第2235号 1997年4月7日


連載 市場原理に揺れるアメリカ医療

【番外編】 ダナ・ファーバー事件(1)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


(1)記者の死

 ベツィー・リーマンは,ボストン・グローブ紙で健康・医療部門を担当する記者だった。難解な医療知識を平明に解説し,病者への同情と共感に満ちた記事を書くことで知られていた。その彼女が,1993年の夏,37歳で乳癌と診断された。
 乳癌と診断された直後の9月8日,彼女は,乳房造影法による乳癌検診をめぐる議論についての記事を書いている。アメリカ癌学会が50歳以上の女性に毎年乳房造影法を受けることを勧めているのに対して,政府管掌高齢者健康保険メディケアは隔年検査の費用しかカバーしていないことの矛盾を取り上げ,では女性が乳癌から身を守るためには一体どうしたらいいのか,ということを論じたのであった。毎年派,隔年派双方の主張を公平に紹介した上で,記事の最後に「健康保険を持たない女性も乳房造影法を受けるための財政的援助を州から受けることができる」と州当局の連絡先を記し,さらに,年齢別の「乳癌早期発見法」を解説した。自身の乳癌に関しては,このときもそうであったが,その後も一度として記事で触れることはなかった。

試験的治療への参加を決意
 彼女は手術の後,6か月に及ぶ化学療法を受けた。しかし,1994年の春,両肺への転移が発見される。彼女は,乳癌に対する最新の治療法に関する情報を徹底して調べた後に,ダナ・ファーバー癌研究所で行なわれていた「大量化学療法および自家幹細胞移植術」の試験的治療に参加することを決意した。
 遠隔転移がある場合の乳癌の5年生存率はほぼ0%であるが,大量化学療法に骨髄移植あるいは幹細胞移植を加えた治療の5生率は20%といわれ,彼女は「一縷の望みに賭けるために地獄をくぐり抜ける覚悟」でこの治験に加わることを決めたのであった。彼女には6歳と2歳になる2人の娘がいた。
 ダナ・ファーバー癌研究所(以下:ダナ・ファーバー)は,1947年にシドニー・ファーバーにより創立され,ハーバード提携医療機関の中でただ1つの癌専門施設である。連邦政府が指定する全米20の地域癌センターの1つであるだけでなく,臨床・研究ともに,世界でも最高レベルとの定評を得ている。ボストン市民にとっては特にジミー基金でなじみが深い。小児癌患者の名を冠したこの基金は,ダナ・ファーバーでの小児癌研究をサポートするためのものであり,市民から集められる寄付金は年12億円に上るといわれている。
 ベツィー・リーマンの夫のロバート・ディステルは,ダナ・ファーバーのテクノロジー管理部門の科学者であり,そのこともリーマンが試験的治療に加わることを決意する要因となったであろう。

2人の患者
 元小学校教師モーリーン・ベイトマンが乳癌と診断されたのは,47歳,1989年のことであった。彼女は手術の後,1年間化学療法を受けた。経過は順調に見えたが,1993年に,肝臓,そして卵巣への転移が発見された。彼女は「(1)何もしない,(2)マイルドな化学療法を続ける,あるいは,(3)自家骨髄移植を前提に大量化学療法を受ける」という選択を迫られ,それまで受けてきた化学療法を嫌悪していたのにもかかわらず,大量化学療法を受ける決意をした。嫌いな化学療法をずるずると続けるよりも,一気にけりをつけたかったと彼女は語っている。
 ベイトマンが治験に加わったのは94年の夏で,リーマン記者が治験に加わったのとほぼ同時であった。ベイトマンとリーマンが初めて出会ったのはダナ・ファーバーの外来である。2人並んで幹細胞移植用の採血を受けていた際に,「あなたが治験症例第3号ね。私が第2号です」と,ベイトマンの不安を和らげるかのようにリーマンが話しかけてきたのであった。「リーマンさんは,何度も何度も先生や看護婦さんに質問なさっていました。そして,その答えをいつもノートにメモしていました」
 2人の治験は順調に進んだ。1994年11月14日,リーマン記者は3クール目の化学療法を受けるべく,ダナ・ファーバーに入院した。ベイトマンが3クール目の治療を受けるために入院したのはその2日後である。リーマンは入院の前夜,いつものように2人の娘にベッドタイムストーリーを読んで聞かせた。夫のディステルは,娘に本を読む妻の姿をビデオに納めたが,それが妻と娘とが楽しく語らう最後になるとは夢にも思っていなかった。

