医学界新聞

 

《看護版特別編集》
【鼎談】

アディクションアプローチ
家族援助と看護婦の役割

山崎摩耶
(日本看護協会・常任理事)
上野千鶴子
(東京大学・教授)
信田さよ子
(原宿カウンセリング
センター・所長)


 「アディクション」は嗜癖と訳されるが,生活習慣への執着,悪習慣の意味合いを持つ。また,アルコールや薬物依存症などの分野で用いられることが多く,反復する強迫行動とみることができる。これらに対する実際の援助は,さまざまな方法を組み合わせて行なわれるが,信田氏はそれを「アディクションアプローチ」と総称した。


―― このたび医学書院から,アルコール依存症などの臨床経験をもとに,従来の「家族」や「援助」の常識をことごとく反転させるようなショッキングな本といえる,『アディクションアプローチ―もうひとつの家族援助論』という本が出版されます。一方で,「訪問看護」が始まり20数年たつわけですが,現場では訪問看護婦が家族に巻き込まれたりすることもあり,「家族は怖い」との言葉も聞こえてきます。そこで今回は,著者の信田さよ子さんを交えながら,「家族」というものを改めて考えてみたいと思い,お集まりいただきました。
 すでに山崎さん,上野さんにはこの書籍をご覧いただいていますので,それを素材に話し合っていただければ幸いです。まず最初に,この本をお読みになっての感想からお聞かせください。

家族の中の権力構造

家族の自己回復力

山崎 私たちは1970年頃から訪問看護を始めたのですが,一番最初に勉強したのは家族援助でした。訪問看護に最も必要で最も従事者が欠けているところは,家族援助でもあったわけですね。そのことを思い出しながら拝読いたしました。
 訪問看護だけでなく,看護というのは,私は基本的には「その人たちの持っているエネルギーを引き出すもの」だと思っています。家族の問題も,その家族が本来持っている力を引き出すというのが家族への支援ではないかと考えます。かつては家族が崩壊しても,おそらくまた再生をしていたんだろうと思うのですが,特にこの20年,30年というものはそういうことが非常に難しくなってきているいうことが,この中から読み取れました。
 私は教育現場にいる時に,看護職になろうとする学生に,「あなたたちの常識は世間の非常識よ」という教育をしてきました。専門職だからという使命感みたいなものでがんじがらめになっている看護婦を見かけます。そうしますと,地域へ出て家族のどろどろしたダイナミックの中に投げ込まれた時には右往左往してしまいます。信田さんはその現実を大変よくおわかりになって,お書きくださったという点でうれしくもありました。
上野 非常におもしろく拝読しました。ケアされる側ではなく,ケアする側の立場から書かれた本はそれほど多くないと思いますが,看護婦などケアする側の人々は善意だけでは家族に取り組むわけにいかないということがはっきり表れています。それに,ケアの中にある権力関係,他者から必要とされる快感,そういうものが歯に衣着せず書いてあるという点,これは信田さんならではの,読ませるポイントだと思いました。
 山崎さんは「家族はかつては自己回復力を持っていたが,今はなくなった」という主旨をおっしゃいましたが,私には「家族の自己回復力など,かつてもなかったのではないか」という思いがあります。本当のところは何が変わったかというと,私たち家族社会学をやっている人間から見れば,家族ではなく家族のとらえ方のほうがはるかにドラスチックに変わったと思います。
 例えば,家族が育児能力を持てずに虐待を引き起こすという現実ですが,これに関して私が思い出しますのは,1970年にすでに「コインロッカーベービーズ」がいたということ。この年は同時に,ウーマンリブ誕生の年でした。コインロッカーに子どもを捨てるというのは虐待の最たるものです。今からもう30年近く前になりますが,その頃すでに家族は育児力を失っていました。それ以前にも家族の自己回復力があったかどうかは実はかなり怪しいもので,子どもを奉公に出したり,娘を身売りさせたりはザラだったのですから。昔は,子どもを虐待しなかったのではなく,子どもの虐待を問題にしなかったのだと思います。
 信田さんがずっと主張していらっしゃることは,第1に家族をよきものだと前提しないということ,2つ目は家族の中にははっきりと権力関係がある,つまり支配と抑圧の関係があるということですね。そして3つ目が,強いて言うならば,家族に自己保存力と言いますか,それ自体を維持していく力があることを前提にしないということだと思います。

