医学界新聞

 

〔連載〕How to make

クリニカル・エビデンス

-その仮説をいかに証明するか?-

浦島充佳(東京慈恵会医科大学 薬物治療学研究室)


〔第6回〕高木兼寛「脚気病栄養説」(6)

2436号よりつづく

鴎外の実験と矛盾

 「臨床研究を行なう際,対象を何人集めれば十分ですか?」という質問をよく受けます。対象人数は集団内のばらつきと2つの集団の差によって決まります。鴎外の臨床試験はわずか6人に対して行なわれました。仮に検査結果上有意差があったとしても,結論を導くのには不十分なことは言うまでもありません。
 1つの仮説を検証する際,2つの過ちを犯し得ます。「治療効果がないのにある」と言ってしまう場合と,「治療効果があるのにない」と言ってしまう場合です。厚生労働省は薬を認可するのに前者を気にし,製薬会社は大金を投じて薬を開発するため,後者に神経を使います。前者の過ちを犯さないためには対象数を多くする必要は必ずしもありませんが,後者の過ちを犯さないためには十分な対象数が必要です。すなわち,鴎外の実験対象数では「治療効果があるのにない」という過ちを犯す可能性がきわめて高いことになります。
 よって現在臨床試験を行なう前に,「上の2つの過ちをもった結論を導かないようにするためには何人の対象を必要とするか」を計算するのが常識となっています。また,単純に6人中3人が異常値を示したといった疾患頻度の数え方は,非感染性の病態に対しては使用できますが,感染症のような場合には特殊な方法を用います(後述)。
 しかも,鴎外の行なった研究で最も批判されるべき点はバイアスです。このように片方の治療が優れていると研究者が盲目的に信じている場合,結果評価にバイアスが入らないわけがありません。これを解消するためには,治療を受ける側も評価する側もそれぞれがどちらの群に振り分けられたのかわからないようにする二重盲検(もちろん手術と薬物治療の効果を比較するなど無理な場合もありますが)とランダム化が採用されなくてはなりません。
 二重盲検に対する倫理的批判もあります。しかし,この脚気病に関するエピソードは,科学的方法に則らないで臨床試験を行なうと,優れた治療法を立証できずに埋もれさせてしまう,あるいは誤った治療法を世の中に出して多くの犠牲者を出す可能性があることを示しています。医療過誤は目に見える罪です。しかし,統計学によって誤った結論を導き,これをもって多くの人を間接的に殺めたとすれば,医療過誤以上の大罪なのです。しかし,直接的でないがゆえに犠牲者は自分が犠牲者であることに気づいていません。

日清・日露戦争にみる脚気発生頻度

 事実,悲劇は起こりました。明治27年,日清戦争勃発。海軍では当然ながら麦飯を採用し,脚気患者は1人も発生しませんでした。一方,陸軍では食糧を陸軍省医務局が一元管理し,全部隊に白米を支給しました。その結果,戦死者453名に対して脚気による死者4064名と,戦死者よりも脚気死亡者が10倍を超えるという驚愕すべき結果となりました。戦後半年ほどして,福沢諭吉発行の「時事新報」に海軍軍医の「兵食と疾病」という調査記事が掲載されました。これは初めて公の場で行なわれた海軍からの陸軍非難でした。
 この記事をきっかけに,その後も陸海軍の論争は続きましたが,陸軍上層部は細菌説を採り続けました。そのため10年後の日露戦争では陸軍の被害はさらに拡大しました。戦死(即死)者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名,うち脚気による死者は2万7800余名にのぼりました。「古来東西ノ戦役中殆ト類例ヲ見サル」戦慄すべき数でした。
 当時の日本軍は突撃の際にも酒に酔っているようだったと言われており,それが脚気のためであり,原因が白米であることはロシア軍にも知られていました。実際には戦死者にも脚気患者が大量に含まれていると考えられます。陸軍は旅順,奉天陥落後の明治38年3月末,脚気対策として米麦7対3の混食奨励の訓令を出しましたが,陸軍の公式記録では脚気患者数は25万人とされています。海軍の脚気患者は105名であった,とのことです()。

