第2248号 1997年7月14日
Vol.12 No.6 for Students & Residents
医学生・研修医版[6]1997. JUL.
メコン紀行 ラオス1500Kmの旅
ラオスの医学生との交流からみえたもの
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高山義浩 山口大学医学部 国際保健研究会代表 |
はるかなる太古,いまのインドにあたる陸塊がユーラシア大陸に衝突した。衝突によって大地は隆起し,ヒマラヤが形成された。また,衝撃で大地はひび割れ,それに沿ってヒマラヤから水が流れ出た。そして,その水の流れは泥を運びつづけ,東南アジアという巨大な粘土の拡がりを生じさせる。やがて,この粘土塊は,豊かで美しい生態系で彩られていくことになる。
僕はこの春,その粘土塊を貫くひび割れ,つまりメコン河を約1500キロにわたり下ってきた。その途上では,国際保健医療協力に尽力される先生方,ダム開発にラオスの未来を託そうとする技術者,ラオスの医学生,そしてメコン流域で自然との調和の中に生きる人々との出会いがあった。
すべてをこの紙面で語り尽くすことはできないが,医学を学ぶ学生の視点でその断片を紹介しながら,ラオスの,そしてメコンの未来を考えてみたい。
辺境の医師たち
日本の医学生です!
タイの首都バンコクからバスと舟を乗り継ぐこと3日,ようやくラオスとの国境に到着した。国境線はメコン河である。3月6日に,渡し舟でラオスに上陸。ものの数分での国境越えは,島国出身の僕にとっては刺激的な体験であった。
僕が入国したラオスの街,フエイサイはラオスの西北部,1000mを超える山々に囲まれた山岳地域に位置する。人口約5万人の小さな街にすぎないのだが,ラオスにとっては5番目の都市である。1994年に国境が再開されて以来,急速に近代化が進んでいると聞いていたが,まだまだ山あいに生まれた街道筋のマーケットといった趣であった。このラオス山岳地域で,僕は以前から病院を見学してみたいと考えていた。
実は,この地域は世界でも有数のマラリア多発地帯であると言われている。ところが,険しい山々とメコンの濁流にはばまれ,ほとんど医療サービスは届いていない。それどころか,その実状すら把握できていないようであった。
さて,フエイサイの病院はすぐに見つかった。さすがに西北部の中心都市だけあり,大きな病院であった。ところが,予想された事態ではあったが,英語を解する人がまったくいない。医師も看護婦も患者も,みんな玄関先でニコニコ僕を取り囲んでいるのだが,僕がいくらゆっくりと英語で訪問の意図を説明しても,みな柔和な笑顔をより一層ふくらませるばかりで,何らコミュニケーションは成立しなかった。
しかたなしに片言のラオ語で,「ナクスクサー ペェートサー ニープン(日本の医学生です)」と話すと,「おぉ!」と歓声が上がり,医師の1人が得意げに患者たちを追い払い,僕の肩を抱きながら病院の案内を始めてくれた。以下の記録は,僕の片言のラオ語と医師たちの片言の英語によるものである。
フランス人の医師が多い日本?