援助者と被援助者の権力関係

信田 おっしゃる通りです。このような主張は,ストレートに述べると結構反発されることが多いんですよ。私が臨床経験を通してそのような家族へのとらえかたをするようになったのは,アディクションの分野にずっとかかわってきたからだと思います。この本の中でも書きましたが,アディクションはそもそも精神医療の中に収まりきらないものでしたから,絶えず既成の権威を揺るがす発想や新しい言葉を生み出してきました。その多くが家族にかかわる言葉だったのは,アディクションは家族の問題そのものだからです。
 訪問看護という分野には,私はまったく素人ですが,ただフィールドである「家族」は共通すると思います。医療においても慢性疾患,生活習慣病,老人痴呆など,本人ばかりではなく周囲の家族をターゲットにしないと効果的な援助ができない病気が増えてきたのではないでしょうか。私は,家族をフィールドとするさまざまな職種に役に立つものがあるのではないかという思いがあって,この本を書いたのです。
 家族が権力構造そのものであるという点については,一般の人々にも少しずつ実感を持ってとらえられるようになったと思います。例えば,本書にも書きました「アダルトチルドレン」という言葉の広がりや,児童虐待の親などはそのことを表していると思います。家族は美しくて温かい,愛情に包まれた場ではなく,支配する人とされる人のいる場なのです。
 ですから,その家族をフィールドとした援助も当然変わらざるを得ないでしょう。もう1つ強調したかったのは,援助する側とされる側にも権力関係は発生するということです。このことを,援助者側はなかなか気づかないものです。この援助者と被援助者の権力関係,これをどこまで必要悪として認めるかという問題も生じますが,どのようにそれを私たちが意図的に防いでいくかという,非常に厳しい自己限定が今後必要とされるだろうと思っています。

援助の対象者は誰?

家族の神話

山崎 先ほど上野さんがおっしゃったように,「家族の神話」というものがあります。従来の「家族の神話」を打ち破って,新しい構築をしていかないと日本の社会はこれから立ち行かない,ということを私は自分の本で15年前に書いています。家族の中に起きた問題を外に助力を求めるのではなく,何だかんだ言いながら,世間体もあるから内々で解決をしなければいけなかった。その意味で,自分たちの中で解決する力はあったと思っていたんです。それは極端に言えば子殺しも,親を姥捨てしようとも,それも解決方法の1つだったかもしれない。姥捨てした自分もその次の世代に姥捨てされるというように,ある種の価値観の中で,連綿と家族内の出来事が,家族の中で一見解決できたかのように見せかけてきたという歴史があったわけです。
上野 家族で解決してきたというのは,その家族の範囲をどこまでとるかにもよります。家族社会学の立場から言いますと,家族の単位にプラスアルファした要素が必ずそこに働いているはずです。
 第1は,単独の家族を超えた親族ネットワークです。老人扶養や,障害者の扶養は,実は単独の家族ではなくて,親族ネットワークの中で解決されています。第2は,家族が相当程度地域共同体に対して開かれていて,かつその介入を受けていることです。決して家族という単位の中だけで問題が解決されているわけではありません。したがって,家族が問題解決力を持っていたかというと,昔からなかったんじゃないかということになります。
山崎 今まで家族の中で問題解決ができてきたという幻想を,ここで私たちが「そうじゃないよ」という視点でのスタンスに立たないと,それこそこれから先のシステムも構築できないかもしれません。
上野 だめ押しをしますと,これまでも家族が家族だけで問題解決をしてきた歴史はなかったのではないかと言ったほうが,より史実に即している感じがします。
信田 それは,そのような神話はなかったという意味ですか。
上野 神話は神話です。神話が事実を隠蔽してきたことになります。家族が単独で,孤立した状態で存在する傾向が強まったのが戦後といえます。
信田 家族の神話ということを言えば,世間とか,そういう全体を統括するようなものが弱まったということは言えます。
 例えばアディクションの原点ともいえるアルコール依存症者と家族といった場合,私たちの直接の援助対象は家族になります。当事者は「酒を飲んで何が悪い」と言っているわけですから,対象になりえない。しかし医療という枠で考えますと,当事者はあくまでも本人です。ですから問題を家族にシフトしていく対応が今後は必要になってくるでしょうね。
上野 援助する時の援助対象は誰なのでしょうか。援助は患者当人だけを対象にするのではなく,家族にも行なうとして,その際に家族は自分たちを当事者だと認識できるのでしょうか。
信田 私たちの援助は,困っているかどうかということが1つの大きな契機です。医師が「依存症」と診断する。「僕は違うよ」と言っても医療では診断をされた本人が当事者ですよね。そこでは診断の客観性が当事者を決めるのです。しかし,私たちはその人が「僕は違う」と言った時には,彼を当事者とせずに,その周りで困っている人が援助の対象に,つまり当事者になると考えます。困るという主観性が当事者を決めるわけですね。これは虐待の場合はっきりしていて,虐待される子どもがいて,そばに住んでいるおばさんが「あの子はかわいそう」と言ったら,そのおばさんが当事者になるのです。このように客観性を問われないことで,家族という閉ざされたシステムを超えていくだろうと思っています。

