第2348号 1999年7月26日


<特別対談>

患者の権利と医療者の役割
患者アドボカシーをめぐって
(「看護管理」8月号より抜粋・再構成)

李 啓充氏
マサチューセッツ総合病院,
ハーバード大学医学部助教授
武井麻子氏
日本赤十字看護大学
精神保健看護学教授


 「看護管理」(医学書院刊)8月号は特別対談「患者の権利と医療者の役割-患者アドボカシーをめぐって」を掲載する。話題作『市場原理に揺れるアメリカの医療』(医学書院刊)の著者として知られる李啓充氏と,医療現場におけるアドボカシーの重要性について積極的に発言・著述をしてきた武井麻子氏による対談は,患者主体の医療を実現するための制度改革や医療者,特に看護職の役割,さらには今日,国民の大きな関心事となった医療事故防止のあり方にも話が及び,きわめて示唆に富んだものとなった。
 本紙ではその一部を紹介する。関心のある方は「看護管理8月号に掲載される対談全文をお読みいただきたい。


アドボカシーとは

武井 本日は,患者アドボカシー(advocacy),つまり患者の権利擁護というテーマを中心にお話をしていきたいと思います。
 アドボカシーという言葉は,辞書には「誰かの味方をする」「権利を擁護する」あるいは「ある主義主張を唱導する」などと書かれています。アドボケイト(advocate)はそれを実践する人のことで,「権利の擁護者」ですね。
 いま米国では,医療者は患者のアドボケイトでなければならないとよく言われます。これは,「患者を誰かから守る」という相対的な立場から言われている,つまり,患者の敵となる存在を想定して言われていると解釈してよいかと思います。実際には医療保険会社が「悪役」として想定されていて,コスト抑制を迫る保険会社の圧力に抗して,患者のために医療の質を守るのだという意味合いで使われるわけです。
 日米ともに,医療は大きな変革を迫られていますが,変革を迫る2つの圧力は共通だと思います。1つは「経済」。すなわち支払い側からの圧力で,これ以上の医療費の「無駄づかい」は容認できないと,医療者の裁量権がさまざまな形で制限を受ける方向に進んでいます。もう1つは「患者」。すなわちサービスの受け手からの圧力で,「劣悪な医療サービスは容認できない」というものです。この2つの圧力を受ける中で出てきた認識が,患者本位の医療,つまり患者のニーズに誠実に応える医療を展開しないと,医療者側は生き残れないというものです。

「患者アドボカシー室」の機能

武井 患者アドボケイトが機能するためのしくみの例として,マサチューセッツ総合病院には,患者の苦情を受けつけて調査を行なったり,医療者からの相談を受けたりする「患者アドボカシー室」という専門の部署があるそうですね。
 マサチューセッツ総合病院の場合は,看護婦であるサリー・ミラー室長のもとに3人の専従スタッフがいて,苦情に対する対応,医療サービスの質改善へのフィードバックなどを行なっています。しかし小さな病院では,1人の看護管理者がリスクマネジメントの役割など,何役も兼任しているそうです。通常は患者代理人(patient representative)と言います。
武井 患者にとっては,実際にサービスを提供してくれる看護婦や医師以外に,クレームを受けてくれる窓口があることは非常に重要ではないかと思います。そういう体制をつくらなければいけないという決まりがあるのですか。
 患者からの苦情処理は,米国の病院審査機関であるJCAHO(医療施設合同認定機構)の監査項目に入っています。病院がメディケアの適用を受けるためにはJCAHOの認定をもらう必要がありますが,認定条件の中に,患者アドボカシーあるいは患者代理人についてのいろいろな規定があり,それをクリアしなければいけません。
武井 英国の精神病院でも,患者アドボケイトの看護婦を置いて,患者が苦情を言えるようになっているところがあります。常設の窓口があることは,患者さんの権利意識の芽生えにもつながると思います。
 そのとおりですね。患者が医師や看護婦からアビューズ(心ない扱い)を受けた時に,その苦情をどこに訴え出たらよいかというと,日本の場合,本当に何もないんですね。「患者は人質」という医療がまかり通っている現状は絶対に許すことができません。

