医学界新聞

オーストラリアの痴呆症患者ケア

改善を続けてきたこの20年

リチャード・フレミング
(痴呆症サービス開発センター所長/オーストラリア・シドニー)


新しい痴呆症ケアの実践

精神病院からの脱却

 痴呆症患者は,20年前に比べてはるかに良質のケアを受けるようになりました。
 1970年代後半を振り返ってみると,痴呆症の患者は軽い行動障害があったり,自分で自分の面倒をみることができなくなったという理由だけで,精神病院に送られてしまう危険にさらされていました。当時のオーストラリアの精神病院というのは,世界のあらゆる国と同様,規模が大きく,人が近づきにくい場所にあるのが普通でした。精神病院に入院するということは,多くの場合家族や友人から引き離されることを意味していたのです。
 1990年代後半となった現在,私たちは多くのことを学び,向精神薬の過度の使用についての懸念は残っているものの,良質な痴呆症ケアの例を多く見られるようになりました。それでは70年代から現在までに,一体何が変わったのでしょうか。その一端を紹介したいと思います。
 まず,少人数の痴呆症患者に一軒家で共同生活をしてもらい,地域社会で生活をしていく中でケアを提供するという,まったく新しい試みが注目されるようになりました。中でも特筆すべきなのが,メルボルンの統一キリスト教会が支援する「ザ・ロッジ」というプログラムです。
 このプログラムから精神病院におけるケアの質に対する懸念が示された結果,ニューサウスウェールズ州(以下,NSW州)に政府の特別調査委員会が設けられました。また,このケアの質に関する懸念は,病院で提供されるケアのコストにまで広がり,精神病や痴呆症の患者に対してよりよいケアを提供できる方法が他にないか,という疑問が問われ始めました。もっと優れたケアを提供すると同時に,コストを削減する方法が問われたのです。

リッチモンド・レポート

 1980年代初め,NSW州で精神病院の本格的な見直しが行なわれ,その結果「リッチモンド・レポート」が提出されました。この報告書では,ほとんどの精神病院の閉鎖と,残りの病院の規模の縮小,そして病院で提供されていたケアサービスに代わって,地域社会をベースにしたサービスの提供を勧告しています。これらの勧告が実行に移されている途中,精神病院に入院していた痴呆症患者の立場を一変させる裁判所の判決が下りました。痴呆症というのは心の病気ではなく,脳の器質的疾患であり,したがって「精神病ではない」との判決がパウェル判事によって下されたのです。これは,痴呆症の人たちが本人の意志に反して精神病院に入院させられることがないことを保証するものでした。判決はまた,痴呆症患者のために早急に新たなケア方法を開発しなければならない必要性を改めて確認するものでもあったのです。
 これをきっかけとして,ある小さなグループによって開発されたのが,16人のCADE患者(軽い痴呆症の老人。混乱した,あるいは精神的に不安定な老人という意味を持つ)に家庭的な雰囲気のホームを提供するために特別に設計した,小規模なユニット(CADEユニット)に基づくケアモデルでした。
 ホームは不穏状態の原因を少なくし,平穏な生活が送れる環境を整え,入居者に日常生活のさまざまな活動に従事してもらえるように工夫した設計がなされました。このモデルを開発したグループの人たちは,精神病院で働いた経験があり,何を行なってはならないか,という問題に定期的に直面していた人たちでした。このケアモデルは,精神病院での不本意な経験に基づいて開発されたわけです。

高齢者ケア計画

 1980年後半になると,オーストラリア政府は1985年に「高齢者ケア改革推進事業10か年計画」を発表し,積極的に高齢者ケア制度の改革に乗り出しました。主だった改革の中でも特に重要な意味を含んでいたのが,個人の障害の程度と,国からその個人のケアのために支給される補助金とを関連づけたことです。つまり,障害が重いほど補助金が増額したわけです。このため,高齢者用の施設は,宿泊施設の提供者であることが敬遠され,ケアの提供者であることが奨励されるようになりました。
 高齢者ケアサービスの計画と管理の必要性が生まれてきた背景には,オーストラリアの高齢化がありました(高齢者数の増加傾向は現在も続いています,参照)。急増しているのが特に年齢の高い層で,その内5人に1人が痴呆症になっています。
 1992年には「痴呆症ケアのための5か年全国アクションプラン」がスタートしました。3100万ドルの予算をかけたこの計画により,オーストラリア国内における痴呆症ケアのイメージ,そしてサービスの提供方法が大きく変わりました。行動計画の中には,行動の枠組みとなるいくつかの要素が含まれています。その内訳は以下の通りです。
 1.診断と評価
 2.痴呆症患者へのサービス
 3.痴呆症患者のケア者へのサービス
 4.サービスの質
 5.調査研究と評価
 6.地域社会の意識
 7.政策と計画

