序
私達の人生において大切なものは数多くあるとはいっても,何よりも大切なことは何かをするということ,アクションではないでしょうか。生きているという実感は,身体を動かし,アクションをするときに生まれてきます。私達の存在意義,あるいはアイデンティティーを確かなものにすることができるのは,自己の表現以外にないならば,その手段としてのアクションの意味はとてつもなく大きいと言わざるを得ません。どんなに博学で知識にたけ,あるいは明晰な判断力と知謀に卓越していても,それらを表現し,世に表すことができなければ,せっかくの知の存在が埋もれたままに終わってしまうでしょう。
アクションの内容がいかに厖大であり,その実態がどれほど複雑多岐にわたるかは説明するまでもありませんが,常に移り変わる外界の条件や状況にしっかりと対応し,意味のある動作を行って意図した目的を果たすという,アクション本来のありようを考えるとき,それを可能にする脳の働きがいかにすぐれたものであるかについては,その奥の深さがはかり知れないとも思えてきます。しかしそのような脳の働きのメカニズムを解き明かすことは,人類に与えられた深遠な課題であり,知性に課されたきわめて魅力的なチャレンジでもあります。
アクションを可能にする脳の働きについて,脳科学はその解明に向けてどのようにメスを入れ,どこまで理解を進めているのでしょうか。そういう問題提起を基本に据えながら,本書では大脳皮質の運動関連領野の働きについて,大脳生理学研究者の観点から考察を進めていきます。
まず最初に,大脳の一次運動野の働きを考えてみます。手足や躯幹のどこを,どのように動かすかを決める主役が一次運動野であることは,損傷されたときの麻痺症状から明らかですし,一次運動野と脊髄や脳幹の解剖学的な関係についての詳細な知識の集積をもとに考えると,当然とも思われます。しかし,運動が実際に行われるときに,一次運動野を構成するどの種類の細胞が,どのように働いて,運動の時空間パターンを形成するのでしょうか。また,一次運動野の機能的な構成原理を考える基本となる,要素的な基本単位は何でしょうか。大脳の一次視覚野における機能円柱のような構造はあるのでしょうか。そのように問い始め,理解を深めようとすると,一次運動野の機能をもたらす仕組みがいかに複雑であるかが見えてきます。それとともに,まだ解っていないこと,これから明らかにするべき疑問点が多いことも明確になってきます。
次に高次運動野,つまり一次運動野以外の大脳運動野の働きを考えます。高次運動野は多数存在しますが,それぞれ細胞構築や脳に占める位地だけでなく,脳の中で形成される神経回路が異なっているので,一つひとつの領域の働きには特徴があると考えるのが自然です。むろん各領野の機能には共通部分があるとしても,そして複数の領野の共同作業によって初めて機能が達成される面はあっても,なおかつそれぞれの機能的な存在意義はあると考えざるを得ません。個々の高次運動野を特徴づける存在意義は何でしょうか。
大脳の外側にある高次運動野は運動前野です。ここでは,認知された感覚情報を活用して,意味のある動作をもたらすという働きが重要です。これまでの運動前野研究では,2つの概念が重要とされてきました。ひとつは感覚情報による動作の誘導,もうひとつは感覚情報と動作選択の連合ということです。まずはこれらについて,これまでの研究の成果をふまえて検討します。次にもうひとつの機能的側面,つまり抽象レベルでのアクションプランを,具体性をもった動作のプランに変換する過程を担う,運動前野の働きについて考察します。
一方,大脳の内側には,3領域の高次運動野が存在します。補足運動野,前補足運動野,帯状皮質運動野です。補足運動野と前補足運動野の働きを考えるとき,キーとなるのは,自発性ということと,脳内情報にもとづいた動作制御ということ,そして動作の時間的・時系列的制御ということです。むろん極論は禁物で,内側の高次運動野はそれ以外の働きもないわけではなく,例えば感覚情報にもとづいた動作制御にも参加はしますが,しかし特徴的で不可欠という観点からは,self-initiation(自己開始性),internalized action selection(脳内情報による動作選択),そしてtemporal coding(動作の時間制御)という制御の要点を担っている領域であることに間違いはないと言えます。他方,帯状皮質運動野は帯状溝の内部を占める広い領域で,その機能の本格的な研究はこれからと言えますが,その要点のひとつは,大脳辺縁系と高次運動野の接点として機能しているところにあると言えそうです。報酬情報による動作選択の切り替えなどはその機能の一端と言えるでしょう。
最後に,前頭前野が登場します。ここでは外側前頭前野に限定しますが,それでもなお前頭前野の働きは極めて多岐にわたります。従来の研究は認知情報の処理機構に焦点が合わされることが多かったのですが,前頭葉の要所を占める領域ですから,行動の統合的制御機構としての機能は枢要とみなされます。その観点から,前頭前野の機能動態を細胞レベルで検討することで,アクションの総括的な制御の様子を浮き彫りにすることを試みます。
聞き手の山鳥先生と河村先生には,随所に鋭い質問と興味深いコメントをいただきました。本質的な問題提起に,生理学者としての至らなさを新たな角度から認識させていただいたところもありましたが,適切なフィードバックと幅の広い話題の拡充をしていただいたおかげで,読者諸氏にも内容理解が深まるところが多かったと感ずる次第です。この場をお借りして,厚くお礼を申し上げます。
2011年8月
丹治 順