医学界新聞

ババンスキー徴候発見から100年
神経学と「観察」


岩田 誠氏(東京女子医科大学教授・神経内科)に聞く


 ジョセフ・ババンスキー(Joseph Francois Felix Babinski:1857-1932)が,1896年にフランスでババンスキー徴候の報告を行なってから今年で100年。これを記念して,さる2月22日には,国際シンポジウム「ババンスキーと錐体路」が開催され,(1)ババンスキー徴候の発見,(2)ババンスキー徴候の意義,(3)錐体路の基礎,(4)錐体路の臨床の4つのセッションが盛況のうちに行なわれた。
 本号では,シンポジウムを主催した岩田誠氏に,ババンスキー徴候発見の今日的意義,ババンスキーの人物像などについて語っていただいた。



一 先生はババンスキー徴候の最初の論文が発表された日と同じさる2月22日に,国際シンポジウム「ババンスキーと錐体路」を開催されました。この会を企画した意図を教えて下さい。
岩田 一番大きな理由は,100年後の同じ日に何かやるのは面白いだろうと思ったから(笑)。もう1つは,いま,ババンスキーが何を考え何をやろうとしていたのかを知ることは必要だと思ったからです。
 よく科学の最初の第一歩は「観察」だと言われますが,観察をとことんやったのはババンスキーです。神経学はもともと観察から出てきたという素地がある学問で,それを本当に実践した大事な人がババンスキーなのです。理屈とか何かよりも,問いかけて観察することを徹底してやった人です。そういったことは忘れられてはいけないのではないかと思っています。

ババンスキーと師シャルコー

一 ババンスキーの師はJ. M. シャルコー(1825-93)で,有名なサルペトリエール病院での講義の絵に,他の弟子と一緒に描かれていますね。シャルコーとの師弟関係について聞かせて下さい。
岩田 シャルコーの弟子としては,ババンスキーは少し異例です。シャルコーの他の弟子たちはアンテルヌ(インターン)の時代からシャルコーの弟子だった人がほとんどですが,ババンスキーはたまたまサルペトリエールの病棟医長のポジションが空いていたから来たのです。アンテルヌ時代はシャルコーの友人のヴュルピアンという人の弟子でした。それから,彼がババンスキー徴候の発見などの仕事をしたのはみんなピティエ病院です。ババンスキーがサルペトリエールにいた時代はそれほど長くはありません。
 しかしシャルコーとババンスキーの両方にとってラッキーだったのは,2人とも観察の人だったということです。そういう流れから言えば,ババンスキーはシャルコーの思想そのものを受け継いだ人だと僕は思っています。
 ただ1つ両者で大きく違うところは,シャルコーという人はどちらかというとじっと観察する立場なんですね。例えばシャルコーの書いたものには,歩行状態がどうだとか,姿勢がどうだとか,どういう不随意運動があるなどの記載はたくさんありますが,ここを叩いたら,あるいはここをこすったらどうなったとか,患者の体に問いかけて観察する記載は非常に少ないのです。
 ババンスキーのほうはそうではなく,両方を非常にはっきり観察しています。ですから,臨床的な意味での反射学はババンスキーが確立したものだと言えます。「この腱反射は正常では必ず出る」,「この反射は正常でも出ない場合がある」などをきちんと記載したのはババンスキーです。私たちがいま何気なくやっている反射の検査はほとんどババンスキーに負っているわけです。そのことを誰も知らないのはあまりにも常識になっているからで,それはシャルコーの時代にはなかったことでしょうね。彼はシャルコーのめざしたところをもう一歩進めて,非常にダイナミックに,自然に問いかけて観察をしていたのです。

