医学界新聞

 

新春鼎談

抑制廃止と看護

介護保険施設での「縛らない看護」をめざして

末安民生
(東海大助教授)
南 裕子
(日本看護協会長)
田中とも江
(上川病院総婦長)


抑制のない医療のために

末安 20世紀最後の年が幕を開けました。今年は,介護保険が始まる年でもあり,来世紀につなぐ保健・医療の抜本的な改革が行なわれる年でもあるかと思います。
 そのような背景の中,厚生省は昨(1999)年3月31日付で「身体的拘束の禁止規定」の通知(資料1)を出しました。これは,老人保健施設などの介護保険施設を対象にしたものですが,運営基準に抑制禁止を盛り込んだことから画期的な出来事と言えると思います。これに対して,日本看護協会は当事者でもある職能団体として4月20日に具体的な事例を添付した「介護保険施設で身体拘束をしないために」と題する資料(資料2)を出しています。また,これらに先立つ一昨年の10月に福岡市で開催された「第6回介護療養型医療施設全国研究会」において「抑制廃止福岡宣言」(資料3)が発表されています。
 これまで医療における身体拘束=抑制は必要悪として,ある意味では「安全のためには必要なこと」と見られてきました。今日は,「抑制は今世紀の遺物」,新たな21世紀には「抑制のない医療」をめざす,という位置づけで,話し合いができればとお集まりいただきました。
 田中さんは,上川病院で抑制廃止を実践し,福岡宣言や看護協会の声明文にもかかわってこられました。また,昨年秋に『縛らない看護』(医学書院刊)を出版されています。ではまず最初に,今回の厚生省令にいち早く対応されました日本看護協会の南会長から,その基本的な考えなどをおうかがいしたいと思います。

自らの認識を変える必要が

 今,末安さんがおっしゃいましたように,新しい世紀は,ぜひとも抑制のない社会にしたいですね。
 私ども日本看護協会が,厚生省令が出た直後に一早く対応できたというのは,見藤前会長が厚生省の医療保険福祉審議会で,「介護保険施設では患者さんを縛らない,抑制をしないでいこう」と発言したことに端を発しているからでもあります。これは,当たり前のことを当たり前に遂行していこうというものでしたが,人が人を縛るということはよくないというのは,皆さんも頭ではよくわかっていらっしゃる。でも,審議会の発言からはいろいろな批判や抵抗も受けました。確かに,抑制をしないのは当然のこと,として受けとめてはいるのですが,いざ実践していくとなると大変なことです。その中で田中さんたちの取り組みは,それが全国にも広がる活動となり,その功績は大きなものがあると思っています。
 特に,「抑制を予防する」,「抑制をはずす」ということは,日常生活支援の観点からも看護のアイデンティティに基づく活動であり,その活動を具体的に書籍として世に問うたということに深い感銘を覚えます。
末安 抑制廃止に向けた大きい流れができ,マスコミも注目しはじめたはずなのですが,現場ではむしろ抑制が増えているのではという話も聞きます。田中さんはどのように受けとめていらっしゃいますか。
田中 上川病院の抑制廃止のことを知り,連絡をしてくださる方々がいますが,その方たちは,お年寄りの今までの医療のあり方に疑問を持ち,ジレンマを感じていた人たちなんですね。一方で抑制をはずしたら転倒事故が起きたからまた縛っちゃったという話や,コメディカルの人たちも本当に困っているという情報もたくさん耳にします。また,一般老人病院では看護部長自らが抑制の指示を出しているということも聞いています。その裏には,抑制をはずしたらそれに見合うだけの患者さんへのかかわり方やケアの内容を検討していかなければならないのに,事故の原因を患者さんの病気と症状のせいにしてしまうという,看護婦の浅はかさがあります。
 そのような認識を変えて,お年寄りの気持ちに沿うケアをどう実践できるかが問われなければいけません。私は,「抑制廃止」というメッセージに込められた意味が,看護界全体にはまだ十分に浸透していないのではないかという危惧を持っています。

