医学界新聞

 

〔カラーグラフ〕看護からみた20世紀(2)


 日本における最初の看護に関する記事は,「日本書記第2巻や古事記」に著されている。また,歴史上の通説ながら聖徳太子は看護事業の先駆者とされ,大阪の四天王寺に施薬院・療病院・悲田院・敬田院の四箇院を建立(593年)。その後,奈良時代に貧困者,らい患者救済を行なった光明皇后は看護事業の祖と言われている(730年頃)。しかし,これより遡ること100年前のヨーロッパでは,修道院が各地に病院を建立していた。
 鎌倉時代の日本は仏教を中心に医療が展開され,室町時代にはキリスト教伝来による影響が現われた。また,江戸時代には産婆が職業として独立したものの,西洋諸国とは違って職業看護婦の発達はなかった。
 ナイチンゲールが活躍したのは1850年から1860年の時代。そしてアンリ・ジュナンが提唱した赤十字社が結成されたのは1863年のことである。その5年後の1868年に横浜に横浜軍陣病院誕生(後に東大病院の前身となる)。初の女性「看病人」を雇った。
 そして明治期に入り,相次いで看護婦養成所が誕生。それから110余年,看護系大学は76校に増え,今後も増え続けると予想される。
 本紙では,貴重な写真に加え看護技術や看護教育の変遷,現在の看護に多大な影響を与えたGHQ(連合軍最高司令部)に関する話題から20世紀を振り返ってみた。

 1902年当時の聖路加病院。左は1900年にトイスラーが佃島の佃煮屋を改装して開いた診療所。「聖路加国際病院」と改称されたのは1917年のことであった。なお,下には式典でのトイスラー院長の姿が見られる(正面向き右端,聖路加国際病院前だが撮影年は不祥)
(写真提供:聖路加国際病院)
【聖路加における看護教育の歩み】
 アメリカ人宣教師・医師のトイスラーが1900年に来日し,東京・佃島に診療所を開設。1902年に築地病院を改築し,現在地(明石町)の聖路加病院が誕生した。1904年には聖路加看護学校を開設し,アメリカ式看護法を取り入れた看護婦養成が開始された。1920年には聖路加国際病院付属高等看護婦学校が発足。応募資格は高等女学校卒業者,修業年限3年という質の高い看護教育が行なわれた。1927年には看護教育初の専門学校となった聖路加女子専門学校に昇格。その後の太平洋戦争を経て1946年にはGHQの指導により日赤女子専門学校と合併され看護教育模範学院が設立(1953年に再分離)。1954年には3年制の短大となり,1964年に大学に昇格した。

 萩原タケ(1873-1936)。1893年に日赤7期生として入学。この制服は1899年に制定されたもので,記録には1900年7月21日撮影とある。萩原は,生徒時代に日清戦争(1894-95)や岩手県三陸津波災害(1896)の救護にあたった。1907年からフランスに渡り,1909年にはヨーロッパ各国を旅行している。その折にロンドンで開かれた第2回ICN大会に参加するなど,ヨーロッパでの生活は2年間に及ぶ。帰国後は日赤病院看護監督の職に就き,1920年には山本ヤヲ,湯浅うめとともに第1回ナイチンゲール記章を受章した
 右下は1921年当時の台湾支部での看護婦養成風景,下は患者運搬法の授業風景(1894年,現日赤医療センターにて)
(写真提供:日赤本社)

看護技術の100年
川島みどり(健和会臨床看護学研究所)

 看護は人々の生活の中から生まれたこともあって,看護技術そのものが,診療技術と比べてかなり未分化な様相のまま今日に至っている。加えてわが国特有の看護婦発生の歴史は,旧態依然とした人間関係と風土に影響して職業の自立を阻み,看護行為に潜む技術的探求が遅れてきた。
 看護技術の100年を概観すると,最初の半世紀は,相次ぐ戦争と災害救護という極限状況の中での人命救助をめざして成長。止血,固定,包帯,移送などがその主流である。非日常的な状況下での自己犠牲が大前提であった上,医師による教育のため,医師の目から見たあるべき看護婦像が創られたともいえよう。後半の50年は,職業としての近代的脱皮を図るためにもがき続けた50年であった。看護技術という視点から見ると抗生物質の普及がまだない時代には,前50年の伝統を受け継ぎ,安静,保温,栄養という,病む個体の抵抗力を維持するケアを通して病人の安らぎをもたらし医師の治療効果を高めた。だが,看護のよしあしは看護婦個々のパーソナリティの評価によっていた。保助看法では,2大看護業務の1つに「療養上の世話」が明文化されたが,これが看護独自の技術,と意識されたのは1960年代後半からである。しかし,ヒューマンパワーの厳しさもあって,理念と実践の乖離は年ごとに厳しさを増した。
 また,医薬品の大量使用,検査技術の進歩により看護技術も大きく変化した。症状観察1つをみても,看護婦自身の目や手で把握していた変化を,聴診器による呼吸音聴取や血液ガス,電解質のデータを通してアセスメントする能力が求められるようになった。生命維持へのケア技術の習熟が求められる一方,延命後の意識障害遷延患者の意識レベル改善を図る技術の確立も課題となっている。
 これからは,古くから看護婦たちが編み出した,有形無形の技術を再評価し,医薬品に代わる治療効果をめざす看護技術の構築も待たれる。温熱やタッチを利用した看護婦の身体をツールとする技術にこそ,ストレスフルな社会環境のもとで心身を病む人々の内面に備わる回復力を促し,あるいはターミナル患者の苦痛の緩和を図る技術の可能性をはらんでいる。ますます高齢化のテンポの加速が予測される現在,看護婦の善意や態度ではなく,技術に裏打ちされた真の社会的機能としての看護技術の発展は国民の願いとも一致するだろう。