ボケオ県立病院というこの病院は,ちょうど日本の小学校ぐらいの敷地にコンクリート平屋の病棟を並べ,約50床の入院設備を整えていた。ベッドは満床で,受付の長椅子に寝かされている患者もいた。意外にも,約50人いる入院患者のうち10人以上がけがや火傷によるものだった。医師によると,この時期はマラリアよりも山地における転落事故が深刻なのだという。それは伝統的な焼畑農業に加え,最近,急速に進んでいる森林伐採が背景にあるらしい。言われてみれば,フエイサイの街から周囲を見渡すと,焼畑の煙がいくつもの筋になって山々から立ち上っており,風向きによっては,灰がふわりふわりと落ちてきていた。また,川岸には伐採された木材が積み上げられているのがところどころに見られた。3月というこの季節は,山地での労働に適しているのかもしれない。
多いと考えていたマラリアの患者は,たった5人に過ぎなかった。しかもあまり重篤ではなく,いつでも退院できそうなほど元気だった。ラオスの死因第1位を占めるというマラリアの脅威だが,この病院では確認できなかった。もっともここの医師によると,雨季にはマラリア患者が約半数にまで増えることがあるということではあったが……。
病棟を案内してもらった後,医師の控え室でお茶をごちそうになりながら談笑した。帰る間際になって,医師たちが「日本の医療事情を聞かせてくれ」と言ってきた。僕が限られた語彙でどう説明しようかと辞書をくっていると,1人の医師が「日本にはフランス人の医者がたくさんいるに違いない」と訳のわからないことを言いだした。ところが他の医師たちも,「そうだ,そうだ。そうに違いない」とうなずきあっている。何度か片言で押し問答しているうちに,ようやくその意味がわかってきた。
すなわち,「ラオスの貧しい街には,公務員のラオス人医師しかいないが,少し豊かな都市になるとタイ人や中国人の医師がいる。ところが,もっと豊かなビエンチャンともなると,なんとフランス人の医師が開業している。日本は,ビエンチャンなど目じゃないほど発展しているのだから,フランス人の医師があふれるほどいるに違いあるまい」というわけだった。これで,僕は日本の医療の何から説明すればよいのかまったくわからなくなった。とにかく,「日本にはフランス人の医師は数えるほどしかいない」というきわめて基本的なことだけは理解してもらうことはできたと思う。ただ,最後に握手を交わしてお礼を述べ,手を振りながらも,彼らは「やっぱり腑に落ちない」という顔をして見送っていた。
ビエンチャンへの道
フエイサイからビエンチャンへは舟とバスの旅となる。道がないときは舟に乗り,河が険しくなると道を行った。
舟の旅では,屋根に寝転がりながら穏やかな時間を楽しんだ。長時間の船旅ではあったが,決してメコン河は僕を飽きさせなかった。堆積岩が川面からさまざまな造形を示しつつそそり立っている。さらに,ときおり投網漁をする舟や洗濯をする女性たち,水浴びをしながら大きく手を振る子どもたち,あるいは切り出した材木を象に運ばせている様などがみられ,壮大なメコンの自然に人々の生活が見事に重ね合わされていた。
そうした世界を,僕を乗せた舟は巧みな操船技術で縫うように下っていく。実際,乾季のメコン下りは,船頭が河を知り尽くしていなければ,すぐに座礁しかねない危険さが感じられた。
都会の空気が恋しくなった
一方,バスの旅は人々との出会いの旅である。ラオス西部では,外国人が本当にめずらしいらしい。ちょっとした街に停車すると,子どもはもちろん大人たちまでが群がって,あれやこれやと質問してくる。どこへ行くんだとか,そのカメラはいくらするんだとか。もちろん英語は通じない。さらに日本人と知ると,日本にはモン族がいるのかとか,山はあるのかだとか,とにかく堂々と早口のラオ語でまくしたてられる。僕があいまいな返事をしていても,彼らの好奇心は決してそれを許さず,とにかく明快な解答が得られるまで,バスの出発を制止してでも聞きつづけるのである。
ビエンチャン到着を翌日に控え,僕はパクライという小さな街で一夜を過ごした。電気も,もちろん水道もない,その静かな街にもやはり宿は1つしかなかった。古びた木造の宿で,僕はまず蚊帳にぶら下がっていた蜂の巣と格闘した。そして,体中にこびりついているかのようなメコンの赤土を水浴びで洗い流し,ベランダでいつになく涼しく強い風に吹かれていた。
