第2368号 1999年12月20日


連載
アメリカ医療の光と影(18)

医療過誤防止事始め(12)

李 啓充 (マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学助教授)


 医療機関の審査格づけ機関である医療施設評価合同委員会(JCAHO)が医療過誤に関する情報収集および防止策構築についての真剣な取り組みを始めたのは1995年である。これまで何度も触れてきたように,タンパ市の切断足取り違え事件,ダナ・ファーバー癌研究所での抗癌剤過剰投与事件など,95年はメディアに大きく扱われる医療過誤事件が「頻発」し,社会の医療不信が頂点に達した年であった。米医師会が医療過誤事件に対する「我関せず」という姿勢を180度変換して,「全米患者安全基金」を設立して過誤防止に積極的取り組みを始めるようになったのもこの年であるが,JCAHOは医療機関の審査に際し「警鐘的事例(sentinel events)」に対する取り組みをその審査項目に加えるようにしたのである。
 警鐘的事例というのは耳慣れない言葉であろうが,その定義は「死あるいは重大な身体的・機能的傷害を,予期し得ない形で生じた(あるいは生じ得た)事例」とされている。この定義では,患者に実害が及んだ事例だけでなく「ニアミス」の事例をも含めている点に注意されたい。

「警鐘的事例」の目的

 JCAHOは,警鐘的事例の調査を医療機関の審査に取り入れる目的は次の4点にあるとしている。その第1は,警鐘的事例の審査を患者ケアの改善に役立てるということであるが,医療過誤についての検討が患者ケア一般の改善につながると強調している。目的の第2は,警鐘的事例が生じた医療機関に対しその原因を突き止め再発防止策を講じる努力を促すことにあるとしているが,JCAHOが強制的に改善策を押しつけるというのではなく,過誤の当事者である医療機関における自己学習・問題解決を重視する制度となっている。目的の第3は,医療過誤に対する情報を集積し防止策を講じることにあるとし,誤りから学んだ教訓を広く他の医療機関に提供することをめざしている。第4の目的は,医療機関の審査に対する社会の信頼を維持することであるとし,社会の医療不信を強く意識している。
 JCAHOが「医療過誤(medical malpractice)」という言葉を使わずに「警鐘的事例」という「新語」を作った理由としては,次の2つが考えられる。1つは過誤の「処罰」ではなく「防止」がその目的であるという意をこの新語に込めることである。審査の対象としているのはあくまでも警鐘的事例に対する医療機関の「取り組み」が十分であるかどうかということであり,警鐘的事例が起こったこと自体を罰することが審査の目的ではないということを強調しているのである。

「過誤」訴訟に対する警戒心

 JCAHOが警鐘的事例という言葉を新造した第2の理由は,「医療過誤」という直截な言葉を使った場合,医療機関が「過誤」訴訟に対する警戒心から素直に調査に応じないかもしれないという危惧である。
 医療機関は過誤訴訟に対しては過敏といえるほど神経質であるのが常であり,JCAHOの審査に協力することが法廷で不利な材料として使われてはたまらないという恐怖心を抱いている。したがって,JCAHOとして過誤防止のための情報を集めるためには,この病的ともいえる医療機関の過誤訴訟恐怖心を和らげることが必須条件となるのである。
 JCAHOは,警鐘的事例というオブラートにつつんだような言葉を発明しただけでなく,警鐘的事例の審査に用いた資料が法廷で不利な証拠として使用されることがないという安心感を医療機関に与えるように様々な工夫をこらしている。JCAHOが入手し得た資料を法廷には絶対提出しないと保証するだけでなく,医療機関に対してJCAHOへの報告には患者や過誤を犯した当事者が同定できるような情報を入れないよう指導している。また,根本原因分析・過誤防止対策の報告書は,JCAHOでの処理が済んだ後は医療機関に返却するとしている。さらに,法的係争に対する危惧からJCAHOに報告文書を提出したくないという医療機関に対しては,JCAHOあるいは当該医療機関での口頭報告・審査も受け入れている。

「生ぬるい」制度だが……

 米国の医療機関にとっては,JCAHOの審査に通ることが公的医療保険であるメディケア・メディケイドの適用を受ける必須条件となっており,その審査に通るかどうかは医療機関の死活問題と直結している。そういう意味において,JCAHOはその審査活動を通じて医療の質を改善させる大きな強制力を有しているといえる。
 しかし,警鐘的事例に関しては,JCAHOは自身の役割は医療機関を取り締まる「警察活動」にあるのではなく過誤防止についての情報収集と助言にあるとし,警鐘的事例の自主的報告を奨励はしているものの医療機関に対してその報告を義務づけてはいない。JCAHOが警鐘的事例の発生を知った場合に初めて,医療機関に根本原因分析の調査と再発防止策の報告が義務づけられる制度となっているのである。
 このように一見「生ぬるい」制度であるにもかかわらず,95年に警鐘的事例を審査項目に入れる制度が発足してから,警鐘的事例の調査件数は表に示すとおり増加し続けている。医療機関は自らの誤りをみとめたがらないのではないかというJCAHOの当初の危惧とは裏腹に,医療機関による自主的報告の割合が年々増えていることは注目に値する。