3クール目の異変
 リーマンにとってもベイトマンにとっても,3クール目の副作用は,前2回に比べて著しく激しいものだった。リーマンは「こんなに吐き続けていたら死んでしまう」と看護婦を難詰したという。
 ベイトマンは重篤な心不全となり,呼吸困難・全身浮腫を来すようになった。11月26日,ベイトマンは近接するベス・イスラエル病院の集中治療室(ICU)に転送された。ダナ・ファーバーにはICUがないためだったが,「私ははじめから重い症状が出たのでベス・イスラエルのICUへ移ることができましたが,このことが結果的には自分の命を救うことになりました。リーマンさんは私よりも症状が軽かったので助からなかったのです」とベイトマンは後に語っている。実際,移送20日後12月16日にベイトマンの心臓は一時停止したのだが,ICUでケアを受けていたことが蘇生処置の成功に寄与したであろうことは疑いの余地がない。
 一方,体調の回復は思わしくないものの,幹細胞移植が効を奏し,リーマンの血球細胞は順調に回復した。12月4日に予定通り退院することとなったが,リーマンは自身の体調に自信がないままに退院させられることについて,極度の不安を抱いた。
 退院予定日の前日12月3日午前11時,リーマンは退院の取り消しを相談するためにソーシャル・ワーカーのヘスター・ヒルに電話をし,切迫した声で留守録にメッセージを残した。「電話をしたのは,とてもこわいからです。何かははっきりわからないけれども,何かがとてもおかしいのです」。ヒルがリーマンの病室に電話をかけたのは12時前であったが,誰も電話に出なかった。
 12時15分,病室を訪れた看護婦が心拍・呼吸が停止した状態のリーマンを発見した。懸命な蘇生処置もむなしく,彼女は永遠に戻らぬ人となった。剖検が行なわれたが,癌細胞はどこにも見つからなかった。
 年が変わり,リーマンの死から3か月後の1995年2月9日,治験データの整理を担当していた職員は,リーマンとベイトマンに何が行なわれたかを知り,愕然とした。この2人の患者には,抗癌剤サイクロフォスファミドが誤って4倍量投与されていたのだった。

過剰投与の原因
 リーマン記者と元教師ベイトマンの2人に抗癌剤の過剰投与が行なわれた第一義的な原因は,治験計画書の治療プロトコールの記載があいまいだったことにあった。  誤った処方箋を書いたのは,2年次のフェロー,ジェームズ・M・フォランである。彼は1クール(4日間)の全量4g/m2(体表面積)を1日量と解して処方箋を書いたのであった。リーマンに対する3クール目の治療が開始されて3日目,薬剤師のキャロリン・A・ハーベイは,処方された量があまりにも多いと疑問を持ち,担当医のフォランに連絡を取った。
 フォランとハーベイは,治験計画書を再度検討し,4g/m2というのが治験で計画されている量であろうという結論に達した。もともと,大量の抗癌剤で癌細胞を叩き,骨髄抑制は幹細胞移植でリカバーしようというのが治験の目的だからだろうと結論したのである。確かに20ページに及ぶ治験プロトコールの1ページ目の要約の書き方は,1日量が4g/m2であるとも取れるものであった。彼らがプロトコールの11ページ目を詳しく読んでいさえすれば,そこにははっきりと1日量は1g/m2と指定されていたのだが……。
 2月9日,治験データの整理係から連絡を受けたリーマンの主治医ロイス・アヤシュは実際の処方量を確認するために即座に薬剤部に問合せた。薬剤師のハーベイは,自分が過剰投与を認めてしまったこと,そしてそのことが患者の死につながったことを知って,泣き崩れた。

この項つづく