「観察」とはどういうことか

岩田 しかしもう1つ2人に共通しているのは,仮説を立ててそれを証明するという方法とは違う方法をとったことです。いまの科学の多くは,最初に仮説を立て,それを証明するために何かをするという方法をとっていますね。しかし彼らはそうではなく,何もないところで何かを見つけようとしました。ただ見る,詳しく見るだけなら観察ではない。彼らが本当に考えていた観察とはそういうものではないんです。
一 常に患者に関わりつつ,その中から何かを見出すということでしょうか。
岩田 じっと見ていると何か気がつくわけですね。「あれ?」と思って,そこでもっと観察を進めるという方法です。その点は現代の医学では少し忘れかけているところがある。今回のシンポジウムにはそれを喚起しようという意味もありました。
一 いまはCT,MRIなどいろいろな画像技術がありますね。その影響で,見るべきところを見る「観察」が疎かになっているということはありますか。
岩田 いや,見るべきところを見ないのではなくて,いまは見るべきところしか見ないんです。例えば何かの値がいくつと数字で出ると,その情報はそれ以外のものではないわけです。しかし画像というのは数字で表されるだけではありませんから,見ようと思えば何だって見える。それだけ情報量があるのに,ほとんどの人は数字として表されるようなものしか見ない。要するに自分の知りたいところしか見ていないのです。そうしたら何が表現されていても他のものは全部捨てていくわけですよ。
 見るべきでないところばかりを見なさいとは言っていませんよ。見るべきところはきちんと見なければいけない。患者さんにとって必要な情報は全部診療の中で把握していかなければなりません。しかしそういう意味だけではなく,関係ないところでも,見てみると結構面白いことが見えているわけでね。それをどうやって見逃さないようにするかが大切なのです。
 見逃しても誰かがどこかで見つけると言われればそれまでですが,自分がその誰かになろうと思うかどうかですよね。ババンスキーやシャルコーの時代は,自分で見つけるしかなかったけれども,いまは自分がやらなくても世の中は進んでいきますから。でも「へえ,何でこんなことがあるのかな」と思うことが始まりですよ。

最初の論文は評価されたか

岩田 ババンスキー徴候は,あるかないかという反射ではなく,質的な変化です。普通なら曲がるのに反対側にそっくりかえるという質的な変化ですね。ババンスキー徴候の発見について,どうして彼が足の裏をこすることに興味を持ったかという面白い逸話があるんですよ。
 大部屋ではたいてい病室の両側にベッドが並んでいて,患者さんは通路側に足を向けているのですが,彼は病室に入ると挨拶がわりに患者さんの足の裏をこちょこちょとひっかいていったというんです。すると皆くすぐったがってきゅっと足趾を縮めるのですが,1人だけぐっと反対側に反った人がいた。それを見て変だぞと思ったという記述があります。まったくの偶然。これはババンスキーがそう言ったと弟子が書いているので,嘘かもしれないし冗談で言ったのかもしれません。しかしそういうことがあってもおかしくないと思いますね。
 ババンスキー徴候の最初の記載には,こするのではなく針でつっつく(piqure)と書いてあります。それが,その次に書かれた論文には「つっつく,あるいはこする」と書いてあるから,あとでこするほうが有効だと思ったんでしょうね。
一 その最初の論文,「中枢神経系をおかすいくつかの器質性疾患における……」という長いタイトルのものですが,このポイントをお聞かせ下さい。
岩田 ここで言っていることは,ヒステリーと器質性疾患の人には差があるということです。まさかそれが錐体路などという解剖学的な構造に対応する所見だとは,その時は誰も思わなかったでしょうね。それをこの2年後に,どうもこれは錐体路障害に関係するらしいとわかり,そう考えるとこの反射が起こるか否かがすべての患者で説明できると言っています。
 ですからむしろ,この論文を書いてからのほうが一生懸命に観察したと思います。最初の論文は,たまたま何人かで見つけて面白いと思ってやっていると,かなりはっきりと差が出てきた,「それじゃあもう報告しちゃえ」というので発表したように読み取れますね。28行しかない論文ですからそう長く考えていたとは思えません。
一 この論文が出た当時の反響はどうだったのですか。
岩田 ほとんどないんです。ババンスキーのこの論文の意義を最初に認めたのはヴァン・ゲフヒーテンというベルギー人ですが,それはだいぶ経ってからです。これが錐体路徴候だということがはっきりわかってから,ゲフヒーテンが「自分も追試したら確かにそうだった」と言っている。国内よりも国外の人が先に認めたわけです。フランスではほとんど誰も相手にしなかった。というより重要性がわからなかったのでしょうね。ベルギーで評価されたのが最初で,それがきっかけでババンスキーの名前が世界中に広まったようです。
一 ベルギーで評価されたのは,論文を発表して何年後くらいだったのですか。
岩田 2年後です。1896年に最初の小さな報告をした2年後に,これは錐体路徴候であるということをきちんとまとめましたから,その直後ですね。それであっという間にババンスキーの名前がドイツ,イギリス,アメリカで有名になったのです。その後チャドックなどたくさんのお弟子さんが外国からフランスに勉強に来ています。そういうかたちで広まっていったわけです。