どう援助をするのか

山崎 援助を求めてくる人はいいんですよね。援助を求めてこない人をどう支援するかというのは一番大変な問題です。
上野 助けを求めるということは,問題をすでに自己定義していることですよね。カウンセリングの場合には,目の前に来ない限り当事者とはなりませんが,訪問看護の場合も基本的には,向こうが援助を要請しない限りは他人の家ですから,勝手に行ったりできませんね。援助が必要かどうかは,誰がどのように判定するのですか。
山崎 ある1人暮らしのおばあちゃまの例がよい見本になると思います。
 「1週間ぐらい買い物に出てこない」と民生委員から訪問看護婦の私に話があって,その民生委員と一緒に訪問したのですが,中からは「私は元気にしております」と言って,雨戸も開けません。「食事はどうしていますか」と聞いても,「ちゃんと食べています」と言って開けない。でも,民生委員は「1週間も外に出ていないから,冷蔵庫もカラのはず」と言うんですね。しかし,そこで踏み込まずに,「そうですか,じゃまた明日寄ってみますね」と言って翌日に行く。でも「あ,昨日の方ですか。私は元気にしておりますから」と,また雨戸を開けません。それを1週間くらいやっていると,20cmぐらい雨戸が開きます。でも,私の体が入るだけの隙間は開けません。私を認識してくれるまでにはやはり時間がかかります。本人が援助を求めてないけれども,きっと何か必要なんだろうと時間をかけてやりとりをした結果,中に入ると骸骨が浴衣を着ているような状態のおばあちゃまがいて,頬が真っ赤っかだったんです。まるで蝶形紅斑みたいだったのですが,よく見たら,何日も顔も洗ってないために垢がこびりついてそうなっていたんですね。
 そんな状態でも本人が支援を拒否したり,自分に苦痛がなかったのか,助けを求めないという状況でケアをすることあります。援助を求めないために,押しかけることはできないけれど,やはりかかわりあうことは必要で,「この人は私の役に立つ」と思ってくださった時に,初めて援助関係が出てくるわけですね。
信田 山崎さんのお話をうかがっていると,家族に入っていく権限を持っているって本当にすごいと思いますね。私たちのような心理職では考えられないことですよ。
 援助を求めない人を求めるようにするための悪戦苦闘が,アディクションにかかわる場合には一番精力を使う部分です。それが家族を訪問することできわめて短期に効果的に介入できるわけですから。でも,そういう特権を持っていることが,逆に言えば周囲の家族を当事者とみて,そこから変化を起こしていくという発想を生み出しにくくしていたのではないかと思いますね。
上野 今の話を聞いて,そこまで援助を拒否する心理がいかにして形成されたのだろうかと思います。援助する側の作法というものもあるでしょうが,援助される側の作法とか,受け入れの態度というものもあって,それは学習したり,社会的に作り出されたりするものだと思います。家族が閉じたシステムとして外からの援助を頑として拒む,他者の介入を拒むという態度が,ヘルパー派遣の障害になっています。それはどうして生まれたとお考えでしょうか。
山崎 いろいろな要因はあるでしょうが,一般的に言われるのはやはり世間体?
信田 公的援助を受けることは恥ずかしいことだというのがあるんですかね。もしくはプライドであり,援助を受けないのが自立なんだと思っているのかもしれません。アルコール依存症の方たちがその例と言えますね。今,自分が生きていることを支えるシステムが,外部から援助を受け入れることで崩れてしまうのではないかという恐怖だろうと思うのですけれど。