患者の権利を守るためのしくみ

 米国の社会は「check and balance」といって,権力による横暴が行なわれないように必ず誰かがチェックを入れて,権力の抑制と均衡を保とうとしています。医療者も例外ではなく,check and balanceの対象にならなければなりません。州の資格審査機関(ボード)での審査もありますし,行政の処分もあります。患者が文句を持っていくところがたくさんあります。
 ひるがえって私が思ったのは,日本ではどこが患者のアドボケイトになっているのだろう,という疑問でした。患者にとって最善の医療を提供するための改革を議論しないで,医療費抑制をいっても意味がありません。
武井 行政が市場原理や経済効率を声高に主張するのであれば,患者の権利も同じ比重で言わないと,おかしな社会になるということですね。日本で「患者の権利擁護」というと,個人の倫理観とか正義感といったもので捉えられてしまいがちですが,実際には法律やルールが判断基準になるのだと思います。ルールの策定が進まない点に,曖昧さを好む日本の社会の問題点があるのかなとも思います。やはり,患者の権利法のようなものは必要ですね。

医療事故への対応

武井 最近は医療事故の報道が相次ぎました。現場はものすごくピリピリしています。「2重のチェックを」などというお達しが来ても,なぜ事故が起きたかがわからないかぎり不安はなくなりません。例えば何かの見落としという現象だけを見てもだめだと思うのです。医療者の教育システムの問題や,病院管理の問題,心理的なプレッシャーの問題などを解明する必要があります。
 米国でも,数年前に医療事故がたて続けに報道されて,改善が進んだと聞きましたが。
 医療事故が相次いで報告された1995年以降,前述のJCAHOが,「警鐘的事例」(sentinel events)という表現で,医療事故の防止をめざす新しい制度を実施しています。1つは事故についての病院の自己申告の推奨,もう1つは,JCAHOが事故の存在を知った場合に,病院が原因の調査・分析を行なって改善策をとるように義務づけたことです。
 ここでJCAHOが推奨している事故の原因分析法は,「根本原因分析」(route cause analysis)というものです。例えば誰かがうっかりミスをした場合,「うっかりミスをした」ことを特殊要因として,「その原因は何だったのか」とステップを遡って考えるのです。その原因が「看護婦の勤務体制が非常に苛酷だった」となればこれを共通要因とし,「なぜ看護婦の勤務体制は苛酷だったのか」を考えて次の共通要因を見出し,どんどん遡って根本原因まで分析します。これをJCAHOは病院に義務として課しています。根本原因に到達しないと,JCAHOは「生ぬるい調査だ」として受けつけません。類似事故が2度と起きないように病院のシステムそのものを変えさせます。そして,blame free system,つまり誰も責めない,責めても意味がないということを強調しています。
 医療過誤を防ごうと思ったら,まずデータを集積しないといけませんからね。事故の存在を隠されてしまうと,それは教訓として生きません。
 JCAHOが「警鐘的事例」の制度を始めて3-4年ですが,すでに具体的な医療事故防止の勧告を4つ出しています。例えば,「塩化カリウムの静注事故」が後を絶たないことに対し,JCAHOが推奨した事故防止策は,「塩化カリウムは病棟に置かずに薬局まで取りにいけ」というものです。抑制中に患者が亡くなる事故についても,データの分析に基づいて,勧告を出しています。このように,1995年に細々と始められたものが,すでに成果を出しはじめています。