とっつきにくく厳しい人柄

一 ババンスキーは父親の代にポーランドからフランスへ来たのでしたね。出自がポーランドということで,その後のフランスの医学界における評価に何か影響があったのでしょうか。
岩田 それは何とも言えませんが,ババンスキーが非常にとっつきにくい人だったことは確かなようですね。非常に厳しい人で,ちょっといい加減なことを言うと「なに?」って口を出してきて,細かいことでも絶対に妥協しなかったといいます。相手がどんなに偉い人でもどんなに下っ端の人でも,同じように攻撃したと。そういうところは容赦しなかった人みたいですよ。下っ端のときに攻撃されたらたまらないですよね。そういう人は終生恨みを持つかもしれない。
 それからとても疑り深い人で,例えば誰かが「自分の患者でこういう現象を見た」と発表すると,ババンスキーはそれに興味を持てば実際に見に来るというんです。僕が師事していたロンド先生の先生にあたるガルサン先生という人がいたのですが,彼はババンスキーと実際にやりとりがあったそうです。
 そのガルサン先生が学会である反射の話をしたそうです。するとババンスキーが非常に興味を持って,「明日行くからそれを見せてくれ」と言った。ガルサン先生は,明日本当に自分の患者さんがその反射を出してくれるかどうかビクビクしていたそうですよ。結果的にはちゃんと自分が言ったような反射が出たのでホッとして,しかもババンスキーは大変喜んで,大したものだと言って高く評価してくれたそうですが。ガルサン先生も,自分と同じぐらいの若手がこてんぱんにやられるのを何遍も見ていたから,本当におののいていた。そういう人柄のせいもあったかもしれません。
 それから,「ババンスキーに教えてもらおうと思うな」と言われていたそうです。教わったりせずにじっと見ているだけだったらしい。そういう一見かなりクールな,むしろコールドな部分を感じた人が多かった可能性がありますね。ですからポーランド人だからというのではなく,何となく敬遠されてたところはあるのかもしれません。あまり周囲が持ち上げるようなことはなく,本人も持ち上げられることを希望しなかったのではないでしょうか。
 それが本当に彼の性格だったということもあるでしょうが,それだけではなく,彼がポーランド系だったことも関係するかもしれません。政治的な理由で教授資格試験に落とされたなど,社会的な事件の犠牲者だった側面もあるでしょう。いろいろ複雑だとは思います。

兄は有名な料理研究家

一 ババンスキーはパーキンソン病で亡くなったと書いた記述もありますね。
岩田 お父さんはパーキンソン病で亡くなっているのは確かなようですが,本人が本当にパーキンソン病だったかどうかはよくわかりません。証拠はありませんが,晩年の写真を見ると可能性はありますね。
一 その当時パーキンソン病という病気はもうすでにわかっていたのですか。
岩田 パーキンソン病という病名を提唱したのは,師匠のシャルコーですから。シャルコーが,パーキンソン病というのは重要な病気だということを指摘して,みんなに教えたわけです。
 ババンスキーの晩年でむしろはっきりしているのは,非常な鬱状態になったことです。その大きな原因の1つは,亡くなる1年前にお兄さんが死んだことですね。
一 先日のシンポジウムで,ババンスキーのお兄さんが有名な料理の本を書いた人だったと先生が紹介されましたね。初めて知る人も多かったのではないですか。
岩田 お兄さんのアンリ(右上図)は父親と同じ測量技師でしたが,いろいろな国に行っているうちに料理に興味を持ち,料理通になって,アリババという筆名で有名な料理の本を書くまでになったのです。兄弟で共同生活をしていたから,アリババが料理を担当したのではないですか。
 僕が今回のシンポジウムで展示したその料理の本は1928年版で,第5版と書いてありますね。結局それが最終的な版で,1967年と1993年に2度も復刻されたのです。70年ぐらい経っても復刻されるのは異例ですよ。お兄さんの本は約1200ページで,弟のババンスキーの業績集はわずか600ページくらい。僕らは弟のババンスキーのほうが歴史的な役割ははるかに大きいと思うけれども,弟の業績集は,半分の厚さしかないのに1度も復刻されていない(笑)。
一 ババンスキーの墓を写したスライドをシンポジウムで出されましたね。
岩田 彼の墓はモンモランシーという町にあります。日本人は誰も知らなかったし,僕がパリにいた時もフランス人の先生たちみんなに聞いたのですが,「そんなの知らん」と言うくらいでした。
 モンモランシーはパリから30~40kmのところにあり,高台ですから,教会の前のテラスから見ると向こうにパリの街が見える。お墓には父,母,兄,彼と全部入っています。ババンスキー家はもう絶えてしまったんですね。ババンスキーもアリババも独身でしたから子どもはいないし。
 その町にババンスキーのお墓があるのは偶然ではなく,彼は住んだことはないけれども,ポーランド難民を受け入れた町なんです。墓地の一角にポーランド人地区というのがあります。大きな教会の中にもたくさん有名なポーランド人の墓があります。
 また,パリの北の方にはバティニョルという街があるのですが,そこがポーランド人の難民が住んだ地区らしいんですね。ババンスキーの親もバティニョルの近くに住み着いたらしく,兄弟はバティニョルの学校に通っています。特に貧困家庭ではなく,それなりの収入はあったと思いますが,裕福でなかったことは確かですね。