医療とは違う視点からの援助が必要に

楢山節考とポストモダン

上野 先ほどのおばあちゃまの話から『楢山節考』を連想しました。あのおりんばあさんは「近代人」だと思います。『楢山節考』は前近代劇ではなく,実は前近代劇の顔をした近代劇です。自分の身の始末を自分でつけようというのは近代的なメンタリティですよ。今のおばあちゃまのような拒絶感だって,せいぜい半世紀ぐらいの歴史しかありません。それ以前は,庶民にとっては長い間他人が家の中に入り込んでくるのは当たり前,という状況がありました。
信田 おりんばあさんが近代であるとするならば,援助職というのが日本でもプロフェッショナルとして成り立つとしたら,そういう人たちが大量に出てくるということは,ポストモダンですよ。
上野 そうなんですよ。援助職というのはポストモダンの職業なんです。
信田 私たち団塊の世代が,現在親になっていますよね。そこで20歳ぐらいの子どもがいるという時に,やはり私たちの子育ての根幹は「自分のことは自分でしなさい,自分のご飯ぐらい自分でかせぎなさい」と言われてきて,今それを繰り返している。そういう家族が破綻したというのもまた1つですよね。
山崎 それを破綻と見るか,新しい形と見るかということなんでしょうね。
信田 私は破綻だと思いますね。
山崎 人間は,おむつをして,本当に寝たきりで全面的に介護を受けていても,やはり自分のことは自分で決めたいという思いは残りますよ。身動きはできないから,手伝ってもらうということはあっても,すべてを失うわけではないのですが,今までのケアワーカー,援助者は,「もうこの人はすべてを失っちゃっているから私が全部やってあげるのよ」というケアでした。
上野 おっしゃるとおりですね。山崎さんの今の話を聞いてよくわかったのだけど,家族を超えてケアをするとか,ケアをされるというのは,歴史的に新しい経験なんですね。
山崎 語弊があるかもしれないけれど,ケアの受け手になった方には,「あなたはこうしていいんですよ。拒否も結構,嫌なことはしません」とか,「ここまで私たちがやりますが,ここからはあなたががんばらなければいけません」と言えるようにと,最初に教育をさせていただいています。冷たいと思われるかもしれませんが,このことは援助者・被援助者間だけでなく,家族成員間でも必要なのではないでしょうか。
上野 私は山崎さんと同じことを逆のサイドから,ユーザー教育と言っています。私は援助者の側に回ることはないでしょうが,ユーザーサイドから発言しようと思っています。援助のユーザーになることも歴史的にな新しい経験なので,ユーザーもまた教育し,学習をすることが絶対必要になると思っています。
山崎 私は最近,介護保険に関する講演などで,市民の方には「目利きのユーザー」になってくださいと言っています。
信田 私たちのところにカウンセリングに来る方も,入院経験のある人とない人では全然違うんですね。入院経験のある人はみんなお任せになっているんです。ところが,入院経験のない人は「嫌なものは嫌,このカウンセラーは合わないから代えてくれ」とちゃんと言いますよ。
山崎 少し期待を持てるのは,ご家族が変わってきたこと。訪問看護婦を交代してくれと言い出している現実があります。
信田 あ,いいなあ。
上野 そういう権利意識は急速に身につくでしょうね。時間の問題でしょう。

