第2448号 2001年8月6日


〔座談会〕

タッチとヴィジョン

感覚-世界を理解するためのシステム


岩村 吉晃氏
(東邦大学名誉教授・
神経生理学)

セミア・ゼキ氏
(ロンドン大学教授・
神経生物学)

山鳥 重氏
(東北大学大学院教授・
高次機能障害学)


山鳥 本日は,触覚(体性感覚)研究の世界的権威でいらっしゃる岩村吉晃先生と,視覚研究の世界的権威でいらっしゃるセミア・ゼキ先生にお話をうかがいます。
 岩村先生は,先日『タッチ』(医学書院刊)というご著書を出版されました。この本は非専門家にとっても理解しやすく,しかも包括的な内容です。
 一方,ゼキ先生は,視覚に関して優れた著書をご執筆されています。『A Vision of the Brain』(邦題『脳のヴィジョン』,医学書院刊)や,評価の高い著書『Inner Vision』も,現在邦訳の作業が進行中であるとうかがっています。
 さて岩村先生,「タッチ」,「触覚」,「体性感覚」という言葉はどう違うのですか。
岩村 「タッチ」と「触覚」はほとんど同義です。「タッチ」も「触覚」も能動的,あるいは触るという行動の側面を含みますが,「触覚」は狭義には,受動的な状況で皮膚表面に加えられる触刺激で起こる限定された感覚をさします。そこで,狭義の触覚と受け取られるのを避けたい時には「タッチ」を使っています。「体性感覚」は,視,聴,味,嗅,平衡などの特殊感覚ならびに内臓感覚を除いた感覚,すなわち触,痛,温度などの皮膚表在性感覚と,筋覚,関節覚などの深部感覚をさす言葉です。タッチあるいは広義の触覚には,皮膚感覚のみならず深部感覚の受容器も関与します。

タッチとヴィジョンの共通性

山鳥 私の考えでは,視覚と触覚にはそれぞれの特異性だけでなく,互いに共通性があると思うのですが,そのあたりはいかがでしょうか。
ゼキ 強調したいのは,両者には違いよりも類似性のほうが大きいことです。なぜなら,視覚も触覚も同じ機能,つまり,世界に関する知識を提供するためのものだからです。多くの場合,視覚によって得られる情報はタッチによって確かめられます。逆にタッチにより得られた情報は視覚により確認されます。心的過程が大変似ています。両者はたまたま情報の収集方法が違うだけなのです。もちろん顔の表情のように,視覚でないと得られない情報もあります。しかし,これから議論を進めていくうちに,両感覚系が脳で組織化されていくさまに,大変多くの類似点があることがわかるでしょう。
岩村 おっしゃる通りです。もちろん両感覚の役割には違いがあります。視覚は遠くの事象を,触覚は身体に直接接触する事象を扱います。しかし両者の中枢機構には類似点が多く,しかも中枢での統合の最終段階で両者は一緒に働き,世界についての知覚を完全なものとします。ちなみに現在,異種感覚の統合と協調は脳研究のトピックスになっています。
山鳥 つまり,タッチとヴィジョンは世界を理解するための相補的なシステムということですね。
ゼキ 2つの感覚が世界についての知識を得るやり方には確かに違いがあります。しかし両者は世界についての知識を得るという共通の目的を持っています。色のように,視覚でしか得られない知識があり,テクスチャー(手ざわり)や温度のように,タッチでしか得られない知識もあります。温度は眼で見ることができません。
山鳥 その基本的な違いは何ですか。
岩村 機械受容器と光受容器というように,受容機構がまったく異なります。
ゼキ 私は類似点をもう少し強調したいと思います。例えば「グラスを見る」。グラスは距離や明るさによらず常にグラスです。恒常性があります。同じようにグラスに触る時,サイズやテクスチャーによらずグラスだとわかります。言いかえれば,「概念の形成」という類似性があります。2つの感覚は,根本的に違いより類似性のほうが大きいのです。
 例えば英語と日本語は,異なる言語ですが共通性がある。どちらの場合も脳の言語中枢を使い,どちらにも文法があり,構文にきまりがある,という具合です。
山鳥 タッチには固有感覚が関係しますね。身体運動の知覚です。このあたりは,視覚とは性質が違わないでしょうか。
岩村 ご質問に答える前に,2つの系をわれわれはどのくらいよく理解しているかについて一言。もちろん視覚のほうがよく調べられています。タッチのほうは定義にあいまいな点があります。
山鳥 タッチを一言で定義するのは難しいわけですね。
岩村 例えば固有感覚は広義にはタッチに含めてもよいのですが,タッチを表在感覚だけとするなら含まれません。この種の混乱はまだあります。わかっていないことが多いからです。
山鳥 ところで,タッチで確かめることなく,視覚だけで世界を定義することは可能でしょうか。
ゼキ 顔の表情や色はタッチではわかりません。
山鳥 形はいかがですか。
ゼキ タッチで確かめる必要がありますね。

