第2237号 1997年4月21日


連載 市場原理に揺れるアメリカ医療

【番外編】 ダナ・ファーバー事件(2)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


第2235号よりつづく)

(2)あってはならないことがなぜ……

 サイクロフォスファミドの過剰投与のせいで1人の患者が死に,もう1人が重篤な心不全に陥っているという事実が,ダナ・ファーバー癌研究所(以下ダナ・ファーバー)の所長クリストファー・ウォルシュと臨床部長デビッド・リビングストンに報告されたのは1995年2月13日であった。この日から,原因究明と再発防止に向けて,ダナ・ファーバーの全組織をあげての努力が始まった。
 翌2月14日,患者と家族に対し,抗癌剤を過剰投与した医療ミスの事実が告げられた。臨床部長のリビングストンにとって「長い医師の経歴の中でも最も悲しい」任務であった。遺族にとって,愛する者の死が実は医療ミスの故だったと知ることは,「死なずに済んだかもしれない」,「あんなに苦しんだのはミスのせいだったのか」と,悲しみが新たになるとともに,そこに怒りの感情が加わり,その思いは千々に乱れざるを得ない。
 医療ミスの事実を誰よりも平然と受け入れたのは,過剰投与を受けた当の本人であるモーリーン・ベイトマンだったかもしれない。彼女は,「自分がこれまで苦しい目にあってきた原因がようやくわかった」と納得したのであった。

内部調査と外部調査
 2月16日,ダナ・ファーバーの全職員に事実が知らされた。原因究明と再発防止のため,病院内に調査委員会が設置され,過剰投与に関わった2人の医師と3人の薬剤師は,調査の結論が出るまで臨床業務からはずされることとなった。さらにエール大学癌センター所長ビンセント・デ・ビータ(元米国立癌研究所長)を長とする,外部の識者による調査委員会が設置されることとなった。
 再発防止のための自助努力が続く一方,ボストン・グローブ紙は,3月23日になってこの医療過誤事件を1面トップで報道した。記事を執筆したリチャード・ノックスは,同僚記者リーマンの死が医療ミスによるものであったこと,しかも,そのミスが世界でも最高レベルにあると思われている医療機関で起きたことを,怒りの筆致で記載した。
 ボストン・グローブ紙の報道に,行政当局も即座に呼応した。マサチューセッツ州の公衆衛生,医事,薬事,看護担当各部局が,合同でダナ・ファーバーの緊急査察を行なうこととなった。また,連邦政府の委託機関として公的医療保険の適用資格を審査する医療施設評価合同委員会も,ダナ・ファーバーの評価を「適切」から「条件付き」に格下げした上で,緊急査察を実施することを決定した。ダナ・ファーバーの内部調査,および州当局と連邦関連施設による外部調査が速やかに実施されることになった背景には,「医療ミスを個々の医療従事者の個人的間違いとして処理することは,ミスの再発防止につながらない。ミスが生じた原因を徹底的に究明し,システム自体の欠陥を正さない限り,同じ誤りを繰り返す結果になる」という,厳しくかつ正当な認識がある。
 5月下旬,州当局による査察が終了し,十数点に上る組織上の欠陥が指摘された。州当局が特に問題としたのは,医療の質を恒常的に保証する組織的取り組みが欠如していたということであった。すなわち,医療現場で起こる様々な問題について,それぞれの問題が生じた原因を明らかにし,速やかにその改善策を講じるという「QAP(quality assurance program)」がまったく機能していなかった点である。
 ダナ・ファーバー側は州当局による指摘を全面的に受け入れ,既存のQAPを大幅に改善するとともに,QAPに関する責任体制を明確化した。例えば,「いかに些末なミスであろうとも,薬局で処方ミスを発見した場合,薬局長はその処方ミスが生じた原因を明らかにし,同じミスの再発を防止するための具体的対策を講じなければならない」とし,医療の質を保証するためのフィードバック体制を日常的かつ恒常的に機能させることを明確化したのである。

