医学界新聞

 

〈連載〉

国際保健
-新しいパラダイムがはじまる-

高山義浩 国際保健研究会代表/山口大学医学部4年


〔第14回〕書を持って旅に出よう

 「旅に出よう!」。こんな,おせっかいな提案をしなくても,アジアへ旅に出ている医学生はもうめずらしくはないようだ。この現象は,ここ4-5年で加速したような印象がある。僕が初めてバンコクの土を踏んだのは8年前だが,その頃はまだ「アジア自由旅行」はめずらしかった。
 でも,現在では,例えば僕が在籍している地方の大学4年生だと,その1/4は何らかの形でアジア自由旅行を経験している。これは加速度的な増加だと言えるだろう。実際に,春・夏休みのバンコクやカルカッタ,カトマンズ,あるいはイスタンブールには,日本の若者が大勢いる。大勢というのは,安宿街の一角に腰を下ろせば,最低4-5人の日本人が視野に入るというものだが。医学生の中には,ボランティアや保健調査などを目的として海外旅行を企画する動きも活発になってきている。そこで今回は,そんなアジアをめざす学生たちへ,これまたおせっかいながらもアドバイスを3つほどしてみたい。

何はともあれ,健康第一

 旅のリスクとは何だろうか。事故や事件に巻き込まれることもあるが,やはり健康を損なうことこそ,開発途上国旅行では常につきまとっている危険である。適切な処置を怠ると,死に至ることもある。ところが,TV番組の影響だろうか,あまりに安易に,というより無謀に途上国を放浪する大学生が急増しているようだ。
 WHOの報告書「International Travel and Health」に,先進国出身者が途上国を1か月旅行した場合のリスクについてまとめられていた。これによると,100人のうち20-30人が体調を崩すという。そして1割弱が医師の診察を受け,1万人に6人程度が緊急輸送の対象となり,10万人に1人が死亡,と報告されている。ここに,帰国後の死亡例は含まれていない。
 一方病気の種類では,「旅行者は30-80%の確率で下痢を経験する」としていた。ところが,この下痢症はストレスを除けば,結局手洗いの励行と飲食物への注意で回避できるはずなのである。飲食物への注意とは,まずは生水を口にしないことであろう。もちろん途上国では,水道水でも安心できないことを知っておくべきだ。水は市販されているものを買い,ペットボトル,もしくはビンから直接飲むようにしたい。細かいことを言えば,屋台で出される氷も怪しいので,避けたほうがよいとされている。
 実は,こういった話をしているといつもジレンマに陥る。というのも,確かに生水は飲むべきではないし,生野菜や果物など生ものも危険だといえる。かといって,よく火を通したものだけを口にしながら旅を続けることが可能かというと,それは非現実的だし,せっかくの旅でありながら行動半径を狭くして,自分の殻に閉じこもることになりかねない。
 最も安全なのは,夏休み,実家に帰ってテレビで高校野球を見ていることだ。つまり,途上国へ行く決心をした以上,危険を知りつつ下痢は覚悟で,どこまでが自分の許容範囲か試し,知って行くしかない。
 僕自身の経験からアドバイスさせてもらうと,旅先で健康を維持する最善の方法とは,食事と寝る場所について,あえて冒険をしないということである。食べ物について選択肢があるのなら,無理して危険なものに挑戦しないほうがいい。あとで下痢に悶絶し,後悔する可能性がきわめて高い。また,野宿や必要以上の安宿の経験は,土産話としては魅力的かもしれないが,ダニや蚊を媒介とする感染症にさらされる最大の危機でもある。こうした「ワイルド」を追い求める学生たちを傍から見ていると,単に「ルーズ」なだけだったりするものだ。

早合点しないこと

 ホームレス,飢えた子どもたち,貧困から立ちあがれない人々,世界にはそんな人たちがたくさんいる。確かにアジアを旅していると,そんな人たちにたくさん会うことになるだろう。しかし,最近のメディアはそんな1つの側面だけをクローズアップしすぎだと,僕は思う。よく「アジアの隣人」という言い方がされるけれど,本当の意味でアジアの人たちを「隣人」と僕たちが感じていくためには,こうした偏見というか,部分的な見方というのを乗り越えていく必要があるのではないだろうか。
 「ボランティアに行きたい」と勇んで,連絡をしてくる学生がいる。そして,「つてを紹介してください」と依頼される。そんな時,僕は次のように返答している。
 「まずは,楽しく旅行されたらどうですか? その国の悲しい部分を先に見ようとするのではなく,素敵なところを発見してみてください」
 行ったこともないのに,いきなりボランティアというのは,早合点し過ぎだろう。「ボランティアをしたい」という気持ちは立派だし,最近の台湾地震のように,緊急にそれが求められることもある。でも,10億人が生活し,広大な国土を有するインドに行くのに,真っ先に「マザーテレサ」というのも,「なんだかなぁ」と思ってしまう。
 旅であれ,援助であれ,早合点は禁物だ。だから,まずはアジアを旅することを僕は勧める。お寺で,地元の人たちと一緒に手を合わせてみよう。南のビーチで,のんびりと夕日が沈むのを追ってみよう。北の山岳地域で,いにしえの文明を求めて探検してみよう。そうしたら,きっとアジアが好きになる。そうしているうちに,きっと問題だって見えてくるはずだ。ボランティアを始めるのは,それからでも遅くはないんじゃないだろうか。