感覚を失った時

岩村 あるものが何かを決める場合に,視覚は必須です。視覚があって初めて確かになる,あるいは視覚のほうが容易であることが多いです。
山鳥 しかし,視覚のない人も幸せに暮らせますが。
岩村 彼らは多くの重要なことがらをなしですませていると思います。
ゼキ そうです。しかし視覚があって,タッチの感覚を欠くとしたら毎日の暮らしは不毛でしょうね。
岩村 生きてはいけないでしょう。
山鳥 そうです。これは重要な差違です。
岩村 タッチは,運動のコントロールにより直接的にかかわっています。先天的にタッチの感覚をまったく欠く人がいるという報告があるかどうかは知りません。ただ,先天的に痛みを感じない人はいて,生体への警告システムを欠き,大変深刻なことになります。
ゼキ いずれの感覚あるいは感覚のあるサブモダリテイ(下位感覚)を失っても困難な状況になります。例えば色の感覚を失うとどうなるか。まったく色のない世界です。当事者にとっては情けなく,腹立たしい。これは実際に失ってみないとわからないことです。
山鳥 視覚のない生活は想像できますが,触覚のない生活は想像できません。この点はいかがですか。
ゼキ これは岩村先生が言うべきかもしれませんが,1つの例を申しましょう。梅毒,脊髄瘻の場合,完全とは言えませんがタッチが失われます。この患者が歩くところを見ればわかりますが,彼等は感覚のすべてを失ったわけではないのにも関わらず,うまく歩けないのです。
山鳥 彼らはどんなふうに感じるのでしょうか。
ゼキ 彼らは突如感覚を失ったことを嘆きます。感覚入力がないので運動の調節ができないのです。
岩村 これは古くから神経学の重要なテーマの1つで,多くの研究があります。『タッチ』にも詳しく紹介しました。その種の障害は,もちろんある程度は視覚で代償できますが,限界があります。