医療を受ける側からの視点で

末安 南会長は,「将来ビジョンを持って,国民とともに楽しく歩む看護協会」を会長就任のモットーとされていますが,今のお立場からどのようにお考えでしょうか。
 21世紀が本当に間近となりましたが,私たちの20世紀後半というのは,どちらかと言えば専門職の時代だったという気がします。その1例ですが,20世紀の前半までは,人の生と死は家庭の中,生活圏で行なわれていました。それが生と死ともに,安全性,また命を長らえさせるという意味 合いから,病院の中に移っていった。そして専門職が扱い,一般の人たちからは見えなくなったという現実があります。
 病院の中は密室である,とよく言われます。この「縛る」ということも,一般の人には見ることのできない行為であったと思うんですね。だけど,私はいろいろなことは50年ごとに変わってくると思っています。ですから,21世紀という時代には,もう一度生と死,または自分の生活,医療,すべてのことが一般の人々の手に返ってくる時代になると思っています。抑制に関しては,今までは,専門職が相手のことを考え,よかれと思っての行為だったと思うのですが,それには思い違いもありますし,こちらの身勝手もあったのだと思います。
 マンパワーが不足しているという,環境的な問題から抑制帯をかけることも行なわれた。でもこれからは,医療を受ける側からの視点が強化されます。それが患者さんの安全のためだというけれど,本当に受ける側はそう思っているのか,またそれをされたいと思っているのか,という視点からもう1度見直していくことが大事です。
 私が,「国民とともに」と言っているのは,まずはケアを受けている人たち,それを見守っている家族,また一般の人たちの視点を看護界が持つこと。それは今までにもやっているつもりだったけれど,実際はできていなかった。それはこの抑制帯に象徴的に現れているのだと思います。

老人医療の現場では

何が教育されてきたのか

末安 まさに生と死が人々の手に返るというのは,いろいろな意味がそこに含まれている言葉だと思います。田中さんは,老人医療の最前線にいるわけですが,そこにおける看護をどのようにお考えですか。
田中 私は,今までの老人医療の現場にあったのは看護ではないと思っています。患者さんにとっては収容所でした。患者さんは,病気が起きて具合が悪くなったからと入院する。そこには回復に向けた必要性がありますし,施設はある程度のケアを受けながら自立できる場所であるはずでした。ところが,目的と違って看護がなされていない。日常生活ケアも口で指示し,見ているだけという現状があるんですね。だけど,目で見て指示をしてもお年寄りには伝わりません。高齢者の気持ちは年をとってみなければわからないと言うけれど,それではプロとしてはとても恥ずかしいことです。特に,寝かせっきりにして動かさない,立ってもいけない,座ってもいけない,しゃべってもいけない,そう思っている看護者が多いのにはもう驚きですね。
 例えば食事ですが,信頼のない看護婦が無理やり口をこじ開けても食べるはずがないんです。そういう現場が長く続いていたというのは,私は看護教育に問題があったからだと思っています。急性期と慢性期の使命を取り違えている,お年寄りの心を見るという現場での訓練がなされていなかった気がします。
末安 そうすると,現場の人たちは何を見ていたのでしょう。
田中 現場の人たちは入院する患者さんの数を見ていたんです。それで,死ななければよかった,維持されていればいいと判断する。それで確実に廃用性症候群や褥瘡,尿路感染を作った。けれど,それを患者さんの病気のせいにしていました。
 思うに,入院という形態は患者さんを管理し,なおかつ患者さんの心まで管理する,そしていつも看護職は患者さんを怒っているんですね。これはとんでもないことです。施設に入る患者さんはご自分の意思で帰れる人たちではありません。もしかしたらだまされて来ているのかもしれないわけです。だから猜疑心と,すごくつらい気持ちがあるのに,その人たちに向かってああしろこうしろと,自分たちの都合で業務をしている。彼女,彼らのケアはどこにあるのって,常に問い続けていました。
 抑制の問題には行政が介入しましたし,日本看護協会が一番先にメッセージを伝えたことは,社会的にもかなりの効果があったと思います。だけど,どの時代もそうかもしれませんが,必ず反対の考え方を持つ人がいまして,それが同僚であるはずの婦長さんだったり医師に多かったですね。それと,患者さんの症状がよくならないとあきらめて,可能性を信じない人たちでした。