看護婦の権限を強める
 7月には連邦政府の委託機関である医療施設評価合同委員会の調査が終わった。調査報告では,副作用が初めの2回よりも著しく強いと患者当人が訴えていたにもかかわらず,ケアする側がその患者の訴えを真剣にとらえなかった点が特に問題であるとされた。そして,看護部の管理上の問題点,さらには看護婦の責任が軽んじられているダナ・ファーバーの体制が問題とされた。
 リーマン記者の遺族は,誤処方に関係した医師・薬剤師と病院を相手取って4月に医療過誤訴訟を起こしていたが,被告に看護婦の名が含まれていないことが,他の医療施設の関係者には驚きをもって迎えられた。投与薬剤の量を確認する,疑問を持ったら主治医に連絡をとる,医師と意見が食い違ったら投与を拒否する,というのが看護婦に課せられた義務だからである。看護婦が誰も訴えられなかったのは,ダナ・ファーバーの職務規定ではこういった看護婦の義務が明確に記されていなかったからなのであった。
 ダナ・ファーバー側は,看護婦の権限を強め,患者のケアに当たっては,医師・薬剤師・看護婦三者間での相互チェック体制を取ることを明確にした。また,抗癌剤を投与されている患者については,その副作用の強さに対する患者の訴えの強さを客観的に評価できるようにと,カルテに副作用チャートを設け,症状を項目別に点数で記載するよう改めた。さらに,すべての医師に対し,患者の心理的ニーズをどうとらえ,どう答えるかという講習会に,毎年1回出席することを義務づけたのである。

39の再発防止策
 8月末,ダナ・ファーバーとリーマン記者の遺族との間で法廷外で示談が成立したことが発表された。賠償額については5億円を下るまいといわれているが,正確な額は公表されていない。剖検で癌細胞が発見されなかったこと,患者が強く不安を訴えていたにもかかわらず適切な処置が取られなかったこと,もう1人の患者(ベイトマン)がICUに移送されて命を取りとめたことなど,法廷に持ち込んだとしても到底陪審員の心証をよくすることは望めず,ダナ・ファーバーとしては,はじめから遺族と争うつもりはなかった。
 リーマンの夫ロバート・ディステル(彼自身もダナ・ファーバーの科学者である)は,賠償金で故人の名を冠した乳癌研究基金をダナ・ファーバー内に創設することを発表した。ダナ・ファーバー所長のウォルシュは次のような声明を発表した。「どのような高額な金銭をもってしても患者さんを家族に戻して差し上げることはできないということを,私どもは痛切に認識しています。しかしながら,今回の患者さんのご不幸がきっかけとなって,私どもの施設はもとよりアメリカ中の癌センターでさまざまな改善策が講じられてきました。こういった努力が,より安全な癌治療を患者さんに提供できることにつながるよう,私どもは切実に希望してやみません」
 10月末,ダナ・ファーバーは誤処方事件に関する最終報告を行ない,同時に39に上る再発防止策を発表した。このとき発表された防止策のうち,ここまで触れてこなかった項目には以下のようなものが含まれる。
●レジデント,フェローの指導体制をより充実させる。
●レジデント,フェローによる抗癌剤処方については,指導医の確認を義務づける。
●臨床治験のプロトコールはあらかじめ病院内の委員会で子細に検討し,その実施に先立ってはプロトコールの詳細を看護婦・薬剤師に熟知させる。
●薬局に新たなコンピュータ・プログラムを設置し,上限量を上回る処方を自動的にチェックする。
●新しく開発された検査法を用い,血中サイクロフォスファミド量をモニターする(皮肉なことに,リーマンもベイトマンも血中サイクロフォスファミド測定の治験に加わっており,彼女らの血中サイクロフォスファミド濃度は明らかな高値を示していたのだが,治験を担当していた医師たちは誰もその原因が過剰投与にあるとは夢にも思わなかったのであった)。

この項つづく