■脳が世界を再構成する

視覚の3法則

山鳥 ゼキ先生は「Brain」にお書きになった大変重要な総説(Zeki S & Lamb M:The neurology of kinetic art. Brain ; 117:607-636,1994)の中で,「視覚の3法則」を提唱しています。これを解説していただけますか。
ゼキ かつては,世界のイメージは写真のように網膜に焼き付けられ,脳がそれを解釈すると一般に信じられていました。しかし過去50年の間に明らかになった実験結果から,それは間違いであることがわかりました。
 すなわち,第1の法則は,視覚に関係する脳は,受動的な観察者ではなく,能動的に世界を構築するというものです。そのはずであると信じる理由があります。視覚世界の知識を獲得する時に気がつくのは,世界は固定したものではないということです。すべてが刻々変わっていきます。そこで脳は積極的に不要な変化を捨てている,あるいは除いています。脳は刻々と受け取る巨大な量の情報から事物の重要な性質を抜き出し,心に留めるのです。情報の量は多すぎます。事物を分類しカテゴライズし,知識を獲得するために必要なものだけを取り出すのです。だから網膜に映るイメージというのは誤った概念です。
 次に,脳が視覚像をどう構築するのかが問題です。初期の解剖学は,これを1つの領域が行なうとしましたが,その後,機能的に異なるいくつかの領域があることがわかりました。脳が用いるロジックは,色,形など違う属性をそれぞれ違うところで処理するというものです。顔や表情などもこれを逐一違うところで処理します。
 例をあげると,色の変化の時間経過を処理するのに必要な要件と,ものの動きを処理するための要件とはだいぶ違います。動きでは空間の異なる2点を次々に見ますが,色の場合には,違う2点における波長成分を同時に見なければなりません。したがって,時間に対する要請が違います。これは,脳が違う属性を処理するのに,なぜ違う部位を使うのかを知る手がかりの1つになります。

視覚意識は分散している

ゼキ もう少し話を進めて,第3の法則を追加しましょう。視覚中枢はいくつかの異なる脳部位に分かれていて,それぞれ視覚の異なる属性を見るために特殊化しています。「見る」というのは「知覚する」ことであり,「知覚する」というのは「意識する」ことですから,視覚意識は1か所に局在しているのではなく,複数の異なる場所に分散していることになります。
 このように意識の系は「分散系」(distributed system)なので,ある視覚的属性が他の属性より早く気づかされる(意識される)ということが起こります。
 例えば,色は動きに常に先行しており,80msecほど早く意識されます。動きが意識される前に色が意識されるのは,時間に関して両者の間にハイアラーキー(階層性)があるということです。つまり,意識は空間的のみならず,時間的にも分散しているのです。ところで,この空間と時間に関して分散しているということは,視覚系が特殊な機能系であり,視覚の様々な側面が別々の部位で処理されている,という視覚系の構成を反映しています。同様のことは体性感覚系にも当てはまるのではないかと思います。

体性感覚系も分散的

山鳥 岩村先生,この3法則はタッチにもあてはまると考えてよいでしょうか。
岩村 これらの法則は基本的にはタッチにも当てはまると思います。体性感覚には「触」,「温」,「冷」,「痛」の4つの異なるサブモダリティがありますね。例えば有名な「Headの2元論」で,「触」と「痛」とが違うシステムによるという仮説です。この考えに基づいて,体性感覚の中枢は分散的に構成されているという考えができました。最近,脳イメージングにより,痛み,かゆみなどを処理する中枢が調べられました。これらの活動は,どれをとってもさらに脳内の数か所に分散していることがわかってきました。痛みには,知覚と情動の両面があり,それぞれ違う脳部位で処理されているようです。
 しかし,タッチ系では,この他にはどんな属性がどのように処理されているかは,最終的にはまだわかっていないのです。タッチの中枢は,視覚の中枢ほどよく調べられていません。これは体性感覚の研究者が少ないこと,しかも彼らも体部位の局在的再現地図(体性感覚中枢に顔,頭,上肢,体幹,下肢の順序で体部位が再現されていることを示す地図)を描くことから抜け出せないでいることが理由です。
 実はその大きな理由の1つは,体性感覚の中枢研究では「サブモダリティの分散再現仮説」がマウントキャッスル(体性感覚研究の世界的権威)らによって強く主張され,これが学会を長く支配していたことです。
 体性感覚中枢も視覚中枢に似て,解剖学的にいくつかの領野からなっています。例えば中心後回は細胞構築学的に3,1,2野に分けられています。「分散再現仮説」では,3野は触圧覚の投射を受け,2野は深部感覚の投射を受け,1野はその両方という図式になっていました。
 しかし解剖学的には,3野は視床からの入力の大部分を直接受けるところで,1,2野は皮質結合を介して3野あるいは1野からそれぞれ投射を受けることがわかってきました。