身体に触れることの有効性

上野 介護保険が施行されれば,ますます介護者間の分業が強化されると思います。看護婦の地位の向上と絡んで,看護職の高学歴化と専門化がどんどん進み,かつ介護保険が導入されて,ヘルパーやいろいろな職種の方たちが出てくると,看護の専門性の名のもとに,看護以外の援助をしなくなる可能性が強くなるのではないかという危惧を私は持っています。山崎さんはどうお考えですか。
山崎 そうは思いませんが,上野さんは,看護にどのようなイメージをお持ちでしょうか。
上野 医療者としての行為ですね。
山崎 私は,医療的行為だけをやるのが看護の専門性だとは思っていません。
上野 山崎さんはそうお考えかもしれませんが,それはどのぐらい合意を獲得しているのでしょうか。
山崎 もしそのように認識されているとしたら,それは看護職がそうだというよりは,制度がそういう要求をしていると言ったほうがよいかもしれません。そうしませんと,収入にならないという仕組みが医療の世界にはありますから。一方では,点滴や鼻のチューブの管理というような医療的な処置,診療の補助的なことは今後ますます看護職にと期待されてきます。それはある種専門的な技術ですからもちろんします。でも,「看護職はそれだけではありません。それだけでしたら医師の代行です」と言っているわけです。そして,医師の代わりに看護職が薬を届けたとしても,ただ置いてくるのでは看護ではない。その時に介護者の顔をみて「何かある」と感じたら話を聞くとか,利用者のベッドサイドに行って褥瘡ができていないかなどを観察するのが看護だと指導しています。これは非常に大事なことで,訪問看護婦がどういう役割を担っているのかを,社会に明確に示していかなければいけないと考えています。
上野 九州で「グリーンコープ」という生活クラブ系の福祉ワーカーズコレクティブの活動をしている人たちがいます。彼女たちは,自分たちを介護ヘルパーと呼びません。介護福祉士の資格を持っている人もいますけれど,「家事支援ワーカーズ」という言い方を積極的にしています。なぜかと言うと,「私どもは介護だけをするのではありません,ご家族も支援します」とはっきり打ち出しているからなんですね。現場に行けばごみを始末しなきゃいけない,トイレの掃除もしなければいけないというように,臨機応変な対応を必要とされる場面がごまんと出てくるわけです。家事支援ワーカーズは,ライセンスがないということを逆手にとって,むしろ何にでも対応します。その点では逆に誇りを持ってそういう立場を選んでいる人たちです。
山崎 限りある資源をいかに有効に使うかも大事です。看護婦に家事援助やトイレの掃除までさせるのが果たして社会的資源の有効な使い方といえるのか,そのアセスメントもきっちりしなければいけませんね。
上野 看護職の人たちが「私たちは身体はみますが心のケアはしません」という分業ですとちょっとまた困りますよね。信田さんの本でおもしろいなあと感じたのは,「看護婦にできて心理カウンセラーにどうしてもできないことがある。それは身体の領域に立ち入ることである」という指摘ですが,この違いは決定的ですね。
信田 それは決定的ですよ。むしろ看護者が,その強大な権力に気づいていないのではないかと思います。それはいい意味の権力ですが,本当に使いようですね。
山崎 権力というか,有効な手段ね。
信田 そうです,そうです。切り込んで介入できるというか。それはとってもうらやましい。私,クライアントに触ることができたらどんなにいいだろうと思う時がある。だっこできるとかね。
上野 なるほどそうかもしれませんね。身体性に介入することで,相手を無力にするというか,すごいことですよね。
信田 だからそこでやはり看護というのは医療と一線を画しながらも,私たちからみると,医療とセットになって見えてしまうのですね。
 でも,それは多くの看護者の望むことではないと思います。だから,看護者自身が「脱医療」という立場を意識的に作りあげていく必要があるのではないでしょうか。それは,私のやってきた臨床活動をまったく同じことなんですね。本書では,看護が狭い意味での医療の場を離れた時に,医療の世界に流れていたものとまったく違うスタンスというか,視点で援助する必要がでてくるということを訴えたかったんです。