心の自由を求めているお年寄り

 先ほど教育が悪いとおっしゃられていましたよね。私たち,患者さんを縛れという教育をしていたのでしょうか。(笑)
田中 抑制法というのがありますよね。
 抑制の方法は習います。ただ,高齢者の痴呆で入所している人たちを抑制しましょうと教えていたかというと,多くの看護学校では教えていないはずです。つまり,抑制とは何かということは教えます。しかし,自分たちが困ったら患者さんを抑制しましょうとは誰も教えてはいない。なのに,現場へ出ていった時に,抑制をするようになってしまう。「看護職は誰も縛りたくて縛っているわけではない」という思いがあると思うのですが,仕事のしやすさだとか,自分の都合で患者さんを縛っているという後ろめたさとか,ジレンマがありますね。
 私も教育を行なっていて,そういうところがあるとは思います。でも,抑制をしている病院で働き始めると,慣れてしまうのはなぜでしょう。私はこの束縛が起こるというのは,看護者が不自由だったからだと思っています。ある意味で,自分自身が束縛されているからだと思うんです。心も,身分も,役割も,いろいろなところが束縛されていて,自由に発想していいんだとか,自分の考えていることを大事にしていいんだとか,自分の考えていることを実行していいんだというメッセージが現場の中に少ないのだと思います。
 私も,ン十年前は学生でしたし,卒業して一般病院に勤務しました。新しい病院で,やる気満々の,雰囲気としてはいい病院だったのですが,自分がすごく不自由になっていくのを感じていました。そういう不自由さに慣れてくると,相手を不自由にすることにも慣れてくるんですね。反対に,自分が自由であることを闘っている人は相手の自由も尊重できる人だと思います。私もある意味で何かと闘ってきたから,自由にいろいろなことがしてこれたのだと思っています。看護職は,もっと自由に,自分の判断を信じて行動できる,そうあってほしいし,そういう職種でありたいですね。そのためには,それだけの準備も必要です。つまり教育の質も高めないといけないし,看護職の行なうことが国民にとっていいことなのだと質の保証をしていくシステムも作らないといけない。そういう役割が職能団体にあると思っています。
 もう1つは,高齢者についての理解が浅いのではないかということです。
 私は,高齢者の方とおつき合いしてみてしみじみ思うのは,若い人よりもっと自由を求めているということですね。一般の人も含めて,老人は不自由になることが当然,自分で自分のことができないから世話してあげないといけない,という風潮がありますね。だけど,本当は心の自由を求めているんです。そこに気づくのが看護界はあまりに遅かった。そこを一緒に,市民とともに考えたいと思いますね。
田中 「患者中心の看護」とよく言われますけれど,病院の中で一番立場が弱いのはお年寄りの患者さんです。人間的な関係で言えば医療従事者と患者さんは対等なはずですが,医療はまだまだ「お医者さんが一番偉い」世界なわけです。確かに医師はそれだけの勉強もなさっているから,それはすごいことなのだけれど,お年寄りには長い人生経験があるわけで,例えば90歳のお年寄りにとっては私たちは若造ですよ。若造の言うことなんか,コミュニケーションがなければ本来は聞けないですよね。
 そもそも長生きすれば呆けは必ずといっていいくらいに自分のところへやってくると考えられます。病院や施設は,そういう方々の集まりとも言えます。ところが資格を持った専門職は,どうもお年寄りと自分は違う人種であると思っているように見える時があるんです。「言ってもわからないから」と,コミュニケーションを拒否して差別する。抑制の問題も同じです。現場では,抑制が患者さんにもたらす苦痛や衰弱に薄々は気づきながら,無視して縛り続ける。本来私たちは,そういう苦痛や衰弱に対応すべきであり,それが専門性ではないですか。看護学校の教育,現場での教育を含めて,どこかでその視点や構造を変えないといけませんね。