タッチは能動的な知覚系

岩村 われわれの研究で,3野は視床からの投射を受けるが,1野と2野はその前の段階で処理された情報を受け取り,より高次の情報処理をすることが生理学的にも明らかになりました。
 つまり,第一体性感覚野での情報処理のしくみに階層性があることがわかったのです。このことは視覚野では当然のことでしたが,先述の理由で,体性感覚野ではこのことを言う研究者はごく少数でした。われわれは階層性の原理に基づいて,皮質領域をさらに機能的にどう区分けするかについても模索しました。確かに違う場所には,機能の異なるニューロン集団がいろいろな部位に存在しているようです。例えば,あるニューロン群は対象に触って認識することにかかわっている,別の群は手の運動そのものにかかわっている,というようにです。また別の群は対象の触覚的特徴,エッジの存在とか手触りの違いに反応します。
 今後もっと調べなければいけないのは,第二体性感覚野です。この部位はタッチの情動的側面により直接関与していると思われます。これはいかにもタッチらしいユニークな側面です。
 それから,タッチも視覚同様に能動的な知覚系です。例えば,手は情報を能動的に収集する器官です。大脳皮質の手の領域を見てみると,能動的活動を反映する構成があります。これが私たちの研究成果であったわけですが。
 ところで色と運動の間に,時間に関しても階層性があるという先ほどの指摘は大変おもしろいですね。体性感覚でも,痛みでは「速い」痛みと「遅い」痛みとありますが,伝導速度の違いで説明されています。

視覚の基本属性

山鳥 ゼキ先生は,視覚の基本属性に色,形,動き,深さを考えていらっしゃいますが,これですべてなのでしょうか? もっとあるのでしょうか。
ゼキ 視覚の属性はまだ他にもあると思います。顔はその1つです。私はいま顔の問題に取り組んでいます。
山鳥 そうですね。先生はずっと「顔」を強調されています。顔の情動面にですか。
ゼキ 情動面にも他の面にもです。しかし,確かに情動面のほうが多いようです。表情というのは巨大な情報を提供します。しかも大事な情報ですから,脳の広い領域がこれに捧げられています。動きの情報ももちろん重要ですが,もっとも重要な情報は,意外に限られているようです。
 先ほど,岩村先生のお話にありましたが,体性感覚野の詳細がわかっていなかった理由の1つは,多くの研究者が視覚野のほうを調べているからです。視覚のほうが刺激を特定しやすいからです。
 タッチは刺激の仕方が難しい。しかし,過去25-30年の間にわかってきたことは,両者間の強い類似性です。何がいったい似ているか。第1に,どちらも能動的な系であること,第2に,どちらにも複数の領域があることです。体性感覚系のほうが未知の部分が残されているかもしれませんが,原理的に複数の感覚野の存在は疑う余地はありません。第3に,どちらの系にも階層性があります。視覚系は色の系,動きの系など並列するいくつかの系で構成されていますが,それぞれに階層性があり,いろいろな段階でのニューロンの性質について見られるし,受容野の大きさについても見られます。体性感覚野と同じです。岩村先生の研究では,3野ではニューロンの受容野は小さいが,1,2野にいくと大きくなる。この3野から1,2野への,ニューロン受容野の大きさの変化は,V1からV5へと受容野が変わるのと同じ種類のものです。
 第4の類似点は,私の見解ではおそらくもっとも顕著で興味深いものですが,単一ニューロンの反応の刺激特異性です。視覚系ではニューロンが特別な形に反応することはよく知られています。体性感覚系でもタッチによる形に反応するニューロンがありますね。しかし同じ刺激でも,もしそれがサルの身体に属するものだと反応しないのがあり,区別ができます。
 このように2つの系の類似性は大変大きいのです。言ってみれば類似性がないほうが不思議です。なぜなら,先ほど両者はともに知識を獲得するためのものだという哲学的な立場で話をしましたが,その意味で両者は同じように構成されていなければならないのです。

