第2293号 1998年6月15日


連載 市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編

スター選手の死(1)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部助教授


名門チームの転落

 米プロバスケットボール(NBA)の名門チーム,ボストン・セルティクスが今,極度の不振にあえいでいる。NBA創立から50年,全米チャンピオンとなること16回,1959年から8回連続優勝というNBA記録も持っている古豪である。1980年代は名選手ラリー・バードに率いられ,好敵手ロサンゼルス・レイカーズ〔当時は全盛時のマジック・ジョンソン(後にHIV感染で引退)がいた〕と何度も選手権を争う死闘を演じ,今日のNBAの隆盛に貢献した。しかし,1992年にラリー・バードが引退した後は振るわず,1993年のプレーオフに進出した後は1度も勝率5割を越えることができず,1997年には15勝67敗(勝率1割8分3厘)とNBA最弱チームの烙印を押されるまでになった。
 栄光の歴史を誇るセルティクスがなぜここまでの転落を辿るに至ったのか。少なからぬファンたちはあの「レジー・ルイス事件」が転落の契機となったと信じている。この事件の発端は,1993年4月29日,ボストン・ガーデンで行なわれたシャーロット・ホーネッツ相手のプレーオフ第1戦であった。セルティクスのキャプテン,レジー・ルイスが,ゲーム中に失神発作を起こし,試合途中で欠場することとなったのである。

レジー・ルイス

 レジー・ルイスは1965年ボルチモアで生まれた。シングル・マザーの母親は20歳,レジーは3人目の子どもだった。生活保護とフードスタンプ(貧困家庭に配られる食品専用の金券)に頼る貧しさの中でレジーは育った。バスケットボールの名門ダンバー高校に入るが,この時のチームからは,後にレジーを含め4人がNBAの選手となった。奇しくもプレーオフの相手ホーネッツのマグジー・ボーグス,デビッド・ウィンゲートは高校時代のチームメートであり,試合開始前には「NBAのプレーオフで会おう」という高校時代からの夢が実現したことを喜び合ったのであった。
 レジーは高校時代はずっと「6番目の選手」として,控え選手の座に甘んじていた。「自分の力が正当に評価されない」という思いはその後も彼について回ることとなる。レギュラーの座を獲得するのはノースイースタン大学に進んでからであり,ここで才能を開花させたルイスは,1987年のドラフトでセルティクスから1位に指名された。名門セルティクスの主力選手となったものの,ルイスら黒人選手の間にはセルティクスは「人種差別的」なチームであるという不満があった。常に脚光を浴びるのは白人のラリー・バードで,自分はどんなに頑張っても黒人ゆえに正当に評価されていないという不満であった。「セルティクスのファンもフロントも人種差別的」だという不信感が,その後の一連の悲劇の大きな要因となる。

プレーオフ

 大選手ラリー・バードの引退の後,新キャプテンとなったルイスであるが,レギュラーシーズン中は腰痛に悩まされたこともあり,キャプテン1年目のシーズンを不本意な成績で終わっていた。自分がキャプテンとして出場する初めてのプレーオフとあって,「ラリーではなく自分が主役であることを見せたい」と,特別の思いでプレーオフに臨んだのであった。ルイスは,試合開始とともに立て続けにシュートを決め,開始3分の間に10点を上げた。試合開始後6分,セルティクスのパリッシュがリバウンドを取り,さあ速攻,というその時,走っていたルイスの膝が突然くずれ,前のめりに倒れた。起きあがり,床に座ったルイスは呆然とした顔で胸に手を当てた。彼の周りではなおもプレイが続いていた。数秒後に立ちあがったルイスは,ベンチへとゆっくり歩いた。3分間休んだ後ゲームに戻ったが,1分後に再び「めまい」を感じ,ルイスは前半出場を断念した。
 ロッカールームに戻ったルイスをチームドクターのシェラーが診察した。理学所見に異常はなかった。彼は「大丈夫だ」というルイスの言葉を信じ,後半出場を許可した。後半出場の意気込みを示してハーフタイム終了間際にコートに戻ったルイスであったが,ファンの拍手喝采を受けたのは彼ではなく,皮肉にも,もうコートではプレイをしないラリー・バードだった。ファンは,観客席に座ろうとしているラリー・バードに「ラリー,ラリー」と叫びながら拍手したが,コートに戻ったルイスの勇気に声援を送る者はいなかった。後半開始後,すぐに2本のシュートを決めるなど,ルイスはエンジン全開でプレイを再開した。6分後,再び「めまい」を覚えたルイスは,ベンチに「下がりたい」と手で合図した。NBA6年の経歴の中で,ルイスが自分から退場したいというのは初めてのことだった。この日のルイスはわずか13分の間に17点を上げたが,これが彼にとって最後の試合になるとは誰も夢にも思わなかった。

ドリームチームの診断

 翌4月30日,ルイスはニューイングランド・バプティスト病院を受診した。一旦は帰宅が許されたものの,病院側から「精密検査の必要がある」との連絡があり,彼はバプティスト病院に緊急入院することとなった。検査が進むにつれ,失神発作の原因は心臓の異常が原因であるという見方が強まった。
 セルティクスはボストン中の高名な心臓専門医13人を集めルイスの診断を依頼した。この医師団はバルセロナ・オリンピックの米バスケットボールチーム(マイケル・ジョーダン,ラリー・バードなどNBAのオールスターで構成された)になぞらえて「ドリーム・チーム」と呼ばれることとなる。入院3日目,5月2日の日曜日の午後,ドリームチームの医師たちがバプティスト病院に集まり,ルイスの検査結果を検討した。2時間に及ぶ討議の後,「失神発作の原因は限局性心筋症による不整脈であり,生命の危険を考えると選手生活を続けることは断念しなければならない」という結論が出された。
 セルティクスのチームドクター,シェラーが,診断結果を病室で待つルイス夫妻に説明した。ルイス夫妻にとってはショッキングな知らせであった。ドリームチームの医師たちはルイスを直接に診察したわけではなく,「患者の顔も見ずに別室で検査結果を2時間討議しただけで,勝手に重大な結論を出した」と,ルイス夫妻は怒りをあらわにした。裁判に出てもいない陪審員が被告の顔も知らずに有罪判決を下した,と怒ったのであった。
 診断結果が伝えられてから数時間後,午後11時になって,バプティスト病院受付に,ブリガム&ウィメンズ病院人事担当副院長ジョージ・ケイと名乗る人物が「ルイスを転院させる」ために現れた。バプティスト病院にとっては寝耳に水の事態であった。「生命の危険がある」という医師・看護婦の制止を無視し,ルイスは自ら心電図モニターの電極をはずし,「バプティスト病院側のアドバイスにもかかわらず自己退院する」という書類に確認のサインをすると,報道陣が見守る中,病院裏口で待機していたブリガム&ウィメンズ病院のトラックに乗り込んだ。

つづく