医学界新聞

新連載
アメリカ医療の光と影(1)

患者アドボケイト(1)

李 啓充 (マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学助教授)


 マサチューセッツ総合病院(MGH)「患者アドボカシー室」室長,サリー・ミラー女史のオフィス入り口の横の壁に,茶色に変色した文書が額に入れられて飾られている。1811年にマサチューセッツ州議会がMGHの設立を決めた際の手書きの法文である。この法律によってMGHが産声を上げたのであるが,実際に病院として開院したのは1820年のことである。

忘れられなかったもの

 伝統と歴史を誇るMGHであるが,アメリカ医療をめぐる厳しい経済情勢の中で生き残るために,コスト削減・他病院との合併・提携開業医の系列化など必死の努力を続けていることは,拙著『市場原理に揺れるアメリカの医療』(医学書院刊)で紹介した。しかし,ここで強調されなければならないのは,厳しい経営努力を強いられてはいるものの,MGHではよりよい医療を患者に提供するための不断の努力が忘れられてはいないということであり,患者アドボカシー室の存在もその不断の努力の一例である。
 日本の読者には「アドボカシー(advocacy)」という言葉は聞き慣れない言葉だろうが,「ある人の味方となってその権利や利益を守るために闘うこと」という意味である。一方,「アドボケイト(advocate)」という言葉は,味方となって闘う「人」を指す。用法例をあげるならば,「医師・看護婦は患者のアドボケイトたる責務を一時たりと忘れてはならない」などと使われるわけである。
 医療は人間の成す営みであるから,医療者と患者・家族との間に誤解が生じることは避け得ない。たとえ医療者が患者の最善の利益のために全力を尽くしたとしても,患者・家族が医療者に対して不満や不信を抱くことはごくありふれたことである。しかし,患者・家族が医療者に直接不満を表明することはまれである。患者が不満を表明しないでいると,医療側は,自分たちのやっていることは患者側に受け入れられたものと了解してしまう。初めは小さかった誤解が少しずつ増幅され,こじれにこじれ訴訟へと発展するということにもなりかねない。病を得たということでただでさえ心理的に弱い立場にある患者に,「不満があったらどうぞお知らせ下さい,私たちが医師・看護婦にその不満をお伝えして,問題解決のお役に立ちましょう」というのが,患者アドボカシー室の仕事である。

月200件の苦情に対応

 MGHの患者アドボカシー室では室長サリー・ミラー女史の下で3人の専従スタッフが患者の苦情処理に当たっている。MGHでは正式の部署として病院の管理機構に組み込まれているが,他の病院では「患者代理人(Patient representative)」という役名で,看護部のスタッフが本来の業務の傍らに兼務することが多いという。
 各病棟に,患者の人権を説明する文書とともに,「苦情がありましたらご連絡下さい」と患者アドボカシー室長,サリー・ミラーの名刺が掲示されている。また,患者アドボカシー室は外来棟ロビーの一番目立つ場所に設置されている。設立後2年,月平均200件の苦情が寄せられているという。
 どのような苦情にも迅速に対応することが基本であり,回診中の医師チームに入院中の患者からの不満を伝えたりする。関係者の事情聴取など調査が必要になる場合,調査結果は病院長,臨床部長,総婦長など病院最上層部に直接報告されるなど,患者アドボカシー室は病院管理の序列上高い地位を与えられている。また,患者からの不平・不満を伝えられた医師たちも「自分たちのどこに落ち度があったか」と真摯に受け止めるという。逆に「難しい」患者を抱えて困っているスタッフからの相談も多く,患者とのトラブル解決のために助言を行なう。一方,精神科の特定の患者からの苦情処理に多大の時間と労力がかかり,アドボカシー室のスタッフのストレスとなっているという。患者からの苦情に一定のパターンがある場合は当該部署の管理体制の見直しが行なわれるが,そのための体系的な苦情データベースの作成もミラー室長の仕事である。
 ミラー室長は看護婦として30年間MGHに勤めてきた女性であるが,「忙しいし,難しいけれども,やりがいのある仕事」と胸を張る。そして何よりも,患者は「聞いてもらえた」ことで気が晴れ,医療側も患者からのフィードバックで医療サービスの質を改善することが可能となるのである。筆者がミラー女史のオフィス入り口横に飾られているMGH設立州法の法文について「これはオリジナルかコピーか」と尋ねたところ,「えっ,これは何?こんな歴史的なものが自分のオフィスの前にあったなんてちっとも気が付かなかった」というのが彼女の反応であった。患者アドボカシー室長としてのミラー女史の多忙ぶりを伺い知ることができよう。

この項つづく