煙草をくゆらしながら,ふと空を見上げると,墨色の雲が少し欠けた月をのみこむように広がっていく。と,瞬く間に,その空から,大粒の雨が叩きつけるように落ちてきた。屋台の女性たちが大急ぎで片づけはじめ,その横を子どもたちが水しぶきをあげながら駆けていく。乾季にはめずらしい豪雨である。僕は真っ暗になった宿の中を手探りで引き返し,蚊帳にもぐって早々の眠りについた。トタン屋根を叩きつづける雨音にうなされながら,僕はそろそろ都会の空気が恋しくなってきた。
翌日,僕はスピードボートで一気にビエンチャンをめざすことにした。ところが,その日のメコンは,いつもと違うようである。昨夜のスコールを集め,メコンは猛然たる勢いで舟を叩きつけた。飛沫が,ヘルメットをかかえてうずくまる顔にまで散りかかった。視界全体が,烈しく踊りつづける。あたかもメコンが僕に敵意を抱くかのように。
5時間後,ビエンチャンにたどり着いたとき,僕には,もう口をきく気力すら残っていなかった。やはりその日も,倒れこむようにベッドに身を横たえた。
ラオスの医学生たち
医学書を手土産に
翌朝,僕は9時になってようやく目を覚ました。久しぶりのベッドは柔らかく,重くなった身体が沈みこんでいく。しかし,この街で果たすべき役割を思い出し,けだるさを振り払った。
ビエンチャンにおいて,僕には1つの計画があった。それは,ラオスにおける唯一の大学,ラオス国立大学の医学生と日本の医学生との間に,交流の場を取り持つことであった。これまで,ほとんど鎖国状態であったラオスの医学生にとって,他のアジア医学生たちとの交流はまだ夢物語である。アジアの医学生たちが交流していること,そして,もちろんラオスの医学生たちも歓迎されることを伝えたかった。肩書きのない医学生たちの対等な交流こそが,国際相互扶助の礎となることを僕は信じている。そうしたお節介もあって,ラオス国立大学を訪問したかったのだが,いきなり大学の門前で,「日本の医学生が来たから歓迎しろ」というのも失礼な話である。誠意と熱意を伝えるための具体的なアクションが必要であろう。そこで考えたのが,同大学医学部図書館への医学書寄贈であった。
この企画については,僕が主宰する国際保健研究会の会報を通じて,英文医学書を収集してくれるよう支援を要請した。呼びかけたのが,昨(1996)年の12月と,ほとんど直前であったにもかかわらず,数多くの御厚意をいただいた。なかには20万円分の医学書を購入してくださった先生もおられたほどである。そうして,出発間際の僕の部屋は,200冊にものぼる英文医学書であふれかえったのだった。
これら医学書は,ビエンチャンで合流する予定の会員たち,および琉球大学のスタディツアーの学生たちが日本から運んでくれた。ただし,すべてを運ぶのは不可能だったので,まずは50冊を選んで運んでもらうことにした。それでも,ダンボール箱で6箱にもなった。
さて,合流地点となったビエンチャンで足を棒にしながら駆けずり回り,偶然に知り合えた保健省官房長ケンペットさんの紹介で,ついに医学部長ボンサイ先生とお会いすることができた。非常にフランクな先生で,医学書寄贈の話はとんとん拍子に進み始めた。それどころか,「来年は医学部で実施している地域医療実習に参加してみてはどうか」とまで誘ってくださった。
自国の将来発展とジレンマ
10日後,ささやかながら贈呈式をしていただいた。収集した医学書は,いまではラオス大の医学部図書館で大いに活用していただいていると思う。ラオス唯一の英字紙,ビエンチャンタイムズでも「日本とラオスの医学生の間にかかった最初の架け橋」として大きく取り上げられた。これから,日本とラオスの医学生交流が活発になっていくことを期待するとともに,責任を感じているところである。
ところで,贈呈式の後で2時間ほどラオスの医学生たちと意見交換をすることができた。外国人と話すことが初めてという学生もいて,最初は緊張しながら自己紹介を順番にしていたが,やがて打ち解けて驚くほど活発な議論があちこちで始まった。
自国の将来をアジア規模で考えていこうとする姿勢は,日本の学生にも,ラオスの学生にも共通していたようである。僕がもっぱら話しこんでいたデゥアンチャン君は,環境問題に大きな関心を抱いていた。とりわけ,ダム開発予定地を見に行ったとき,木が切られ,赤茶けた大地が延々と露出しているのを目撃して強い衝撃を受けたといまにも泣き出しそうな表情で語っていたのは印象的だった。そこで彼に,「じゃあ,君はダム開発に反対なんだね」と念を押すと,彼は「いや,それでも僕はこれ以上貧しいラオスを見ていたくはないんだ」と凄惨な記憶を振り払うように髪をかきあげた。「あれがスターティングポイントなんだよ」と。
