医学界新聞

新連載
経済学で医療を診る

-医療従事者のための経済学

中田善規 (帝京大学医学部附属市原病院麻酔科講師)


 これまでは経済的な影響からは聖域とされてきた医療の分野にも,最近は経済性のことが問題とされることが多くなってきました。医療が日本経済の中で巨大かつ急成長している産業の1つとなる一方で,日本の医療費は高齢社会の進展につれて爆発的に増加するという新たな問題に直面しています。そして,日々の臨床業務においては,病床・手術室といった有限な医療資源を最も効率的に活用することが求められています。こうした時代の変化に対応していくために,医療資源分配の決定者である臨床医にも経済学的な思考方法が必要となってきました。
 この連載の目的は,基本的な経済学的思考法を紹介することです。世の中に,経済学の入門書は数多くありますが,とかく話題が経済に限定されていて,医療従事者には興味が持てないのではないでしょうか。そこで基本的なミクロ経済学を臨床医の視点から整理して,われわれが日常接している医療の世界を経済学的な視点から見るとどうなるかを示します。同じ医療の世界のできごとも,経済学的に“診る"と,いかに違って見えるか驚かれることでしょう。個々のトピックについてさらに詳しく知りたい方は,ミクロ経済学の成書を参照していただければ理解が深まります。
 さあ,今まで見慣れた医療がこれからは新しく違って見えてきます。


第1章 経済学の理論と方法
 -なぜ医療従事者にも経済学が必要なのか?

ミクロ経済学の位置づけ

 ひと口に「経済学」といってもいろいろな分野があります。医療費問題も経済学の問題ですが,他方,金融ビッグバンも経済学の問題です。また政府の財政赤字・減税もそうです。さらに一病院の経営問題も経済学の問題に含まれると考えられます。こうした多くの分野にわたる問題を考える最も基礎になる考え方が,ミクロ経済学です。
 「ミクロ経済学」をもっと正式に定義すると次のようになります。
1.「ミクロ経済学」では「稀少性」の問題を取り扱います。「稀少」なものとはその量が制限されているもの(経済学では「財・サービス」という)のことです。ダイヤモンドが「稀少」だということは誰でも納得するでしょうが,経済学でいう「稀少」とはその他の身の周りの多くのものを含みます。例えば,1本300円の注射針も「稀少」なのです。この注射針を製造するには,「稀少」な労働・資本が使われています(労働・資本はこの世に無限にあるわけではありません)。その労働・資本を他に振り向ければ他の製品ができたでしょう。こうして考えると,「稀少性」のために,すべての社会は「なにを作るか」,「どうやって作るか」,「誰のために作るか」という問題に直面します。これを解く鍵になるのが「価格」です。すなわち単純にいうと自由市場では1本300円の注射針は300円以下の費用で生産者によって作られ,300円払ってもよいと考える消費者に売られるのです。この「価格」の理論を詳しく見るのが「ミクロ経済学」なのです。
2.「ミクロ経済学」では,自由市場での消費者(患者)・生産者(医療従事者)といった個々の意思決定者の経済学的行動を分析します。逆にいえば国民経済全体といったことはここでは議論しません。しかしながら国民経済も国民医療費問題も個々の意思決定者の下した意思決定の集合であり,「ミクロ経済学」はその基礎になるのです。
3.「ミクロ経済学」では「市場(しじょう)」を考えます。市場とは売り手と買い手が財・サービスを売買するコンテクストを指します。医療サービスを売買するための魚市場みたいな市場(いちば)は実際には存在しませんが,あたかもそれがあるかのように仮定します。また市場には「均衡」があると仮定します。「均衡」とは一旦達成されると永続する傾向を持つ状態,つまり市場の力がバランスした状態のことです。
4.「ミクロ経済学」では倫理的価値判断を考えませんが,医療の世界では重要な問題です。例えば限られた予算の中で老人医療を優遇すれば,その分新生児・乳児医療にまわる予算は減少します。老人医療と新生児・乳児医療のどちらを優遇すべきかというのは倫理的価値判断の問題で,ここでは扱いません。しかし老人医療を優遇すれば,どういう変化が新生児・乳児医療に起こるかを正確に分析するといったことは「ミクロ経済学」で扱う問題です。倫理的価値判断をするには正確に分析することが必要です。すなわち価値判断は正確な分析の基礎の上に立つものなのです。ここでは正確な分析の方法を紹介して,その上に立つ倫理的価値判断は個々の読者に委ねます。

経済学的手法

 厚生省の官僚や政治家は,時としてわれわれの生活を大きく変えるような決定を下します。そうした決定をそのまま鵜呑みにするよりも,その決定の根拠となる経済学的分析の方法について知っておくことは臨床医にとっても有用だと思います。そうすることでその決定の長所短所を把握し,また建設的な意見を述べることもできます。
 一般的にいって,医療経済学者に限らず,経済学者は現実世界を分析するのに特殊なアプローチを用います。それには多くの特徴があげられますが,ここでは私が最も重要と考える4つの特徴(合理性,抽象化,限界分析,モデル化)を紹介します。