国民とともにある看護

抑制ゼロへ向けた意識の改革を

 医師は専門が違えば他人に任せることができる職種なんですね。つまり皮膚科の先生が小児科の先生に頼むということなど,お互いに紹介し合うのは専門職同士では当然なわけです。そういう意味では,看護職がなぜ専門職と同等とは見られなかったか。理由はいくつもあると思うのですが,例えば田中さんのように医師にきっちりと私はこれをしたいと説明できる,または,私たちはこの分野においては医師よりも詳しいのだから任せてくださいと言える看護職がきわめて少なかったのだと思います。でも,医師の側からすれば,理解できる言葉で説明をし,わかって任せられる看護職も少なかったのではないでしょうか。
 私の個人的な体験では,きちんと自分が自信を持って主張ができる事柄に対しては,聞く耳を持つ医師は多くいました。もっとも,「女の言うことは聞けない」という権威的な人もいますけど(笑)。だけど,患者にとってよいことで,それも納得できる証拠がちゃんとあってというのであれば,「やってみたらいい」と言ってくれる医師も少なからずいます。ただ,看護職が実践に移せなかったんですね。
 そういう意味で,私はこの抑制を取る「縛らない看護」というのは,患者さんを縛らないだけでなくて,看護職が自分の信じていることを封じ込めるのではなく,行動化していくきっかけになり,非常に大切な展開をされたと感じています。
田中 私は,とにかく何かを解決していかないことには医師にものが言えない,認めてもらえないというところから出発したのですが,最近ではいい後輩を育てたいと思っています。一緒に考えて,何かを作り上げてくれる後輩がほしい。そしてその後輩が,また次の後輩を育てていくというシステムを作っていかないと,どんなに一生懸命やってもむりがきます。
末安 一緒に何かをしながらというのは重要ですね。例えば,抑制で言えば最初の1年間スタッフがみんな不安になっている。だけど,もう抑制しないと決めたら命令するだけではなくて,泊り込んででも達成するという意気込みがすごいですね。
田中 要は後ろに下がらずやり続けることです。失敗をしても,それをよい方向へ向けて解決策を出していくことで前が必ず見えてきます。そういうプラス指向のコミュニケーションが大切だと思っています。
 ある大学のOTさんがかかわっている時に,1人の患者さんが目の前で転んで骨折をしてしまった。もう自分は辞職をしなきゃいけないぐらいに責任を感じたけれども,その後の対応がよかった。急いで医師に来てもらい,折れていることがわかるとすぐに手術を行ない,それで歩けるようになってQOLが戻った。その時に,家族や本人から言われた言葉は,「なぜ私を骨折させてしまったの」ではなくて,「あなたがここにいてくれたから私は元気になれたのよ」でした。そういう信頼関係の中からいろいろと変わっていくのだと思います。
 先日,日本看護協会のプレス懇談会の折りに,あるマスコミの人が,病院の中でどれだけの事故が起こったかを,外来にでも毎日張り出してはどうかという意見を述べられました。そうしたら,患者は安心するというんですね。隠してごまかさないことが安心につながるということです。
 アメリカの場合ですと,「うちの病院の事故率は何%です」と言っています。そのことが評価機構の中できちんと評価される。もちろんパーセントが高ければ問題ですが,人がしていることですから,いろいろな失敗は必ずと言っていいほど起こります。ただ,人に任せて何か起きた時には腹が立つものですが,自分が一緒に参加している場合にはそう腹が立たないでしょう。
 田中さんの施設の場合は,患者さん,ご家族の参画型でしょうから,自分も責任を負っているということになります。だから,誰かのせいでそこに何かがあって骨折したというわけではなくて,自分が転倒して骨折したという思いになれることは,対等感ということが言えるのかなと思いますね。
田中 うちの事故報告書はたくさんありますよ(笑)。その数ですが,1年間で1000件。もちろんこれにはニアミスも含みます。実際に骨折したのは6例で,そのうち肋骨の骨折が1例,鎖骨骨折が2例,大腿骨頸部骨折が3例です。この数は多くない。手術を受けた方のQOLも落ちていません。
 ある時,病棟婦長が職員出入口の鍵をかけ忘れ,徘徊の患者さんが階段から落ちたことがありました。でも,その患者さんはかすり傷しか負わなかった。普通は考えられないことです。毎日歩いていたので,防御の姿勢が自然に取れたのですね。ところが抑制や行動制限をすると心を硬くするばかりでなく体のバランスを失わせます。そのために転倒すると頭を打って硬膜下血腫を起こしたり,手術を必要とする骨折を招いたりします。抑制をなくしてから,それがなくなりました。これは私どもの病院だけでなく,抑制を廃止した病院はすべて事故が減少したという報告がされています。
末安 それに関連しますが,総合病院の病棟や急性期対応病棟でもさまざまな工夫をして抑制をなくしたところ,転倒や骨折事故が一切なくなったという報告もありました。工夫次第で成果をあげることは可能だということです。
田中 一昨年の10月に福岡で抑制廃止宣言をする時に,抑制をする理由を10病院から集めました(資料4)。「転ぶから」「ベッドから落ちるから」などがあげられていますが,その他に「9時から5時まで抑制しておけば楽」というものまでありました。これが実態だったのです。こういう病院が今では抑制ゼロになっているんです。意識は変えられるんですよね。