国際医療協力の現場から
翌日,ビエンチャンで合流した国際保健研究会のメンバーたち(岐阜大医学部 篠田朋子,山口県立大看護学部 竹内美由紀,太田看護専門学校 田中智恵子,愛知医科大医学部 武居敦英,大阪府立看護大 脇本寛子)は,ラオス中部の街タケクへと向かった。夜明け前のバスターミナルで探し当てたバスが,果たして本当にタケク行きなのか少し不安だったが,やがてバスの正面から射るような光とともに太陽が顔を覗かせたことで,確かに僕たちは東へと向かっていると安堵した。今日もいい天気だ。光のコントラストは力強さを増し,大地の赤と山の緑がはるか遠くの青空に抱えられ,くっきりと浮き上がって見える。このあふれかえる自然に限界があるなど,誰が信じてくれるだろう。
ラオス国公衆衛生プロジェクト
目的地タケクでは,国際保健の専門家の小川寿美子先生を訪ねる約束を取りつけていた。小川先生は,JICA(国際協力事業団)により長期派遣専門家として3年余り,タケクを拠点としてカムワン県の保健医療向上のために活躍されている方である。
現在,ラオスでは,JICAとWHOのジョイントプロジェクトとして,「ラオス国公衆衛生プロジェクト」が進行中である。この国際医療協力プロジェクトは,1992年より5か年計画で,カムワン県において推進されてきた。プロジェクトは,本年9月末に終了予定だが,内外でも「大きな成果をあげた」と評価が高く,ラオス政府もこのプロジェクトをモデルケースにして全国的な展開を計画しているという。また,この計画当初からの派遣専門家である小川先生に,ラオス政府は外国人には異例の「功労賞勲三等」を授与し,感謝の意を表している。僕たちはその小川先生に会い,活動している場を実際に見学させていただくことで,少しでも彼女の道筋をたどってみたいと希望していた。
タケクに滞在した2日間,僕たちは小川先生の車でプロジェクトを展開した3つの村を訪問することができた。僕自身は小川先生にお会いするのは2度目だったが,ラオスでみる彼女はいっそうはつらつとして逞しく,自信に満ちた目をしていた。
小川先生がこのカムワン県でめざした保健医療協力とは,住民参加を前提とした活動であった。そのため,先生は県内の全898村落でアンケートを実施した。その結果,村人が2番目に要望していた「初期治療レベルの医薬品」を村に配備することから協力を開始することにしたという。この事前調査は,一方的にニーズを決めつけてしまいがちな,これまでの援助姿勢からするときわめて進歩的であるといえるだろう。
小川先生が強調していた住民参加型プログラムとは,PHC(Primary Health Care)に基づいているという。PHCとは,継続的に保健を定着させるため,住民の自助と自決のもと,総合的な観点から適切なプログラムを立案し,これを普及させていこうという方法論である。このPHCという住民主体の思想が,小川先生を積極的に住民のなかへ入って行かせ,緊密な交流関係を築かせたのではないだろうか。実際,僕たちが小川先生とともに村に入って行くと,住民たちは満面の笑みで暖かく迎え入れてくれた。そしてラオス流の歓迎,つまり地酒のイッキ攻めにあい,僕たちの大半はヘロヘロになってしまった。そのようななかにあっても,村長は小川先生に村の問題点を説明し,解決策を提案しながら支援を要請していた。小川先生の流暢なラオ語と,なにより人間的な魅力は無視できないが,やはりPHC手法がもたらした積極性なのだと感心してしまった。
ただ,小学校の前で教育の重要性を語り,改築のための資金援助を求めていた村長の顔を見ながら,僕はまた,あの既視感に襲われてしまった。
貧しさゆえに高貴なのか
個人の話になるが,国際協力の現場を何度となく行き来していると,人々が支援を要請する場に居合わせることがしばしばある。カンボジアの農村で,「ほれ,見てご覧よ,蚊がこんなに刺すんで,眠れやしない。あんた蚊帳を持ってはいないかい?」と微笑む女性。あるいは,ブータン難民キャンプで「なにもかも失っちまったんだ。世の中には優しい人はたくさんいるのさ。ただ,わしに気がつかないだけさ。お前が来てくれてよかった,まずは屋根の隙間を埋めておくれ」と手を握る老人。すべての顔に卑屈さがなかった。というより,自信に満ちた笑顔に,高貴さすら垣間見えた。
