医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療 番外編

奇跡の歴史
小児白血病治療の50年(4)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


(6)奇跡を作り出した人々

 50年前,小児白血病は不治の病であった。医師の仕事は,白血病の診断を家族に告げ,患者の死を看取ることだけであった。聖ジュード小児研究病院初代院長となったドナルド・ピンケルによれば,彼が医師としての研修を始めた50年前は,白血病に対しては諦めと絶望しかなく,医師の態度も「何をしても無駄だ」というものであったという。熱心に研修医を指導する教官でさえも,回診の際に病名が白血病であると知るとその患者の病室は素通りしたものだという。ピンケルが小児癌を専門としたいという希望を表明したときに,同僚の医師たちは「せっかくの経歴を棒に振ることになる」と警告した。

希望の光明

 小児白血病に対し治療の手だてがあるかもしれないという希望の光明をなげかけたのが,シドニー・ファーバーが1948年ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン誌に発表した論文であった。16例の小児白血病患者に葉酸代謝拮抗剤アミノプテリンを投与したところ10例に奏効し,瀕死の状態の患者が「学校に戻る」まで回復した例もある,というのである。同誌の解説は,ファーバー論文に懐疑を示しながらも,「希望を持ち得ない(hopelesss)病気の治療に希望が見えてきた」と論評した。
 ファーバー論文が実際に発表されるよりも前に,全米の病院でアミノプテリンの追試がすでに始められていた。ニューヨークのスローン・ケタリング記念病院(以下,スローン・ケタリング)では,C・P・ローズのグループが10例にアミノプテリンを投与したが効果を認めず,彼らはファーバー論文の報告を否定する論文を書き始めた。この論文は投稿されることなく終わったが,それというのも11例目の患者にアミノプテリンが奏効したからであった。
 スローン・ケタリングのグループは,アミノプテリンの治験を始める以前からバロウズ・ウェルカムズ社の研究者たちと核酸代謝拮抗剤の共同研究に乗り出していた。当時は遺伝子の本態およびDNAの生物学的役割すら明らかにされていなかったが,バロウズ・ウェルカムズ社のジョージ・ヒッチングズは核酸代謝を阻害すると細胞増殖が阻害されることを見いだしていた。試験管内で有望な薬剤をスクリーニングし,マウスの腫瘍系で抗腫瘍効果を確認し,犬で毒性試験を行なった後臨床試験に移るという,今日では考えられないペースですべてが進められた。

2,6-ディアミノプリン

 最初に効果を挙げた核酸代謝拮抗剤が2,6-ディアミノプリンであった。1948年,23歳の白血病患者を寛解に導入することに成功したのだが,治験チームは「初めの白血病の診断が間違っていたのだろう」という批判を受けた。この批判が正しくなかったことは,不幸にもこの患者が白血病を再発したことで証明された。ジョージ・ヒッチングズが率いるバロウズ・ウェルカムズ社の薬剤開発チームとローズが率いる臨床治験チームとの間には密な連絡が取られた。個々の患者の臨床経過が,逐一薬剤開発チームに伝えられ,ヒッチングズたちは患者の経過に一喜一憂することとなった。「私たちの気持ちは,まるでジェットコースターのように激しく舞い上がったり落ち込んだりを繰り返しました。患者がよくなったといっては喜び,悪くなったという知らせを聞くたびに胸が塞がれる思いがしました」と,ヒッチングズは後に回想している。

6-メルカプトプリン(6MP)