タッチの基本属性と固有感覚

山鳥 岩村先生,タッチの基本属性はどれくらいありますか。
岩村 ご存知のように,体性感覚系には,触覚,温度感覚,痛覚,固有感覚があり,さらにかゆみ,くすぐったいなどの特別な感覚といったものがあります。これらの感覚に特異的な大脳皮質部位を探す試みがなされてきました。
山鳥 固有感覚(proprioception)について説明していただけませんか。よく使われていますが,意味があいまいなので。
岩村 「固有感覚」という言葉はシェリントン(イギリスの神経生理学者)の造語で,彼の定義は「自分自身の身体の動きで生じる感覚」ということです。
山鳥 運動感覚は固有感覚に属しますか?また動きの感覚は。
岩村 運動感覚には,(1)四肢の動きの感覚,(2)四肢の位置の感覚,(3)筋の力の感覚,努力感,重さの感覚などがあります。運動感覚の生起には筋や関節など,いわゆる固有感覚受容器の活動だけでなく,皮膚受容器も関与します。また中枢からの運動指令も関与します。シェリントンは運動感覚への皮膚や中枢の関与を否定したそうです。したがって,シェリントンによれば運動感覚はすなわち固有感覚になりますが,これは正しくないと思います。
山鳥 体性感覚系のほうが視覚系より複雑と考えてよろしいですか。
岩村 より複雑とは言えないかもしれません。しかし,体性感覚系には未知の部分が多いので,ややこしい感じがするのです。
ゼキ 違いはありますが,体性感覚系のほうが複雑だとは思いません。視覚にせよ,あるいはタッチにせよ,神経系が形をどう認識するかを理解することは大変難しいことです。色の感覚はたまたま大変やさしかった。なぜなら,自由度が長波長光,中波長光,短波長光,それと強さとたった4つですから。しかしこれに比べて,形は大変違う構成になっている。複雑さは大体似たものです。
山鳥 複雑さは同じということですね。

■知覚の階層性

視覚の階層性とカテゴリー化

山鳥 知覚に必要ないくつかの基本的なカテゴリーが,視覚にも触覚にもそれぞれ存在することや,知覚には階層性があることをうかがってきました。では,カテゴリー化(範疇化)と階層性とはどのように結びつければよいのでしょうか。
ゼキ 視覚世界が階層的に分析されるというのは,知覚がそもそも比較によって成り立つことからもたらされたことです。常にある場所と他の場所とを比較する必要がある。これは視覚では確かですが,タッチでも同じだと思います。視覚系で行なわれていることは,複雑さは段階により違いますが,階層性の各段階で物事をカテゴリー化するのです。そして脳の階層性の高いところに障害が起こると,患者はより低いレベルでの能力に基づくカテゴリー化しかできなくなります。あるレベルが壊れれば,それより前のレベルが唯一カテゴリー化可能なレベルになります。しかしそのより低次のレベルでのカテゴリー化はずっと粗野なものです。視覚系ではこれが繰り返されています。
 これまでに報告された症例で,形の感覚を完全に喪失した患者の報告は1例もありません。形の認識システムにはいろいろなものがあり,物の認識系,顔の認識系というふうに分かれているからです。顔を認識する能力を失った人が,必ずしも他のすべての物の形がわからなくなるわけではありません。さらに顔やその他の物の形がわからなくなった人でも,線分の傾きは認識できることがあります。この場合,患者の残された能力は,視覚系階層の初期ステージの能力いかんにかかっていると思われます。