彼らには,日本でイメージするような,被援助者の媚びなど微塵もない。この堂々とした姿勢。こうした顔に覚える既視感の由来について,本当は僕は気づいている。あれは4年前の夏のカンボジア,僕は道行く老僧にお布施をした。長年にわたる内戦の末,なにもかも失った国で老僧は毅然としていた。おそらく彼が所有するのは托鉢と袈裟,そして杖だけであったろう。軽く頭を下げた柔和な彼の笑顔から,高貴さがこぼれて,僕は心打たれた。そして,東南アジアの人々が,かくも僧侶を尊敬しあこがれるのかがかすかに垣間見えた。
東南アジアには,「富める者にはそれなりの理由があり,それだけの業がある。貧しい者にはそれなりの理由があり,それだけに高貴である」とする文化的背景があると感じている。そして,徳の低い者は,徳の高い者に布施をすることで救われようとしている。ゆえに僕は,貧しさをさらけ出し,援助を求める人に高貴さを見出してしまう。では,彼ら自身も援助を求めるとき,モデルケースを僧侶に置いてはいまいか。彼らは援助を受け取るとき,徳の低い国の者が,徳の高い国の者へ布施をしたのだと心の奥底で理解してはいないだろうか。
これが僕の幼稚な上座部仏教への思い入れならばいいのだが,もし,彼らの姿勢が僧侶に由来するとするならば,PHC思想は根底から危機にあると言わざるを得ない。なぜなら,彼ら僧侶に自立を求めることは,すでに矛盾をはらむからである。
とは言うものの,何のために援助するのか,何のために援助されるのか,この根本的なテーゼを,ヒューマニズムなどという幻想にとらわれることなく,互いに議論すべき段階にあると僕は考えている。
まなざしが交わるとき
田舎のバスは,オンボロ車♪
タケクをあとにした翌日,パクセ行きのバスはトラブルの連続だった。舗装がされていない悪路を,トラックの荷台にベンチを並べただけの旧ソ連製のバスは精一杯がんばってはいたのだが,過去の栄光など見る影もなかった。
発車10分後,さっそくスプリングが断裂。でも,何をどうやったか知らないが30分ぐらいで再び発車。それから2時間ぐらいは確かに順調だった。しかし,ちょっとした段差で「シュー」という音とともに左のタイヤがパンクした。幸い予備のタイヤを積んでいたようで,これにつけ替える。しかし日が暮れた頃,右のタイヤがパンクしたことですべては終わった。僕はあきらめてバスを降りた。予備のタイヤはもうないという。自動車のバッテリーにつながれた裸電球が静かにゆらめき,さびれた村の一角を映しだしていた。
お腹がすいていた僕は,なんとか村に食堂をみつけた。それでも,「こんな時間に食べ物はあるのだろうか」と店先で思案して立ち尽くしていると,親父が出てきて,座れとうながす。そして,奥になにごとか怒鳴って,彼はとなりに腰を下ろした。
「どこからきた」
「日本です」
「そうか日本か……」
しばらくして,うどんとサラダが出てきて,飢えた日本人はそれをガツガツ食べた。そんな様子を親父と通りがかりの少女が,食べ終わるまでじっと見ていた。
「旅をすること」とは,「観に行くこと」だけではないと,繰り返すうちに気がつく。旅において「観られに行く」という要素は多分にある。そして,この互いのまなざしの交流のなかに,弁証法的理解がきらめくことがある。これこそが旅の醍醐味ではないだろうか。しかし,残念ながら日本人の傾向として「観る」のは上手いが,「観られる」のは下手だという印象が僕にはある。
よく「観られる」こと
大袈裟な話,国際協力という分野も,やはり,異文化が出会うという意味で,旅の延長線上にあるといえるかもしれない。そして,やはり僕らは「よく観る」ばかりではなく「よく観られ」なければならないのではないだろうかと感じている。
しばしば僕たちは,国際協力を一方的な援助として理解しようとしてしまう。僕は,「国際協力」とはもたれあいの力学だと思う。それが「お節介」と同義語だったにせよ,人はまなざしを向け合わずには生きていくことができないのだろう。
3月23日,僕はパクセへ向けて最後の船旅に出た。日暮れまでには,タイへの国境を抜けられるだろう。今日のメコンは,いままでになく静かである。子どもたちのしなやかな指先が,魚たちのきらめく鱗が,僕の行く道を見守っている。このずっと先には,穏やかな大海が,そっと控えているという。人智の果てを蒼穹へと連ねるメコンを前に,評論家風のコメントを重ねるのは,これでよすとしよう。
(終わり)