 2,6-ディアミノプリンの「成功」に意を強くした研究チームが次に望みを託したのが,1951年にガートルード・エリオンが合成した6-メルカプトプリン(6MP)であった。エリオンは1937年に化学修士の学位を得たが,女性ゆえに就職先を見つけることが難しく,バロウズ・ウェルカムズ社のヒッチングズのチームに加わったのは1944年のことであった。彼女は博士号を取得すべく夜学の大学院に通うが,学部長から仕事を辞めて全日で通わないと無理だといわれた際に,学位をあきらめてバロウズ・ウェルカムズ社での研究を継続する決断を下した。結果として彼女の決断は多くの患者を救うこととなった。
 6MPは45例の小児白血病患者に対し,15例の患者を「完全」寛解に導入した。スローン・ケタリング・チームのリーダー,ローズは,劇的効果をもたらした6MPを他の医療機関にも供給した。さらにローズは,スローン・ケタリングのスポンサーであるチャールズ・ケタリングに対して,バロウズ・ウェルカムズ社のヒッチングズが率いる研究チームに直接財政的援助を与えることを提言した。私企業の研究チームに寄付金を与えるのはきわめて異例なことであったが,バロウズ・ウェルカムズ社はヒッチングズの研究チームを縮小しようとしていただけに,ケタリングからの財政援助は僥倖ともいえるものだった。やがて,6MPの劇的効果がマスコミに報道され,ヒッチングズとエリオンのもとには,白血病患者の家族から薬剤供給依頼が殺到した。ヒッチングズたちは患者の家族からの依頼に応えようと,不眠不休の手作業で6MPの合成を続けた。薬剤認可の権限を持つ米政府の食品薬剤管理局(FDA)も,異例のスピードで6MPの審査を行なった。局長のキング自らが個々の症例を審査し,申請後わずか8か月で6MPは認可されたのであった。ヒッチングズ,エリオンの核酸代謝拮抗剤の研究は,白血病治療薬だけでなく,イムラン(免疫抑制剤),アロプリノール(抗痛風薬),アシクロビル(抗ウイルス薬)をも産み出した。これらの功績を称えられ,ヒッチングズとエリオンは1988年,ノーベル医学・生理学賞を授与された。

無名戦士たちの犠牲の上に

 アミノプテリン,6MPで始まった小児白血病の治療であるが,徐々に長期延命者が現れるようになった。一方,治療プロトコールに対しても1つひとつ地道な改善の努力が続けられた。併用化学療法,成分輸血,感染コントロール,中枢神経系再発の予防,骨髄移植等,多くの治療法が小児白血病との闘いの過程で創出された。そしてある日気がついてみると,「治った」としかいいようのない患者が現れるようになっていたのである。スローン・ケタリングで6MPの治験をリードしたジョーゼフ・バーケナルは,1963年になって初めて国際レベルのアンケート調査を行ない,127人の長期生存者(すなわち,治癒症例)を確認した。
 50年前,小児白血病は不治の病であった。「癌を治そう」という医師や研究者の望みは荒唐無稽と冷笑され,「癌と闘う」など論外の時代だった。信念と情熱を持って先駆的な仕事をやり遂げた医師や研究者の努力ばかりが称えられてきたが,真に称えられるべきは,勇気を持って癌と闘った患者であり,患者を支え,ともに苦しみに耐えてきた患者の家族たちである。「副作用を承知し,自分は治らない可能性が高いと知った上で,後の患者のためにも実験的治療に応じよう」と,癌に対し「やられたらやり返す(fight back)」という勇気を示した多くの患者とその家族たちの努力があったからこそ,小児白血病は治る病気となったのである。小児白血病治療の50年は,こういった無名戦士たちの犠牲と貢献の上に成り立っている。

エピローグ

 1947年9月5日,セントルイスで開かれた第4回国際癌研究会議で,ニューヨークのマウント・サイナイ病院から,癌の化学療法が奏功したというセンセーショナルな症例が発表された。症例は52歳男性,進行期の鼻咽喉癌のために,手術,放射線療法にもかかわらず,経口摂取ができず,かつ激痛に苦しんでいた。葉酸代謝拮抗体プテロプテリンによる実験的治療が行なわれ,6週間後,腫瘍は縮小し,経口摂取も可能となり,患者の全身状態は著しく改善した。当時患者が誰であるかは明かされなかったが,被験者は誰あろう,あのベーブルースであった。癌化学療法の黎明期,ジミー基金が作られる直前に,ベーブルース自らが患者として実験的治療に参加していたのである。
 癌との闘いに明け暮れるベーブルースに1人の少年から手紙が届いた。「親愛なるベーブ。同じ学校の中学1年のみんながあなたのために祈っています。神様の絵をつけたメダルを同封しますが,これを身につけていればきっとよくなります。追伸,よくなることがあなたの61本目のホームランです。あなたなら打てるはずです。あなたの友,マイク・キンラン」。ベーブルースは奇跡を祈り,キンラン少年から送られたメダルを,死ぬまで身から離さなかった。シドニー・ファーバーが小児白血病の寛解例を報告した歴史的論文を発表してから2か月後の1948年8月,ベーブルースはついに61本目のホームランを打つことなく,53歳でその生涯を閉じた。

(この項おわり)