安易な調査をしないこと

 とりわけ国際保健を意識する医学生たちは,なぜだか旅に「目的」を設定したがり,すぐにアンケート調査を始めようとする傾向がある。いわく,「タイ国○○村の保健意識調査」,「ネパール王国××地域の識字率と乳児死亡率の相関」。理系育ちの医学生が,このようなサーベイ的手法にあこがれるのはよくわかる。ただ,あまりに短絡的な発想に縛られてはいないだろうか。
 学生が海外研修旅行に出る場合,初めて接触する世界へと出かけていくことが多いのだから,いきなりデータ(2次資料)というのは感心できない。やはり,本人が自分の目で見,耳で聞き,肌で感じた体験をもとにした資料(1次資料)こそ価値を持つのではないだろうか。
 学生の旅行は長くても2-3週間である。このように限られた期間でアンケート調査を強行しても,いわゆる「ワンショットサーベイ(一発屋)」という陰口をたたかれるだけである。何らかの報告書が求められているのなら,カルチャーショックを通して,自分自身のまごつき,不安,ヘマなどを題材に説明する報告がよいと思うのだが,しばしば報告書には,「僕はとにかくこの目で見てきたんだ。本当のことは,結局のところ見てきた者にしかわからないよ」という傲慢が透けてみえることがある。こうなってしまっては,互いに理解を深め合うせっかくの機会を失ってしまうことになる。
 海外研修を控えた学生に,「フィードバックを意識して調査しろ」とアドバイスをする教官がいる。しかし,こうしたアドバイスが,学生をインスタント調査員に仕立てあげている可能性があるのだ。学生の研修旅行で期待されるものは,第1に体験であり,これがフィードバックにつながる可能性はほとんどないと断言できる。だから,「誰かのために研修しよう」などという欲張りはやめて,「せめて自分自身の実になるような旅行を」と考えるべきだと思う。
 だからこそ,村人の面前でメモを書きつけ,対象者に負担をかける研究者になることは極力避けるべきだ。何かの研究者になるのではなく,旅人の視点を大切にしてほしい。

国際保健活動への道のり

 ところで,このようにアジア自由旅行を繰り返すようになって,僕は,「日本社会が高齢化など,多様な問題に直面しているにもかかわらず,なぜ他国の,しかも日本とかけ離れた人々のことを気にするのか」という質問をよく受けるようになった。この場を借りて,こうした意見についての僕なりの考えを紹介しておきたい。
 僕は,自分自身の社会の問題を理解する上で,異文化を観察することは,僕たちの社会をきわだたせ,問題の諸相を明確にしてくれるのだと考えている。とりわけ,僕たちの歩んできた道をたどっている開発途上国の観察は,僕たちが抱える問題の起源を探るものでもある。直面する問題を,僕たちはしばしば内部で答えを模索し,小手先で回避しようとしている。これに対し,異文化の観察は(僕たちの抱える問題の根の深さに絶望することが多いが)まったく新しい解決策を提示できる可能性がある。
 次に,今や全世界が有機的に結びついていることを思い出す必要があるだろう。僕たちの問題は,僕たちだけの問題にとどまらず世界に蔓延し,公害や労災など,急成長するアジアにとって,日本の負の経験は貴重なものとなってきている。一方で,逆に途上国の問題が,明日の僕たちの問題とならないとも限らない。世界的な人口爆発が,日本の社会でみられないからと日和見を決め込むのは愚かであろう。
 国際保健協力の分野で活動する人々は,世界的な視野を持ち,なおかつ慈愛の精神に満ちている。あるいは日本を見限ったか,日本の競争社会に適応できなかった人々である,と誤解している人が多い。とりわけ,将来国際保健活動に参加してみたいと夢を描いている学生には,それゆえ尻込みしている向きが多いようである。
 しかし僕は,行動を起こすことは日本人から国際人へと脱皮することが前提,とは思っていない。もちろん,そのような脱皮を経て国際社会の舞台で活躍している人もいる。そういう人をとても尊敬するのだが,ちょっと価値観が違いすぎるので友人になりたいとは思わない。幸いなことに,僕が各地で出会ったNGO,国際機関,また研究者の方々は,日本のことを当該国と同様とても深く考えておられた。彼らは,まごうことなき日本人であり,なおかつすばらしい仕事をされている人たちである。
 この連載は,次回をもって終了することになる。僕のつたないレポートを読み続けてくれた学生の中で,国際保健への旅路を歩み出してくれた人がいれば幸いである。難しく考えたり,気取る必要もない。気軽に旅に出てみればよいと思う。
 僕はカンボジアで知り合ったカナダ人のヨーサフ,トルコ人のハーカンとアンコール・ワットに登った日のことを忘れない。千年の時を刻むヒンズー寺院で,さわやかな森の風に吹かれながら,キリスト教徒とイスラム教徒と仏教徒は,新しい時代の可能性を確信した。1人ひとりが偏見に縛られたり,目をそらしたりすることなく,知らない世界について語り合うなら,世界に紛争や混乱が見当たらなくなっても,僕たちはあえて驚かないのではないだろうか。