国内で低く,海外で高い評価

 国内医学界からは白眼視されていた兼寛も,海外では非常に高い評価を受けます。西欧諸国の多くの大学から講演依頼を受け,多数の賞を受けるに至ります。当時病原微生物を同定することが医学の主流であり,兼寛の脚気病栄養学説は生活習慣病の病因論を考える上でのエポックメイキングな出来事であり,まさにパラダイムシフトともとれます。
 1982年,カリフォルニア大学の神経科学者であるプルシナー博士は「サイエンス」誌に「スクレイビーを引き起こす伝染性蛋白」を発表しました。この“プリオン”の発見は世界の科学者に大きな衝撃を与えましたが,博士がノーベル賞を受賞したのは論文発表の17年後です。東工大出身の白川英樹博士も自説を自分の大学や国内で十分認められずに,海外から指名を受けて「伝導性ポリマーの発見と開発」に関してノーベル化学賞を受けます。このようにあまりにも卓越した学説は凡人の理解を超えるばかりでなく,同業者の嫉妬をかい,葬り去られてしまう危険性をはらんでいるのです。特に日本では権威・権力が純粋な学問より強い傾向があるように思われます。

兼寛死後,ついに脚気病栄養学説が立証される

 このアレルギー反応ともとれる医学界の権威に圧迫された兼寛は,晩年,鬱々とした日々を過ごします。大正10年,慶大の大森博士は,軽症の脚気患者6名と,健康人6名にビタミンBの欠けた食事のみを摂らせたところ,軽症者は重症になり,健康者は脚気に罹患し,次に被験者にビタミンBを与えたところ12人全員が全治したと報告します。この結果を基に大森博士は重症脚気患者にビタミンBを投与し,完治させることができました。この時点で兼寛の脚気病栄養学説は確実な理論として樹立されたのでした。しかし,この時すでに兼寛はこの世の人ではなかったのです。

臨床医学と実験医学の関係

 兼寛はイギリス医学に傾倒しながらも,決して実験医学やドイツ医学を否定することはありませんでした。「日本医学は1つの国の医学からではなく,広くから学ぶべきである」と主張しています。そして,論が先でも証拠が先でも,両者が一直線に連結した時こそ仮説は証明されるのです。ですから両者はお互いを批判し打ち負かすのではなく,相手の主張を聴き協調することが優先されなくてはなりません。しばしば「君は臨床か,研究か?」という質問を受けますが,臨床医学と実験医学は表裏一体の学問であるべきです。

温故知新

 以上述べてきたように,日本にも100年以上昔に卓越した疫学的センスを持つ人物がいたことは驚きであり,誇りでもあります。しかし,森鴎外の名前を知っていても,高木兼寛の偉業を知る人は必ずしも多くはありません。慈恵医大の阿部正和元学長は宮崎県穆佐(むかさ)村にある兼寛の生地が荒れ果てているのを知り,記念公園を設立しました。故樋口一成元学長は当地の小学校より生徒ら2人と先生2人を慈恵医大に招いて宮崎の偉人を後世に伝えようとしています。私たちは先人の知恵に学び,2度と類似の失敗を繰り返してはいけません。

 兼寛はいとも簡単に「脚気病栄養説」を証明したように書き進めてきましたが,それまでの苦労がないはずはありません。臨床研究を推進するために最も重要なことは臨床研究をデザインしたり,解析することではありません。よきリーダーであることです。リーダーであるには,まず科学者としての鋭い洞察力,そして研究を実行・継続するための良識と交渉力を持つことです。しかし何よりも大切なのは人間としての魅力なのではないでしょうか。
 次回からは,兼寛の話を引用しつつ,戦略としての臨床研究,具体的ネゴシエーションの方法,リーダーシップの条件,パブリックヘルスの倫理などについて触れてみたいと思います。


(註)鴎外の医学者としての活動については近代文学研究会のWebサイト
http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/igaku00.html)に詳しい