デモンストレーションプロジェクト

普及促進活動への資金援助

 「サービスの質」という要素のもとでは,一連のイニシアティブが導入されました。その結果,「デモンストレーションプロジェクト」に対する資金援助を提供することにより,優れた痴呆症ケアの普及促進活動が始まったのです。実践で働く人々が後押しを受け,研究会や教育実習の場で自らの経験を語り,さまざまなアプローチを他の人たちにも知ってもらう一方,マニュアルやビデオといった教材作りに乗り出しました。1992年から1994年までに,113のデモンストレーションプロジェクトに約500万ドルの資金が注がれています。
 1993年には,入居施設で働くケア職員に対して,痴呆症に関する基本的な教育研修を施すことを優先項目とすることが決定され,その結果,「入居施設のための全国的教育訓練イニシアティブ」が開発されました。これは,高齢者用入居施設で働く職員を対象に,痴呆症に関する効果的なケアの基本を教えるために開発されたもので,このコースに参加する機会を与えることを目的としたものでした。この年,デモンストレーションプロジェクトの補助金申請に対する非常に厳しい評価が実施され,資金援助を受けたプロジェクトはわずか5つだけでした。

ハモンドケアグループの全国アクションプラン

デモンストレーションプロジェクト
1.シンクレア・ホーム
 1994年,ハモンドケアグループはデモンストレーションプロジェクトの補助金を受け,シンクレア・ホームというベッド数72床の痴呆症専門ナーシングホームで経験を共有するとともに,同ホームに教育研修プログラムとケースマネージメントを導入しました。
2.一般ナーシングホーム
 1995年,ハモンドケアグループは,資金援助を受けた5つの団体の1つとして,デモンストレーションプロジェクトの活動を引き続き行なっています。この年に行なったプロジェクトでは,シンクレア・ホームで培ったアプローチを,痴呆症専門以外のナーシングホームにも普及さています。
入居施設のための全国的教育訓練イニシアティブ
 1996年,ハモンドケアグループはオーストラリア連邦政府より委託を受け,「入居施設のための全国的教育訓練イニシアティブ」の下で,500か所以上の高齢者用入居施設で教育研修を実施しました。また,このプロジェクトのためのインフラ開発が行なわれたことにより,ハモンドケアグループは「痴呆症サービス開発センター(DSDC)」をオープンするに至りました。

経験の成果

 それまで,精神病院に入院させられていた痴呆症患者を最初のCADEユニットに移転させたことについては,注意深く評価が行なわれました。また,デモンストレーションプロジェクトの一環としてナーシングホームに教育研修・ケースマネージメントシステムを導入した効果についても,注意深く評価が実施されました。その結果,両プロジェクトでは,適切な環境下では痴呆症患者の症状が著しく改善したことが確認されました。
 CADEユニットへの移転では,特別に設計された新しい施設に移り住んでもらうことが必要となります。一方,デモンストレーションプロジェクトでは,既存の,しかも決して適切とは言えない建物を流用しています。詳細な分析結果では,最も障害が重い患者にとって最も恩恵が大きかったことを示しています。
 痴呆症の人たちのケアには常に前向きの姿勢でアプローチすべきであることは,今や明らかです。成功を収めたケアのアプローチは今,必要に応じて繰り返すことが可能となっています。ハモンドケアグループは2年前に,ベッド数40床の痴呆症患者専門のホステルをオープンしました。CADEユニットで学んだ経験が,その設計の隅々に活かされています。ホステルの入居者について定期的な評価を行ない,入居した結果,どのような改善が見られたかを確認しています。これまでの評価では,ユニットに6か月住んだ後では37%が人との接し方に改善があり,30%が不穏状態が少なくなり,24%が行動障害が減ったという結果を示しています。
 こうしたプロジェクトからの経験は,500以上の施設で提供している教育研修コースを通して,広く活用できるようになりました。この教育研修に関わること自体が,さらに経験を深めることになったのです。職員全員が理解し,1人ひとりが自分自身の信念とするような,ケアに対する建設的な基本姿勢を育てる。これこそがあらゆる建設的変化のスタートラインにあることが今,明らかになってきています。

症状の改善を信じて

 DSDCのスタッフが教授する痴呆症ケアへのアプローチは,オーストラリアの連邦,州両政府の大型プロジェクトに深く関与した経験の中から生まれたものです。このアプローチは詳細な評価の結果,数多くの痴呆症の人たち,中でも最も重症の人たちにとって効果的であることが確認されています。その結果開発された教育研修プログラムは,NSW州にある500以上の入居施設の職員に提供されています。これは,オーストラリアの痴呆症ケアの分野で起きた,大きな改善の動きの一部なのです。
 過去20年間に大きな変革が起こりました。そして私たちは今,痴呆症の患者のために入居施設でのケアを必要とする多くの人たちに対して,必ず症状の改善をもたらすことができると信じて疑いません。

(おわり)