体性感覚野の階層性と両手の統合

山鳥 岩村先生は,触覚性知覚の階層性というものを明らかにされてこられました。階層性についてのお考えをもう少しお聞かせください。
岩村 私が記述した体性感覚野の階層性は,大変基本的なことです。ゼキ先生が先ほど言及されたように,体性感覚野でニューロンの受容野が次第に大きくなっていくことを見つけました。
山鳥 受容野が拡大していくということですね。
岩村 そうです。これが最も基本的で重要な発見です。さらに,ある刺激の特徴に選択的に反応するニューロン,これは階層上位である1,2野では見つかりましたが,初期段階である3野には存在しませんでした。そして特徴抽出ニューロンは1野より2野にあるもののほうが複雑で,やはり階層性があります。ゼキ先生が言うように,体性感覚野での特徴抽出の過程は,常に対立する2つの性質の比較によっています。エッジがあるかないか,柔らかいか硬いか,手で押した時に動くか動かないかといった具合です。
 ところで,われわれはこれとは別に,両側性の統合が手指領域でも行なわれていることを見つけました。これも階層のより高次の段階で初めて出てくるのです。両手の統合は階層構造の当然の帰結であると考えています(図1)。
山鳥 視覚系では両側性再現はどうなっていますか。
ゼキ 視覚系には,岩村先生が体性感覚野で見つけたようなおもしろい例はありません。彼の仕事がすばらしいのは,「脳が知識獲得のために組織化されている」ことを示しているからです。もし,ある知識が正中線でのみ得られるものだとしたら,脳をそれに合わせて再構成する必要があります。手は身体の正中線にはありません。しかし,両手で何かを扱う時には,両手が正中線の上にきますから,左右の大脳半球にある2つの独立した手の領域を,脳梁を介してつなぐ必要があります。しかし視覚系には,そのようなおもしろい例は考えられません。ただ,色の系は例外で,左右半球間の結合が正中線上に限られていません。
山鳥 色ですか。
ゼキ そうです。色に反応するニューロンはそこから7度ほど離れたところの色にも影響されます。1つの半球が他の半球の影響を受ける。もしこれが正中線にあれば,両側の半球から影響を受けますから,厳密に局在的ではなくなります。というわけで,彼が示した体性感覚系とよく似ています。もっとも彼の示した例のようにきれいにはいきませんが。
岩村 一次視覚野および視覚連合野には,反対側の視野が再現されています。一次視覚野(17野)は左右半球を結合する脳梁線維連絡を欠いていますが,例外的に,一次視覚野の最後方,すなわち17野と18野の境界付近に限局して脳梁による線維連絡があり,ここは垂直子午線すなわち左右視野の境界部分が再現されるところに一致します(図2A)。
 ここにあるニューロンは垂直子午線を含んで左右の視野にかかる受容野を持っています。視覚連合野も原則は同じで,脳梁線維の分布する部位は機能の異なるいくつかの視覚領野の境界に一致します。視覚連合野のニューロンの受容野は一次視覚野に比べ大きいのですが,受容野は左右いずれかの視野内に限局しているのが原則です。しかし非常に大きい受容野の場合には,垂直子午線を越えて反対側にかかるものもあります。
 一次体性感覚野の体部位再現は交叉性で,各ニューロンは反対側の身体刺激にしか応答しません。ただし例外的に,例えば,口の中,顔面,頚部,体幹部の再現部位には,身体正中線を含んで両側にまたがる受容野を持つニューロンがあり,脳梁線維も存在します。そこで,上に述べた視覚野との類似から体性感覚野でも正中融合仮説が提唱されたのです。
 視野の垂直子午線は必然的に中心窩を通ります。中心窩は空間分解能に優れています。体性感覚の場合,空間分解能が高いのは口の中や手ですから,手も両側性に再現されていなければ,視覚野との類似は成立しないはずです。
 われわれは,一次体性感覚野の統合の最終局面で両手の統合が起こっていることを発見しました。一次視覚野同様,一次体性感覚野,特に手の領域は脳梁線維を欠くか,あるいは非常に少ないし,両手に受容野があるニューロンもありません。両手の統合が発見されたのは一次体性感覚野の最後方(2野と5野)で,この皮質領域には脳梁線維も存在しています。対側の半球の活動を阻害すると,両側性受容野を持つニューロンも消失することから,両側性活動は脳梁線維連絡によっていると思われます。
 手は物理的に正中線から隔たっているから,正中融合仮説があてはまらないように思えます。しかし手は可動で,両手で物を操作したり把持したりする時には身体正中線の延長上にきます。したがって,手の両側性再現が存在しても正中融合説と矛盾しないと思われます(図2B)。
山鳥 先生の発見された大脳一側による両手情報の表現という現象は,ヒトの利き手現象とつながりますか。左半球のほうが両手表現が優勢で,そのことが右手利きが多いことと関係するとか。
岩村 それは違う話です。われわれの経験では,サルでは左右差がないようです。半球優位性の問題は確かにおもしろいし大事な話です。知覚だけでなく運動のコントロールにも。

