まれて,幅広く学ぶ教育がよそに置かれてしまっているのが現状です。
宇沢 アメリカには多くの4年制のリベラルアーツのカレッジがあります。学生は大体が全寮制で,その4年間に知的なコミュニティの一員として自由に勉強して,そこを出てから大学院に進むのですが,日本の場合にはそれが欠けています。

●共通一次試験の弊害と国立大学の特別法人化
宇沢 日本は共通一次試験という入試制度で選抜していますが,アメリカの医学部は4年制カレッジを終了して大学院で勉強したり,社会の経験を持ってから受験します。
 東大にいた頃,数学の問題の作成と採点をしていたのですが,共通一次以前の東大の数学の問題はよかったですね。よい数学者がたくさんいて,自分が専門としている高度な問題をやさしく出題しているので,予備校では予想できないような問題が出ました。これは医師になるためにはよい訓練にもなります。
 病気は患者さんによってすべて異なります。患者さんの症状を見て,話を聞いて,いろいろな可能性を探るわけですね。数学の問題を解くのと同じように,自分の知見に基づいて,検査をしてidentifyしていくわけです。その上で治療法を考える。治療法もある治療をしてどういう効果があるかを考えながら絶えず修正していくわけですが,共通一次試験ではこういうことがまったくなくなってしまいますね。
木村 リハビリテーションの場合,看護婦さんをはじめ,理学療法士,作業療法士など,いろいろな職種の方がおります。彼らの教育はいわゆる職業教育という面も含んでいて,病院での実習を含めて,比較的少人数で行なわれています。その中で人間的な教育もなされており,むしろ医学部より進んでいるのではないかと思います。
宇沢 先ほども言いましたが,コメディカル・スタッフの社会的,経済的な地位が低すぎると思います。アメリカでは看護婦さんの社会的地位は非常に高いですね。ヨーロッパもそうです。日本は少し低すぎるのではないでしょうか。
木村 特にリハビリテーション医療はチーム医療ですので,われわれが先導しながら地位を高め,職業にプライドを持てる状況を作るように頑張ろうと思います。
宇沢 繰り返しになりますが,医療というのは聖なる職業で,優れた若者がそういう職業を選び,一生を通じて,社会的,経済的に地位の高い生き方ができる,ということが大事なのではないでしょうか。
木村 ところで最近,国立大学の特別法人化の動きがあります。競争原理が持ち込まれ,採算のとれない大学がつぶれたり,不採算部門が廃止されたりという懸念があります。この点についてはいかがでしょうか。
宇沢 あのようなひどい制度が現実のものになりつつあるのは恐ろしいですね。世界にもこんな例はありません。社会的共通資本としての大学,病院は,そこで働いている人の職業的な判断に基づいているわけで,その結果として利益が上がらないところは公的に社会が負担するという形にしないといけなません。浪費そのものは問題ですけれども,大学や病院では浪費は必要で,一種のゆとりと考えるべきです。

教育,医療の理念とその展開

●公園都市
木村 最後になりますが,先生は故郷の鳥取で,理想とする教育や医療などがすべて展開できるような新しいコミュニティをお考えになっているとお聞きしましたが。
宇沢 3-4年前に鳥取県が「21世紀の長期計画」を作ろうとされて,その基本的な考え方として「公園都市」というスローガンを掲げられたのです。私はアドバイザーという形でお招きを受け,感激しました。
 というのは,公園という概念は17世紀に当時ワイマール公国の宰相だった文豪ゲーテが初めて創った概念です。当時,王様は立派な庭園や芸術作品,また音楽家や学者までを私有財産として抱え込んで,自分たちだけで美しさを享受したり,芸術を楽しんだり,学問の恩恵を受けようとしていました。その代表がプロイセンのフリードリヒ大王です。それに対してゲーテは王様の持っている私有財産を社会的共通資本として市民に開放して,すべての市民もその果実を享受できるようにしようと提案した。これが公園の始まりです。日本では公園というと庭園だけですが,ヨーロッパの公園には博物館や美術館,劇場などさまざまなものがあります。

●医療公園とリハビリテーション
宇沢 そこで私は3つのことを提案をしています。1つは,全寮制の自給自足の中高一貫の6年制の学校を山の中に作ることです。2番目は,これは今実現しつつありますが,環境大学と言いますか,「環境」というものを軸に据えたリベラルアーツの4年制のカレッジを作ることです。
 3番目は「医療公園」と言っているのですが,公園としての中核に位置するもので,リハビリや長期医療を中心とした一種の大きな病院村を,それもできるだけ山の中の景色のいいところに作ろうというものです。長期医療というのは終末医療も含み,そこで死ぬこともありますから,周辺に別荘風の建物をたくさん作って,家族が最期を一緒に過ごせるような組織です。
 なぜ山の中に作るのかと言いますと,ヒポクラテスの時代にも,病院というのはリハビリテーションの施設で山の中にありました。森林の中で,渓流のきれいな水が流れていて,温泉があるということが3つの要件で,彼自身もそこで最期を送りました。
 縦割り行政の中でこういうものを作るのは難しいのですが,リハビリテーションを中心とした長期施設があり,その近くに全寮制の学校がある。できれば子どもがその病院の手伝いをして,重い物を運んだり,患者さんの面倒をみながら病院と関わっていく。いわば小さな村を作るのです。
木村 リベラルアーツが自然に身についていくという展開ですね。特に高齢者医療だけでなく,子どもの教育ということにも重点を置いている。若いうちからそういうコミュニティで生活して,高齢者と触れ合い,そういうところで医療の現場に触れていく。さらに高齢者においてはそこで終末医療を迎える。まさに,今まで先生がお話になった社会的共通資本から始まる理念を展開するようなすばらしいお話ですね。
宇沢 終末医療も含めて,特にリハビリテーションの医師を教育する場として役立てばと思っています。
木村 まさに先生の夢を実現するには適した場所ですね。われわれリハビリテーション医療に携わるものにとっても大変心強いお話です。

 本稿は,『総合リハビリテーション』誌(医学書院刊)の〔対談-Meet the Expert:「社会的共通資本」から医療とリハビリテーションを語る〕を医学界新聞編集室で約3分の2に再構成したものです。なお,全文は同誌Vol.28.No.3.に掲載されます。
〔週刊医学界新聞編集室〕