一般社会に向けて発言を

末安 日本看護協会が出されました資料の中で,抑制廃止に向けた政策として,マンパワーの確保と責任者の決意があげられていました。職能団体の働く側への言葉ということでは,一般国民への力強いメッセージにもなると思うのですけれど,看護職が最も意識をしなくてはならないことではないかと考えます。看護協会としては,福岡宣言を出された人たち,田中さんたちの実践を,どのように伝え教育し,どう活用されていくのでしょうか。
 臨床をしている方々にアピールするのには事例が最も効果があると思います。身近にいる患者さんに近いケース,自分の置かれている状況により近いケースなどを知ることにより学ぶことができるのだと思います。ですから,各地の事例を多くの病院や施設で具体的に示していくことが有効になるでしょう。
 それを踏まえた上で,私は田中さんに今後やっていただきたいと思っているのは,管理職へのアプローチです。さっきおっしゃったように,誰かが決意しなければいけない。そして,院長や施設長を説得する必要もある。これは個々の看護職ではできないことでしょう。そうなると管理職がその気にならないといけません。責任者が決意して全員で実行することが重要です。ですから,田中さんたちの体験を,今現場で体験している看護職や管理職に伝えていただけたらと思いますね。
 もう1つは,田中さんにパブリックスピーカーになっていただき,一般の人にわかるように,社会に向けての発言をぜひお願いしたいのです。家族にしてみますと,自分の親が縛られているのを見るのは切ないですよね。だからといって,自分の家へ連れて帰ってケアできるかと言うと,これもできません。だから仕方なく泣き寝入りしているというのが一般の姿だと思います。だけど,抑制をしなくてすむ,できるのだとわかれば,それを要求していこうという意識に変わってきます。社会がそのように動けば,院長も施設長も変わらざるを得なくなる。そういう意味で,本当にパブリックスピーカーになってほしいと思います。

市民感覚を看護に

末安 今までにもお話がありましたが,やはり看護職内部の相互教育が必要だと思います。そこでどのようなメッセージを,どう伝えていくかにつきまして,お考えをお聞かせいただきたいと思います。
田中 学生時代によい実習現場を探していただきたいですね。私はいろいろな大学や看護学校,准看学校の先生方とも交流していますが,教育者は実習のよい現場がないとおっしゃいます。
 私は逆です。私は精神科にいたということもあるのかもしれませんが,理想的な現場というのはそんなにないと思っています。現実の話,そうせざるを得ない実情を見ないことには,いいところだけ見てもよい教育にはなりません。問題があれば,それが反面教師になると思っています。
田中 そこで働く看護職も指導者も,そこで実習する学生も教育担当の先生も,その患者さんを通して一緒に話し合いができるというシステムが必要ですね。
末安 私たちの主戦場には,臨床医学という1つのベースがあるわけです。それは今までの諸科学が営々と築いてきた経験知で成り立っているわけですが,その中で誰が転換していくのかにかかってくる。つまり医学の人たちがその転換を自らやれるかというと,なかなか難しいのではないでしょうか。そこで私たち看護職の役割というものにつながるのですが,入院されている人たちの生き続ける力を助けるのが,私たちの使命であるとしたら,あまり科学に押し流されることなく,これまで私たちが培ってきたよい意味での伝統や経験を通して,自分の感じ方が理解できるような感情の訓練を行なうことなどが,これからの看護には必要なのではないかと思います。
 また,これまでの話から抑制だけでなく,看護が職能として担っていくべき役割がいくつか出てきたように思います。「縛らない看護」,もしくは「縛られない看護」というものが,一般市民とともに歩んでいくとなると,看護者の側には何が期待されますでしょうか。
 一口に言えば,市民感覚を看護に取り戻すということだと思います。看護婦が1市民としての活動をすることの重要性ですね。看護職の労働条件もだんだんよくなってきて,週休2日制も定着しましたし,ボランティアをする時間も出てきました。看護婦のボランティアというのではなくて,自分が地域住民として生きているという実感を持つ,そしてその市民感覚で得た感覚が,自分の仕事の中に生かされていく,ということが非常に重要だろうと思います。
 この「身体拘束をしないようにしましょう」と看護職に投げかけるということは,私たち仲間の中で大変な思いをしながら自己改革を迫るわけです。自らを正していくということを協会の内部から会員に向かって言うのは,決して楽なことではないのです。だけど私たちは会員に向かって言うべきことは言わないといけないと思います。そしてフィードバックですね。みなさんから投げかけられたもので,一緒に改善し,そこから本当に世の中に問うものを作りあげていきたい。その根底にあるのが市民感覚だろうと思うのです。それが私が会長となってからキャッチフレーズにした「国民とともに」の趣旨になるのですが,自らが生活の中でそれを取り戻していくことも大事なのではないかと思います。
末安 ありがとうございます。田中さん,現場ではいかがでしょう。
田中 プラス指向に考えたいですね。看護職はもう少しプラス指向にしないと,重たいものばっかりになってしまいます。もう少し楽な気分でできることからやったほうがいいと思いますね。嫌なことをいっぱい残していますと,頭や体が縛られちゃって,それこそ筋力低下を起こし,自信を失うもとになります。「抑制をしない」という取り組みの中で,私たちがつかんだのは,実はそういう自信なんです。うしろめたさがないから自由になれる。自由になれるから自信がつくんです。
末安 悪循環ではない,「明るい循環」をめざしたいですね。最後は明るい話題となりましたところで終わりたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