図1 中心後回で行なわれる情報処理の内容と階層性(CS:中心溝,IPS:頭頂間溝)(『タッチ』より引用)
 
図2 A:網膜から大脳皮質への投射。V1(一次視覚野)では,左右半球を連絡する脳梁結合は,月状溝に添った狭い範囲に存在する垂直子午線の再現部位にだけ見られる。脳葉最後部だけが描かれている(Zeki, 1979より)
B:両手で対象物を把持,操作する時は,両手は身体の正中線の延長上に来る

意識は1つではない

山鳥 ゼキ先生は先ほど,「視覚性意識は分散系だ」とおっしゃいました。このことについてもう少しお聞かせください。
ゼキ 意識が統一されているというのは間違った考えです。
山鳥 間違いですか。
ゼキ この考えはどこから来たのでしょう。まず,第1にこれは単なる推測にすぎないことです。第2に,これはエマニエル・カントの「すべての意識は知覚する自己,統合された意識に先験的に関係づけられる」という考えからきています。私は自分が意識していることをわかっていますが,でもどうやってそれがわかるのか。それは唯一,言語の使用によってのみ可能になると思います。
 意識は1つであることを示すのに比べ,意識が多数あることを示す科学的な例をあげるほうが容易です。私があなたと話す時,私は自分自身に,私が存在していることを,そしてあなたと話していることを知っている,と言うでしょうか。それは否です。私は自分の話していることに集中しています。
 興味深いのは,私が突然あることを意識し,次に別のことを意識するようにし向けるものは何かということです。体性感覚系も違いはないと思います。例えば,「触」と「温」とを同時にミリ秒の単位で意識できるでしょうか。
岩村 できないでしょうね。
ゼキ そうでしょう。ですから意識は,空間と時間の両方に関して分散しているのです。これは大事な法則です。
山鳥 もう1つ,別の法則ですね。
ゼキ そうです。これは大変重要です。もしあなたが2つの物の違いを言えるなら,それは脳の違う場所が働くからです。言えない場合は,違う場所が働かないからです。「触」と「温」の違いがわかるのは,違う群のニューロンが働くからです。2つの違う群のニューロンは違う伝導速度を持っているので,時間の違いを意識できます。時間の分離は神経的な分離です。ミリ秒単位の話ですが,われわれはもっと長い時間のものを問題にしがちです。数秒とか数分の統合も起こります。しかしもっと短いミリ秒の半分といった時間のレベルでは,意識が1つとか2つかということは問題にならないのではないですか。
山鳥 そこで体性感覚系における意識のことを考えてみたいと思います。
岩村 意識にはいろいろあるに違いありません。その中でも,自分を意識するのは自分の身体を意識することであり,これは体性感覚に基づいているに違いありません。言葉があることが自己意識の基本ということでしたが,発語時には体性感覚も働きます。体性感覚系の活動によっていやでも事故の存在を意識させられてしまいます。
ゼキ あなたの研究室のサルが,膝が傷んでいるのを意識するのはわかりますが,サルがそれを意識していることはわからないのではないですか。
岩村 それは確かになんとも言えませんが,動物といえども自己意識を持てるのではないかと思います。
ゼキ その点に関しては誰も確信がないと思います。例えば鏡を見せてみると,サルは自己を意識していないことがわかります。
岩村 いや,われわれの研究によれば,サルも鏡やTVスクリーンに映った自分を認識できます。
ゼキ 本当ですか。
岩村 本当です。この場合はテレビに映った自分の手ですけど。
ゼキ それは重要です。その仕事の論文はまだ出ていないのですか。
岩村 その一部は最近発表されました(Iriki, et. al:Neuroscience Research 2001)。
ゼキ それは重要です。大変おもしろい。なぜならこれは,われわれが考える以上に,動物には意識があることになるからです。しかし動物には言葉がないことは認めざるを得ないでしょう。

