生きることは尊いこと
いのちをみつめた闘病と介護の日々

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16歳で膠原病(皮膚筋炎)と診断された著者が、地道なリハビリやさまざまな症状との折り合いをつけながら、パーキンソン病の父を介護して看取った闘病・介護記。著者や周囲で支えとなった人たちの前向きでひたむきな姿の描写は、患者・介護者の気持ちはもちろん、医療系学生や医療者に「気づき」を与える場面が豊富かつ臨場感をもって展開される。今後求められる“助け合う”介護についても示唆深い。
岡西 雅子
発行 2012年03月判型:四六頁:256
ISBN 978-4-260-01597-4
定価 1,980円 (本体1,800円+税)

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はじめに

 人生をすっぱりと横に切断するような出来事が自分の身に起きると、人はそこを基点として物事をとらえていくようになる。戦争体験が分水嶺となる人もいるだろうし、結婚を起点とする人もいるだろう。「これは戦争がはじまる二年前のことだった」とか、「結婚した翌年だったなぁ」というように。
 私にとってのそれは、一九六一年、十六歳。膠原病を発病した年である。病気を境にして私の生活は一変した。体が存在することなど意識もせずに過ごしていたのに、発病以後、体はつねに私をしばるやっかいなものになった。走ることも、跳ぶことも、しゃがむこともできない。とりはずすことのできない重い鎧(よろい)をいつも身にまとっている感じである。
 鎧を背負ったまま五十年も過ごすと、それが常態となり、健康な体の感覚を思いだすこともなくなった。長い歳月のあいだには、母の死があった。父の病気があり、その介護があった。よくぞあの隘路(あいろ)を通り抜けてこられたものだ、としみじみ思う。
 母が亡くなったあと、父と私はたがいの体を気づかいながらひっそりと暮らしていたのだが、それぞれの病気が悪くなると、ふたりだけで生活するのは容易ではなくなってきた。どうしても人の助けが必要になる。いまとはちがい、介護保険制度もない時代。社会は好景気に沸きたち、人手はつねに不足していたから、在宅の病人を手助けしてくれる人を見つけるのは困難を極めた。病人は病院か施設にはいればいい、というのがごくふつうの考えかただった。
 それでも、父と私は家での生活をつづけた。そこには、じつにたくさんの人びとの手が差しのべられ、その手にすがるようにして私たちは長い在宅での療養をつづけることができた。まだボランティアの概念さえ人びとのなかに根をおろしてはいなかったのだが、父と私の困り果てたさまを見るに見かねて手を貸してくださったのだった。身内でもないかたの好意に甘えてしまってよいのだろうか。迷いながらも、差しだされた手につかまって荒海を渡ってきた。
 手伝ってくださった人の多くは高齢のかたたちである。もう、ほとんどのかたが亡くなられた。私は、じゅうぶんに感謝の気持ちを伝えたのだろうかと、いまになって思う。手もとには、丹念に書き記した何十冊もの日記帳がある。読みかえしてみると、どの局面をとってみても、もしこのかたの助けがなかったら、私たちの生活は成りたたなかっただろう、と思うことばかりだ。ひとりが欠けても崩れてしまいそうな危うい日々。そこに、なんとたくさんの愛情がそそがれていたことだろう。なんと誠意をつくした援助をいただいたことだろう。おひとりおひとりに「ありがとうございます」と頭を下げる思いで、たどってきたさまを書きつづってみようと思う。父との綱わたりの生活を中心に。まず、私の病気のことから書きはじめてみる。

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 はじめに

I 皮膚筋炎
 発病
 入院
 皮膚筋炎
 再入院
 若い日々
 母の死
 寝たきりに
 「神さま、助けてください」
 家に帰る
 自分の足で
 病気の再燃、また腰が……
 《生きることは尊いこと》
 家での療養生活
 死に傾く心
 「小菊」
 「私になにをしてほしいのか」

II 力の限り
 パーキンソン病
 父のこと
 春が来て
 きびしい夏
 新しい介護体制で
 経管栄養
 外を歩く
 再び経管栄養
 老人パワーに支えられて
 父の介助をする
 もしも私が倒れたら
 一瞬……
 車椅子の散歩
 『コッホ、そのひととなり』
 ついに臥床

III 生きることは尊いこと
 臥床の介護
 浅野さん
 リハビリテーション
 「マーコはどこに行った?」
 「黙ってそこに立っていて」
 思いがけない出来事
 リフター
 「もういいよー」
 感染症
 最期のとき

 おわりに

 付 闘病・介護年表

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人生を生きるとはどういうことかと考える機会に
書評者: 島尾 忠男 (結核予防会顧問)
 御尊父は高名な結核専門家であり,晩年には医学史的な観点からのご寄稿を結核予防会も何度か頂戴し,ご逝去後は長年にわたり蒐集された結核関連の切手を結核予防会にご寄贈くださった。それを頂戴しにご自宅に伺い,雅子さんにもお目にかかる機会があり,ご自身ご不自由の中をパーキンソン病に悩むお父上を長年在宅で介護されたことは承知していたが,今回ご著書を拝読して,自らが難治疾患である膠原病との長年の闘いを続けながら,というよりは共生しながら,お父上を在宅で介護された,凄まじいとしか言いようのない生き様に圧倒された。お父上にも何度か苛立った対応をしながら,すぐにそれを反省し,介護に戻られるのは,悟りきった聖人に近い心境であろうか。それが雅子さんの周辺に多くの素晴らしい方々が集まってくる契機となったのではないだろうか。往診をいとわず,最善の治療と処置をしてくれた家庭医,牧師さんご夫婦,泊まり込んでお父上の在宅介護に協力してくれた方々,在宅介護がかなり進んだ今日でも,このようなチームの誕生は考えられない。

 慢性疾患に罹患することは,人間を,そして人生を,深く考える良い機会となる。一昔前の結核の療養はその典型的な一例であり,若者に多かった結核患者が,生命の危険に曝されながら,人生について,人間について考える中から,多くの優れた文芸作品や芸術が生まれた。膠原病も難治の慢性疾患であり,免疫学の研究がこれほど進んできても,自身に対する過剰な反応を制御する方法は,十分には解明されていない。ステロイドは過剰反応を抑える有力な手段であるが,副作用が避けられない。2回もほとんど動けない状態で長期間入院された雅子さんが,ご自分で歩くことができ,父上の介護もある程度可能になるまでに回復された背景には,強い意志でつらいリハビリに取り組んだ努力があった。これらの経験を読むことによって,同じ病に悩む者が大いに勇気づけられるであろう。

 パーキンソン病も慢性の難治疾患で,起伏はあるが徐々に進行する。その経過中に,オンオフ現象があることを,初めて勉強させていただいた。岡西先生があれだけのご病状を抱えながら,できる限り生きる道を選ばれたのは,原稿執筆への思い,そしてそれを筆耕された雅子さんの協力があったからできたことであろう。

 評者は東大医学部1年生のときに,雅子さんの母方の祖父である宮川米次先生の寄生虫学の講義を受けたことがある。旧帝国大学の医学者を代表するような方であった。筆者も岡西先生と同じ結核を専門領域に選んだが,結核予防会に勤めたため,直接ご指導を受ける機会はなかった。若いうちはともかく,年を取って結核の歴史にも触れるような原稿を書く機会も増えたが,その際に参考になったのが岡西先生の多くのご著書であった。縁あって雅子さんの著書を拝読させていただき,あらためて人生を生きるとはどういうことかと考える良い機会を与えていただいたと思っている。

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