事故防止に不可欠なルール

武井 原因調査の時に,その原因を本当に明らかにできるかどうかという点が重要だと思います。証拠を隠すことは可能ですから。しかし米国では,同僚の医療者が不正やミスを行なったら黙っていてはいけない,などのルールがありますね。そういうルールがあって初めて,原因調査が徹底してできるのだろうと思います。
 そうですね。また,報告義務とは別に患者に対する義務もあって,例えば米国医師会の倫理規定には,「ミスを犯した場合には,患者に正直に告げなければならない」という一文があります。
 医師がミスをきちんと患者に打ち明けたかどうかを調査したところ,30-40%しか打ち明けていなかったという論文を読んだこともありますが,倫理規定にははっきりとその義務が書いてあります。現在,私の妻は米国で臨床研修をしていますが,米国の研修医はしょっちゅう間違えて,間違えると患者のところへ行って「We made a mistake」と言うそうです。もちろん軽微なミスだとは思いますが。
武井 看護職の服務規定も明確ですね。他の医療者によって不正が行なわれていたり,不適切な医療行為があった場合には,看護職はそれを指摘したり,実施を拒んだりしなければいけない。それが義務になっているという。
 看護職は,医師の言うことをきく存在ではない。チームの一員として対等です。医師はミスをするかもしれないわけで,それを誰かチームの一員が発見して未然に防げば,それは患者にとってものすごくよいことなのです。ですから,チーム医療によって,ミスが起きないように何段階もチェックが入るしくみになっています。看護職もその1人として重要な責任を担っています。
武井 当然のことながら,医療事故防止と患者アドボカシーとは,別ものではありませんね。
 そうです。患者の立場に立った患者参加型の医療をすれば,事故は減ると言われています。患者によるチェックが一段階増えるわけですから。

ドグマの呪縛

 医療のシステムを目にした人的要因学の研究者たちは,「本当に驚くのは『間違いは犯さない』という前提で医療のシステムが構築されていることだ」と言っています。間違いが起こることを前提に構築すれば,その防止策をシステムの中に組み入れることができます。けれども医療のシステムは,「間違いはあってはならない」という前提で作られてきたために,事故から学んでシステムそのものを見直すという作業を怠ってきました。事故が起きるたびに,ミスを犯した人の「不注意」を責め,「これからはもっと気をつけましょう」という対応ですませてきたのです。
 例えば,点滴と経管栄養のつなぎ間違いで患者が亡くなる事故が幾度となく繰り返されていることに対し,人的要因学の研究者は,なぜラインの仕様を変えて,つなぎ間違いが絶対に起こらないようにしようと考えないのかというわけです。
 医療者になぜそういう発想がなかったかというと,「医師は間違えてはいけない,看護職は間違えてはいけない」というドグマがあるからです。そのドグマにとらわれているので,「間違いを認めるのは恥だ」と思うようになり,さらには「他の人間が気づいていないのに,自分から事故を報告するなどとんでもない」という態度に結びついてしまいました。いま米国でblame freeが強調されているのも,このドグマの呪縛を解くことが目的となっています。
武井 私は看護職に対して,「自分は善意の生き物だ」という前提を捨てる必要があると言いたいですね。看護職になろうと思う人は,おそらく善意から出発しているはずですが,自分が善意だと思った行為が必ずしも善意になるとは限らないのです。おせっかいになったり,支配になったり,傷つけたりすることが多々あります。
 この前提を捨てて,自分は間違いもするし,患者に押しつけるし,傷つける可能性を持った存在なのだというところから出発しないといけないと思います。その上で,どう間違いを正していくかという発想にもっていくことが必要です。
 本日はどうもありがとうございました。

●李啓充氏プロフィル
1980年京都大学医学部卒業。天理よろづ相談所病院で臨床研修を終えたのち,1987年京都大学大学院医学研究科修了。1990年よりマサチューセッツ総合病院(ハーバード大学医学部)で骨代謝研究に従事。著書に『市場原理に揺れるアメリカの医療』(医学書院),訳書に『インフォームド・コンセント』(学会出版センター)。現在,本紙医学版に「アメリカ医療の光と影」を連載中。

●武井麻子氏プロフィル
東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。保健学博士。修士課程在学中から民間の精神病院である海上寮療養所に看護婦・ソーシャルワーカーとして12年間勤務。88年より90年まで千葉県立衛生短期大学助教授。著書に『ケースワーク,グループワーク』(共著,光生館),『レトリートとしての精神病院』(共編,ゆみる出版),『精神看護学ノート』(医学書院)。