援助者が支配者にならないために

機能不全家族

信田 例えば,父,母,子2人という家族がいて,父が話す,母が話す,それから子が話す家族というものがそれぞれ違う時に,訪問看護婦はどこの立場に立つかという選択を迫られると思うのですが。
山崎 どの立場にも立たないでしょうね。ジャッジをしちゃいけないでしょう。
信田 ジャッジ? それはどうなんですかね。私たちはジャッジをしない,中立であるということはできないと思いますが。
山崎 その家族関係を治療的にかかわっていかなければいけない時,それぞれが自分の家族をそれぞれに語っている時には,誰の言うことが正しいのかとか,そういうジャッジはしませんでしょう。
信田 しかし,その時にどこに立つかということも私たちは迫られますよね。そういうことは,医療という立場で働いている人にとってまったく未経験なことではないでしょうか。どこに自分が身を置くかという選択を迫られることは,これは私たちでもそうですけど,すごく難しいことです。
山崎 三人三様に自分の家族を表現しているとすると,まずはもうびっくりしちゃうでしょうね。「この家族は一体何?」と右往左往します。そうすると,こちらがスタンスをとりきれずに家族に取り込まれてしまい,治療的,支援的,援助的な介入が何もできないままに一緒にパニックになってしまうということもよくあります。だからスタンスをおくことがまず必要になる。
上野 私は信じられない。自分自身の家族を反省的に振り返ってみれば,立場によってリアリティが違うことは自明のことです。そんな驚くようなことでしょうか。家族の神話の強さからくるのでしょうが。
 冒頭の話に関係してくるのですが,家族に介入して援助するという時,ゴールは一体何でしょう。信田さんは「機能不全家族」とおっしゃいますが,家族に自己回復力が本来備わっているとか,機能を完全に達成できるような家族が本当にあるのか。と考えてしまうのが,社会学者なんですね。
 家族を維持するほうが抑圧が強く,家族を解散するほうが治療的な効果が高いことだってあります。家族というのは絶対的で,完結的なシステムではなく,いつでも離合集散が可能なシステムです。そんなシステムに自己回復力を前提とする必要があるのでしょうか。別に家族に戻ることばっかりが解決ではないと思うんです。
信田 父は父の機能を最大限高めていく,母は母の機能を最大限高めて,子どもも子どもとして優秀な機能を高めていくと,機能不全が起こる,パラドックスが起こるんですね。これを「機能不全家族」と呼んでいますが,上野さんはある時に,あらゆる家族は機能不全家族だとおっしゃった。
上野 「家族に幻想を持つな」,ということです。
信田 先に何か餌をぶら下げて「これあるよ」っていうのはよくないかもしれないけど,最後に帰るところは家族というか,この世のどこかに青い鳥がいるかもしれないというのが,やさしい希望かな。
山崎 だけど,いろいろな家族に「もう頑張らなくていいわよ」って言ってあげることは大事ですよ。
信田 もちろんそうですよね。私たちはそれでお金をもらっているようなものなんで(笑)。本当に発展的解消というか5人いたら5つの単位に分かれていく家族がすごく多い。ある意味ではおつき合いできるかどうかだと思うんですよね。夫婦だって親子だって,つき合いできない関係もあるわけでしょう。つき合いできる限りはつき合うのもいいかもしれないけど,友だちと同じという感じかな。
上野 私も自分の親に関しては,親じゃなかったらこの人とは友だちにもならなかっただろうなという気がした(笑)。
信田 悲劇的な,もともと相性の悪い母と子どもがいるというから,血縁なんて何ほどのものだという感じもありかな。
山崎 それを言っちゃおしまいよ(笑)。
上野 言っていいんです。言っていいんだけど,その時には,家族がなくても生きていけるよというオルタナティブを,受け皿として用意しなきゃいけないんですよね。

専門性と資格と

信田 援助するということは,対象である相手と同等に自分をみつめることだと思うんです。自分をみつめる援助って怖いと思いますね。なぜ援助したいか,しているかを絶えず問いかけていないと知らず知らずのうちに私たちは「援助する」と言いながら支配してしまうのではないでしょうか。
 本書で「援助の等価性」という言葉を使っていますが,これは私たち援助する側が,権力者,支配者にならないために,私が作った言葉です。
上野 専門性って,制度と資格が守っている。介護福祉士のような国家資格を考えると,制度化,資格化,ライセンス化の動きはとどめがたいですね。
山崎 専門職とか専門性といった時に,クォリティをはかる物差しも必要かもしれませんね。それに対コストベネフィットが見合った時にお金をちょうだいする。そういう動きが本来あってしかるべきですね。
信田 そうすると,ポストモダンというよりも,モダンの極致という感じもしなくもないというか……。
上野 そのとおりですね。この資格化,制度化の波には抗しきれませんか。
信田 抗しきれないですね。ただ,私は臨床心理士は国家試験には当分ならないと思っています。だから,使いようではあると言えます。
 できるならば,今後の将来像としましては,私どもの仕事と訪問看護と連携をして,時には上野さんにも講演をしていただいて……。
上野 社会学者は現場では役に立たないということでしょうか(笑)。わかりました。
信田 そんなことないですよ。
山崎 明晰な分析力をお持ちですし……。
上野 せいぜいわさびとか刺し身のツマみたいなもので……。
―― それではこのあたりで,三者三様の発展をめざしながらということで,今日の鼎談を終わりたいと思います。本日はどうもありがとうございました。