資料1 1999(平成11)年3月31日付の厚生省令における,身体的拘束の禁止規定
 「サービスの提供に当たっては,当該入所者(利用者)または他の入所者等の生命または身体を保護するため緊急やむを得ない場合を除き,身体的拘束その他入所者の行動を制限する行為を行なってはならない」
〔対象〕 指定介護老人福祉施設/介護老人保健施設/指定介護療養型医療施設/短期入所生活介護/短期入所療養介護/痴呆対応型共同生活介護/特定施設入所者生活介護
※身体的拘束とは,衣類または綿入り帯等を使用して,一時的に当該患者の身体を拘束し,その運動を抑制する行動の制限をいう

資料2 介護保険施設で身体拘束をしないために
1999(平成11)年4月20日(社)日本看護協会

 平成11年3月31日付厚生省令で,指定介護老人福祉施設,介護老人保健施設,指定介護療養型医療施設等の運営基準に身体拘束の禁止規定が盛り込まれた。これまでの医療・福祉現場の実態から見て画期的なことと評価できる。
 身体拘束が禁止されることは,利用者の人権擁護の観点のみならず,拘束が身体機能や心理状態を悪化させかねないことから当然のことである。しかし現場では,この基本は理解していてもなかなか実践が難しく,ケア提供者の間のジレンマでもあった。
 そこで,まず身体拘束をしないための基本的事項として,以下の3点を確認したい。
(1)十分なマンパワーを確保する
身体拘束をしないためには,十分な数のスタッフを確保しなければならない。特に病棟・施設の特性に合わせた配置,夜間の手厚い配置が必要であり,政府はそれに見合う報酬や基準を担保するべきである
(2)責任者が決意し,全員で実行する
施設の責任者とケアの責任者が確固たる姿勢で「身体拘束をしない」ことを決意し,実行を推進する。責任者のゆるぎない態度が「そんなことできるのかしら」というスタッフの疑念と不安を解消する
(3)拘束が必要な状態かどうかを再検討する
スタッフ全員でもう1度,身体拘束をすべき理由が本当にあるのか,身体拘束が入所者を苦しめていないか,アセスメントは正しいか,他に工夫はないかなどを再確認し,専門職にふさわしい知識と技術と倫理をもって身体拘束のない状況に向けての解決策を検討する
 身体拘束をしない取り組みは容易なことではない。サービス提供者1人ひとりが強い意志を持って,今までのケアのあり方を見直し,場合によっては考え方を変えなければならない。まさしく“挑戦”といって過言でない。(以下略)

資料3 抑制廃止福岡宣言 1998年10月30日
 老人に,自由と誇りと安らぎを
1 縛る,抑制をやめることを決意し,実行する
2 抑制とは何かを考える
3 継続するために,院内を公開する
4 抑制を限りなくゼロに近づける
5 抑制廃止運動を,全国に広げていく

資料4 こんなときに縛っている! 調査時点:1998年10月「抑制廃止福岡宣言」時
1 転倒するおそれがあるから。事故が起こるから。ベッドから落ちるから
2 バルーン,胃チューブ,点滴などのライン抜去予防
3 事故を起こすと家族からクレームがつくから。責任者として責任を追及されると困るから
4 他の患者の部屋に入り,物に触ったり持ち出したりして,迷惑になるから
5 オムツをはずすから(不潔行為)
6 暴力行為があるから(他害・不穏)
7 自傷行為があるから(皮膚をかきむしるなど)
8 簡単容易だから。問題解決の先送り
9 即座に業務の目的が達成できるから
(理由としてあげられた項目を多い順に並べた)