第2358号 1999年10月11日


連載
アメリカ医療の光と影(13)

医療過誤防止事始め(7)

李 啓充 (マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学助教授)


 ハーバード大学公衆衛生学部のルシアン・リープ教授はもともと外科医であるが,80年代の半ばから一貫して薬剤副作用(adverse drug events,ADE)の防止法についての研究を続けている。前回・前々回とADE関連の論文を3篇紹介したが,いずれもリープ教授の研究グループが発表したものである。

全米に衝撃を与えた調査結果

 リープたちの研究が全米に知られるようになったのは,1991年にニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン誌(NEJM324巻370頁)に発表された論文からである。ニューヨーク州の51病院を対象として医療事故の発生頻度を調査した論文であるが,1984年度の入院患者のカルテをランダムに3万冊抜き取り,それぞれの症例で医療事故発生の有無を子細に検討したのである。
 その結果,医療事故の発生は1133件(3.7%),うち医療側の過誤による医療事故が280件(0.9%)に上ることが判明した(ちなみに,1977年にカリフォルニア医師会が行なった調査でも,医療事故の頻度4.6%,うち医療過誤の頻度は0.8%と類似の結果が出ている)。つまり,米国では,入院患者100人のうち4人が医療事故に遭い,事故に遭遇した4人のうち1人は医療側の過誤が原因とみられるのである。さらに,医療事故に遭遇した患者のうち13.6%が死亡し,死亡患者の2人に1人は医療側の過誤が原因となっている。
 リープらの,ニューヨーク州での調査結果を全米にあてはめると,毎年350万人の入院患者が医療過誤に遭遇し,このうち10万人が死亡していると推計されたのであった。医療過誤での年間死亡者数が交通事故死(4万5千人)の2倍以上にも達するという調査結果は,全米の医療界に大きな衝撃を与えたが,米国医師会(AMA)は「調査方法に問題があり,リープ等が示す数字は信頼できない」と反論した。

米国医師会の方針転換

 そもそもAMAは,「医療過誤は例外的な事象であり,ほとんどの医師にとっては無縁のもの」と,歴史的には医療過誤について「我関せず」という姿勢を貫いてきた。AMAがこの姿勢を180度変換し,「医療過誤を防止するためには組織的・体系的な取り組みが必要」とする積極的姿勢に変わったのは1995年のことである。
 この年は,ダナ・ファーバー癌研究所における抗癌剤過剰投与事件〔拙著『市場原理に揺れるアメリカの医療』(医学書院刊)参照〕,フロリダ州タンパ市での切断足取り違え事件など,医療過誤事件が次々とメディアに報道され,医療に対する米国民の不信が頂点に達した年であった。同年3月9日に,米議会下院で医療過誤慰謝料に上限を求める法案(AMAがスポンサーとなっていた)が審議されたのであるが,この時の議員たちのやりとりが,医療過誤に対するAMAの方針転換のきっかけとなったと言われている。
 医療過誤慰謝料に上限を求める法案に賛成の演説をしたのは,共和党下院議員のガンスケ(アイオワ州選出,医師)であった。ガンスケ議員に対し,同じ共和党下院議員のブライアント(テネシー州選出,弁護士)が次のように反論した。
 「先週,ガンスケ議員の同業者がフロリダ州である手術をしたそうであります。ラジオで聞いたところによりますと,ある患者の足を切断する手術であったそうです。手術後,患者が目を覚ますと,間違えた足が切断されていたというじゃありませんか。ガンスケ議員はこの患者が蒙った苦痛に対してどのような額の慰謝料が妥当だとお考えになられるのでありましょうか?麻酔から目が覚めたら間違った足が切断されていたということは,いずれ残っているほうの足も切らなければならないということです。患者は両足とも失うことになったのですが,それもこれもあなたの同業者が間違いを犯したからではありませんか」。
 ブライアント議員の辛辣な質問に対して,ガンスケ議員はしどろもどろに「医療に間違いが起こるのは仕方がない」と答えるのが精一杯であった。両議員のやりとりを傍聴していたAMAの関係者は,医師・医療に対する不信感の強さを痛切に思い知らされることとなったのである。

NPSF(全米患者安全基金)の設立

 「医療過誤防止に対し真剣に取り組まなければならない」というAMAの方針転換は,同年のうちに,NPSF(National Patient Safety Foundation;全米患者安全基金)の設立となって結実した。
 NPSFのモデルとなったのは米国麻酔学会が設立した「麻酔患者安全基金」である。麻酔に関連する事故は死亡や重篤な機能障害を生じることが多く,80年代の初めに麻酔科領域の医療事故の多さがメディアで大きく批判されたことで,「麻酔は危険」というイメージが米国民に定着することとなった。このような事態に対し,米国麻酔学会は学会を挙げて事故防止への取り組みを始めた。麻酔手技・患者モニターに関するガイドラインの設定,研修期間の延長など,麻酔医のトレーニングの強化,麻酔機器に対する安全装置の導入などの努力が実り,死亡事故の割合は1万人から2万人に1例だったものが,20万例で1例未満と劇的に減少したのだった。
 NPSFは医療事故の原因・防止に関する研究資金を提供するだけでなく,医療事故防止の情報を医療者に供給することも目的としている。AMAは,医療事故の頻度がいかに高いかという91年のNEJM誌の論文発表時には声高にリープ教授を非難したが,NPSFの設立に当たっては,リープ教授に基金の理事となることを懇請したのであった。