医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療(14)

組織犯罪(1) -ドンのヘルスケア-

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


 ビンセント・ジガンテ,68歳。マフィアのニューヨーク5大ファミリーの1つ,ジェノベゼ・ファミリーのドンである。過去30年の間に何度も被告として法廷に立たされているが,1度として有罪判決を受けることはなかった。「精神障害」のために責任能力がないとされてきたからである。検察側は,彼は「狂気」を装っているだけだと主張してきたが,ジガンテの奇矯な言動は検察側の主張を打ち破るに十分であった。彼がパジャマで自宅周囲のグリニッチビレッジを徘徊する姿は有名で,ニューヨークのタブロイド新聞は彼に「パジャマ・キング」というニックネームを進呈した。カソリック教会の神父である被告の兄,ルイス・ジガンテによれば,精神病院への入院歴もこの20年間で25回に上っている。

検事を圧倒したドンの「異常」ぶり

 昨(1996)年9月に,8件の殺人・殺人未遂に関する共謀,および恐喝の罪で告発され,6年ぶりに法廷に引き立てられたときの彼の姿はとりわけ悲惨であった。髪はぼさぼさ無精ひげをはやし,足はがくがく震え視線は定まらず,主治医の心臓専門医バーナード・ウェクスラーの腕にすがりながら,何とか被告席まで歩いたのであった。主治医は往診鞄を抱えていたために,片腕でジガンテを支えるしかなかった。開廷後も,判事,検事,弁護士のやりとりには一切関心を示さず,ぶつぶつと独り言を続けた。弁護士のジェイムズ・ラロッサは「無罪」を主張し,被告が周囲で行なわれていることをまったく理解していないと述べた。開廷に先だって「被告は30年間精神障害を装ってきた」という裁定を下したニッカーソン判事は被告の一挙手一投足を注意深く観察した。検事側は保釈(保釈金100万ドル)の取り消し動議を提出する予定であったが,ジガンテの「異常」ぶりに圧倒されて,保釈取り消し動議を提出し忘れてしまうほどであった。弁護側は,被告は大動脈瘤を患い,このまま出廷を続けていたら大動脈瘤が破裂する危険があると申し立てた。判事は詳細な診断書の提出を求めたが,ジガンテは実際に今年1月に大動脈瘤の手術を受けることとなった。検察側は5月の本格審理開始までに「ミスター・ジガンテが速やかに順調に回復するよう」ジガンテ側に見舞いの言葉を送った。
 心身ともに健康上の問題を抱える被告に対して裁判が続けられることに,ジガンテの家族は深い憂慮の念を表明した。94歳になる母親ヨランダ・ジガンテは「息子は病気なのです。私の可哀想なリトル・ビンセントは,私がいないと,食べることもお風呂に入ることもできないのです」と語った。被告への支持を示すために,毎回の法廷には,彼の7人の子ども,そして20人に及ぶ一族縁者たちが出席し続けた。弁護士をニューヨーク市長ルドルフ・ジリアーニの友人であるフィリップ・フォグリアに代えるなど,被告側は必死に防戦した。7月29日,陪審はジガンテ被告に対し有罪の評決を下した。有罪の評決が下ることを予期していたのかいなかったのか,評決を受けたときのジガンテの表情は「周囲で何が起こったのかまったく理解できない」というものであったという。

医療保険ブローカー

 さて,今回のテーマはマフィアのドン,ビンセント・ジガンテの「健康問題」ではなく,彼がドンとして仕切るジェノベゼ・ファミリーが医療の分野に進出していた,ということである。ニュージャージー州ハスブルック・ハイツの医療保険会社,トライ・コン社が,マフィアのジェノベゼ・ファミリーにより運営されていたのである。トライ・コン社はいわゆる医療保険ブローカーである。アメリカの医療保険は私企業が販売するものがほとんどであり,保険商品の種類も何十種類もある。加えて,HMOだ,IPAだ,PPOだ,と,管理医療の制度そのものが目まぐるしく変化し続けている。病院などの医療サービス供給者にとっても,従業員のために医療保険を購入する企業(雇用主)にとっても,医療保険制度の急激な変化と複雑さは手に余るものがある。そこに現れた新事業が医療保険ブローカーである。ブローカーの仕事は,医療保険という商品を保険会社から割引価格で仕入れ,顧客(事業主)に販売し,サービス網(病院ネットワーク)を整備することである。規模の小さい企業・組合などは,保険会社から直接保険商品を購入するよりも,ブローカーから割引価格で購入するほうが安く上がり,病院など医療サービスを供給する側にとっては,ブローカーが患者を集めてくれる,というメリットがある。

説得手段はマフィア流

 ニュージャージー州検事総局がトライ・コン社を摘発したのは昨年8月20日のことである。摘発のきっかけは密告であったが,マフィアが医療保険分野に進出していたとは検察にとっても晴天の霹靂であり,調査は2年に及んだという。トライ・コン社の関連事業の宣伝文書によれば,トライ・コン社グループの事業はニューヨーク,ニュージャージー,フロリダ,オクラホマ,モンタナの5州に及び,被保険者は100万人に上るという。顧客リストの中にはオクラホマ州の複数の警察官組合も含まれていた。今回摘発された犯罪の手口は,病院側に水増し請求をさせ,それを保険会社に支払わせた上で,病院側からリベートを受け取るというものであり,リベートの額は年間患者1人当たり100ドルといわれている。ネットワークに入りたがらない病院をネットワークに加入させる際,あるいは保険会社の担当者に特別レートでの支払いを認めさせる際に,マフィア流の説得手段が行使されたという。トライ・コン社の経営責任者として逮捕されたのはステファノ・マッツォーラ,52歳,元ニュージャージー州パセイク市の警官である。強盗,恐喝などの罪で10年間服役し,出所直後の1993年,トライ・コン社の経営責任者の地位についた。彼はトライ・コン社での水揚げをファミリーに上納するだけでなく,ファミリーの主だったメンバーに無料の医療保険を提供したという。
 ニュージャージー州検事総長のピーター・ベリネーロによれば「現在,他のマフィアが医療保険業に進出しているかどうかはまったく不明」とのことである。また,トライ・コン社は患者の医療記録に容易にアクセスできたわけだが,幸いにこれまでのところ患者の医療記録がゆすりなどに悪用された形跡はないという。トライ・コン社は「Taking health care into the next century(医療を次の世紀に導く)」,ということをキャッチフレーズにしていたが,21世紀の医療はマフィアが牛耳ることになるのであろうか。

(この項つづく)