実験者ババンスキー

岩田 その点,シャルコーやその弟子のピエール・マリーはかなり裕福な家庭の出です。ババンスキーは,彼らとは少し違って,もっと庶民的なものを持っていた人らしい。その差が仕事の中にもあるのかなという気はしますね。シャルコーがじっと観察していたというのは,どちらかというと一般の人と距離を置くことにつながるのかもしれません。ピエール・マリーもたくさんの病理の標本を見ているけれども,ホルマリンの中のものを外から見ていて,決して触らなかったと聞いています。臭いも嫌だから蓋をしたままで観察したと。
 おそらくババンスキーはそうではなかった。だから他人の足でも平気でこすることができたのではないかなと僕は感じているけどね。僕がババンスキーに非常にアフィニティーを感じているのはそれなんです。ピエール・マリーやシャルコーはとても重要な人だし尊敬はするけれどもね。
 ババンスキーの時代は,まず青年時代に普仏戦争があってこてんぱんに負けて,しかし第三共和国でやはり俺たちは偉いんだと思っていた矢先に,第1次大戦があってまたペチャンコになるわけですよ。まず疑いを持って「それは本当か」と言って見にいくというババンスキーの態度の後ろには,時代背景もあるのではないでしょうか。そういう意味で非常に庶民的な感覚を持っていた人ではないかと思いますね。
 シャルコーの場合は,本当の意味での静的な観察です。ババンスキーはそこにはとどまっていずに,叩くとかこするとかの負荷をかけた,ある意味で実験者です。そういう実験者としての役割ははっきりと自分で自覚していたのではないでしょうか。そういう意味で僕は,ババンスキーはシャルコーのステップをもう1つ進めたと理解しています。
 シャルコーとババンスキーの間には大きな飛躍があり,シャルコーの時点では実験されていなかったことをババンスキーはものすごい勢いで築き上げたんですね。その1つの現れがあの反射学であって,その中で最も彼の名が残ったのがババンスキー徴候だったと言えるのではないでしょうか。

「中枢神経系をおかすいくつかの器質性疾患における足底皮膚反射について」

   J.ババンスキー(1896年2月22日開催の生物学会報告より)

 私は,中枢神経系の器質性疾患による片麻痺あるいは下肢単麻痺を呈するかなりの数の患者において,足底皮膚反射の異常を観察したので,ここにそれにつき簡単に述べる。
 足底を針でつつくと,麻痺のない側では,正常者で通常見られるのと同じように,骨盤に対する大腿の屈曲,大腿に対する下腿の屈曲,下腿に対する足の屈曲,そして中足骨に対する足趾の屈曲が誘発される。麻痺側では,同様の刺激によって,骨盤に対する大腿の屈曲,大腿に対する下腿の屈曲,そして下腿の対する足の屈曲が生ずるが,足趾は,屈曲する代わりに中足骨に対する伸展運動を生じる。
 このような足底皮膚反射の異常は,発症後数日しか経っていない新鮮な片麻痺症例でも,数か月を経た痙性片麻痺の症例でも,同じように観察された。このような異常は,随意的には足趾を動かすことのできない患者でも,また,足趾の随意運動が未だ可能な患者でも,確認することができた。しかし,このような異常は,いつも見られるというわけではないことをつけ加えておかねばならない。
 足底を針でつついたときに生じる足趾の伸展運動は,脊髄の器質性病変による何人かの対麻痺症例においても観察された。しかし,このような症例においては,比較対照部位がないため,異常の実態はあまり著明ではない。
 要約すると,足底の針刺激によって生じる反射運動は,中枢神経系の器質性疾患によると思われるような下肢の麻痺においては,すでに知られているように,反射の強さが変化するだけでなく,反射の形態も異常となるのである。    (訳:岩田誠)