人間活動と脳

山鳥 ゼキ先生は色,形,顔などに興味をもっておいででしたが,最近は芸術,特に美術に興味を深めておられます。これからのお仕事の方向を教えてください。
ゼキ 私がアートに魅せられるのは,アートの機能を,知識獲得という脳の機能の延長としてみるからです。しかし私はもっと奥深いものに強い興味を感じています。社会の構造に興味があるのです。これは自明のことですが,人間のすべての活動は脳に支配されているからです。法,道徳,ここで深入りは避けたいのですが,いま私が大変興味を持っているのは,例えば,司法制度や道徳と神経学の関係です。道徳はある種の神経学に支配されます。法はある種の道徳に支配される。ですから,私は法と道徳の関係に興味があります。
 ところで,私は経済学にも興味があります。それにしても経済学者は経済学を知りませんね。
山鳥 そうですね。それが日本が10年たっても不況から抜け出せない理由ですね。
ゼキ 彼らは状況を理解していません。事が済んでから説明をつけるだけです。経済学者はこれを起こしたのはこの因子のためだなどと言いますが,これから何が起こるかをあらかじめ予測することはできません。 私は,経済学は脳の基本構造と心理学の原理によって支配されていると考えます。というわけで,このような一般的な問題に興味を持っています。もちろん他にも,例えば創造性には特に興味があります。これは厳密に脳神経細胞の構成の問題となります。
 このような問題にアタックするのおもしろいですし,社会に貢献できます。例えば法律というと抽象的な事柄のように考えがちですが,これはもともと,道徳倫理と生物学的要請に基づいて人間が作ったものです。法律が生物学に基づいていることを人々に知らせるのは,ある意味で大変重要なことです。これには強い応用先があります。例えば犯罪法であれば,「犯罪者は脳が異常だから罪を犯した,他にすべがなかった」とよく言われます。これは大変重要な問題で,異常だから罪を犯すとすると,刑務所に入れるという判決は必ずしも最善ではないことになる。というように,私は誇大妄想ぎみなのです。
 ところでもう1つ言い残したことがあります。それは信仰または宗教です。宗教も脳の要請に支配されています。世界の有力な宗教には共通点があります。それは脳の共通の機構によっているからです。というわけで,生物学的見地から,信仰にも大変興味があります。
山鳥 岩村先生,先生はこれからどのような方向へ向かわれますか。
岩村 そうですね。私はむしろ「快適さ」,「心地よさ」とは何かと言うことに興味があります。これは体性感覚と内臓感覚の問題ですが,快適ということは,要するに身体のどこからも余計な情報がこないということです。痛みがないのはもちろんです。
ゼキ その状態はnirvana(涅槃)ですね。
山鳥 ゼキ先生は誇大妄想の方向で,岩村先生はnirvanaに入る方向のようですね。大団円を迎えたようです。
 本日はどうもありがとうございました。
(了)