第2483号 2002年4月22日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第3回

Malpractice Crisis(医療過誤危機)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2481号よりつづく

 前回(2481号)は,医療過誤訴訟の数が増え賠償金も高額化を続ける状況の下,「過誤保険は商売として成り立たない」と,過誤保険を運営する保険会社が市場から撤退してしまったことが原因となって,ネバダ州で医療危機が起こったことを紹介した。医師や病院が,保険会社の撤退のせいで医療過誤保険にアクセスできなくなったり,保険料の高騰で過誤保険が購入できなくなったりすることを「Malpractice Crisis(医療過誤危機)」というが,ネバダ州ほどではなくても保険料の高騰は全米的な現象であり,1970年代中期(第1次),80年代中期(第2次)に続き,現在,米国の医療界を第3次のMalpractice Crisisが襲っているのではないかと言われている。

米国医療界は医療過誤危機にどう対処してきたか?

 医療過誤訴訟の件数の増加と賠償金の高額化は日本でも着実に進行しており,いずれ日本にもMalpractice Crisisが襲う日が来ないとは限らない。将来起こり得る日本での危機に備えるためにも,米国医療界がMalpractice Crisisに対してこの四半世紀の間にどのように対処してきたのかを振り返ってみよう。
 Malpractice Crisisを防ぐために,米国ではさまざまな実験的施策が試みられてきたが,これまでもっとも効果を上げてきた施策は,医療過誤の賠償金に上限を設けるなど,法律で過誤保険の保険料の高騰化を防ぐという方法であった。
 法律で過誤保険の保険料高騰を防ぐという方法が最も成功した例はカリフォルニア州であるが,同州が,この方策を採用した歴史は古く,75年に始まった第1次のMalpractice Crisisの時に,直ちにこの方法を採用している。

医療過誤保険料が1年で5倍に
医師たちはストライキに突入

 訴訟件数と賠償金額の増加により,カリフォルニア州では,60-74年の間に医師が支払う保険料は550%(年平均15%),医療過誤の賠償支払い金額は,1800%(年平均20%)と,もともと医療過誤保険負担は長期漸増傾向にあった。しかし,75年に保険会社が軒並み市場から撤退したために,保険料が74年の5倍に増え,今回のネバダ州と同じく,医師や病院が過誤保険に加入できなくなるという事態が出現したのだった。
 75年5月に入ると,州北部の麻酔科医がMalpractice Crisisに抗議するストライキに入ったことがきっかけとなって,州の各地に医師のストライキが広がった。州民の医療へのアクセスが障害される事態に,州知事のジェリー・ブラウンはカリフォルニア病院協会・医師会の両会長を招いて,事態打開の道を探ったが,その間,知事室の前では医師たちによる座り込みが行なわれた。一方,カリフォルニアで始まった医師のストライキは,ニューヨーク,ペンシルバニア,イリノイ,フロリダと,全米規模で拡大した。

医療へのアクセスを守るために州議会が立法

 ブラウン知事はMalpractice Crisisに対処するため,州議会に特別審議開催を要請した。議会は,州民の医療へのアクセスを保証するために,医療過誤訴訟を他の民事訴訟と区別して扱うことを骨子とする医療被害補償改革法(Medical Injury Compensation Reform Act,MICRA)の成立に動いた。同法の最大の眼目は,精神的苦痛など非経済的損失に対する賠償金の上限を25万ドルとし,賠償金の高額化に歯止めをかけることにあった。
 賠償金額に上限を設ける一方,弁護士報酬の割合を賠償金額が増えるにつれて漸減するとし,過誤の被害者により多くの賠償金が渡るようにという配慮がなされた。また,賠償金の分割払いを認め弁護側の財政負担を軽くするなど,一見,医師・病院の立場に手厚く配慮した法律となっているが,Malpractice Crisisで患者の医療へのアクセスが損なわれては元も子もないという考えがその根底にあったのである。

最高裁がMICRAを合憲と判断

 弁護士団体はMICRA成立に猛反対したが,世論は「医療へのアクセスを守ることのほうが重要」という医師・病院団体の主張を支持し,75年9月,MICRAは州上院で60対19という大差で可決された。その後,医療過誤だけを他の訴訟と区別して特別扱いする法律は違憲との主張について,MICRAの正当性を巡る議論が法廷の場で続けられたが,84年,カリフォルニア州最高裁がMICRAは合憲との判断を下し(最高裁判事7人の判断は4対3と割れた),MICRAは晴れて正当の法律とのお墨付きを与えられることになったのである。
 前回,ラスベガスの診療オフィスを閉じて過誤保険の保険料が安いカリフォルニアに引っ越す医師が続出したと書いたが,カリフォルニア州の過誤保険の保険料が安いのは75年の第1次Malpractice Crisisの際に制定されたMICRAの存在があるからに他ならない。MICRA成立後の76-94年までの間に,全米の医療過誤保険料は12億5千万ドルから60億ドルと5倍近くに増えたが,同期間,カリフォルニアの過誤保険保険料は3億ドルから6億ドルと,2倍にしか増えなかった。
 カリフォルニアの例に倣い,法律で賠償金の額に何らかの上限を設定する州は現在20を超えているが,アラバマ,カンザスなど,法律を制定したものの賠償金の上限を法律で規制するのは違憲と法廷で判断された州も7州ある。州によって医療過誤訴訟をめぐる法体系と実状は大きく異なっている。