合理性
 まずは合理性です。これは比較的理解しやすい仮定です。経済主体は合理的であると仮定して,経済学者は人々の経済行動を分析します。合理性を定義すると,「人々は自分の利潤を最大化するために,与えられた資源を最も効率的に使う」ということです。これは一見非常にわかりやすく見えます。この世の中に合理的でない人などいるのかとも考えます。しかし,現実は非合理的に見える行動もいくつか存在します。慈善団体に大金を寄付したり,医療ボランティアとして働くことはどうでしょう。このように,合理性に関する疑問が生じた場合,経済学者は経済主体が直面するインセンティブを十分に理解すれば,非合理的に見える行動も合理的だということを指摘しようとします。寄付する人は節税目的なのかもしれません。またボランティアは自分の社会勉強のために働いているのかもしれません,といった感じです。

抽象化
 経済学的手法の第2は抽象化です。現代の経済分析は世界を抽象的に描写します。抽象化したモデルが抽象的過ぎるかどうかは慎重に検討しなければなりませんが,抽象化自体は悪いことではありません。
 解剖書は抽象化の一例です。初心者が解剖を学ぶ際には,完全な手術中の写真では血管や神経の名前も記されていないので,あまり役には立ちません。それよりも,解剖書のように血管や神経が色分けされて描かれたもの,すなわち抽象化されたもののほうがずっと役立ちます。当然ながら実際の人体では血管や神経が色分けされているわけではありません。経済学における抽象化とはこのように目的に合わせて不必要な細部を排除する技術です。抽象化は常に必要ですが,必要な部分まで排除することは明らかに誤りです。

限界分析
 経済学的手法の第3は限界分析です。経済分析の主流は限界における分析です。限界とは経済学においては常に「次の1単位」を意味します。適切な選択をするために,経済主体は,次の1単位にかかる費用(限界費用)と,次の1単位から得られる便益(限界便益)を知る必要があります。これは経済学における非常に重要な考え方ですが,はじめての人が誤解しやすい点でもあります。比べなければならないのはトータルの総費用と総便益ではなくて,限界費用と限界便益なのです。
 意思決定の際には限界費用と限界便益だけをチェックすればよいのです。過去のこと,すなわちサンクコスト(sunk cost)は無視します。この点を明らかにするために,一例をあげます。今,ある地方政府が病院を建設する決定を下したとします。しかし最近の不況のせいで,その決定が疑問視されるようになったとします。医療需要が予想を下回っていることがわかってきたのです。こうした経済環境の変化は現在建設途中の病院をどうするべきかという問題になってきました。政府はすでにこれまで大金を病院建設につぎ込んできました。建設を最後まで行なうべきでしょうか,それとも途中でもやめるべきでしょうか。
 限界分析では,唯一重要なことは病院の将来の経済的費用と便益です。経済学的には病院建設にすでに投入された金額はサンクコストであり,まったく重要ではありません。病院建設のための総費用は政府がこれまでつぎこんだ大金ですが,これはまったく無視すべきなのです。重要なのは将来のすなわち限界費用(建設を続ける費用)-限界便益(病院から上がる収益)なのです。もし限界費用が限界便益を上回っていれば,それまでに使った金額にかかわらず,建設途中でも建設を中止すべきなのです。

モデル化
 経済学的手法の第4はモデル化です。経済学では問題を表現するのにモデルを用います。モデルは言葉・グラフ・数式などで表わされます。モデルは現実世界の比喩的表現と理解するのが便利でしょう。「これは医療の市場だ」と言う時は,本当は「これは医療の市場のようなものだ」と言っているのです。いかなる比喩も行き過ぎることがあるので,モデルも現実の感覚や事実と比べて検証しなければなりません。
 おそらく経済学で最も重要なモデルは完全競争市場モデルでしょう。完全競争市場とは,次の4点で定義されます。
(1)市場には大勢の売り手と買い手が存在して,その需要と供給を変えることで価格に影響を及ぼさない
(2)市場で取り引きされる製品は同質である
(3)売り手と買い手は完全な可動性を持ち,自由に市場に参入・退出できる
(4)売り手と買い手は完全な情報を持ち,製品の価格や質を完全に知っている
 経済理論によると,完全競争市場は資源の最も効率的な分配を可能にし,労働や資本の無駄がなくなります。また完全競争市場では政府の介入の余地はまったくありません。この秩序立ったシステムは,最初アダム・スミス(1723-90)の古典的作品『国富論』の中で,「神の見えざる手」と表現されました。つまりスミスは,「各人が自己の利益のみを追求して行動すれば,市場は『神の見えざる手』に導かれて最も効率的になる」と言ったのです。
 明らかに完全競争市場はそのまま純粋な形では現実には存在しません。これは現実世界の比喩なのです。しかしこのモデルはさまざまな経済活動をうまく説明できることが知られています。

まとめ

 このように今回は経済学の基本となる部分を概観してきました。これからはこうした基本を用いて現実の医療の世界を眺めていくことにします。
(つづく)


中田善規氏:1990年,東大医学部卒。マサチューセッツ総合病院で3年間臨床研修をした後,エール大学のビジネススクールで2年間学び,MBA(経営学修士)を取得。帰国後,東大経済学部へ学士入学。現在,帝京大医学部附属市原病院で臨床を続けながら,学究にいそしむ。