免疫学の巨人イェルネ

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ノーベル医学・生理学賞受賞者である免疫学者ニールス・イェルネの波乱に富んだ一生を描く。イェルネは、ノーディンとともに溶血プラーク反応による抗体産生細胞の測定法を開発。1969年、バーゼル免疫学研究所長となり、1979年には有名な「免疫ネットワーク説」を発表した。この説はその後、多田富雄氏を含む、多くの免疫学者に非常に大きな影響を与えた。
監修 宮坂 昌之
長野 敬 / 太田 英彦
発行 2008年02月判型:A5頁:488
ISBN 978-4-260-00238-7
定価 5,060円 (本体4,600円+税)

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ニールス・イェルネの聖性と俗性
多田 富雄

 ニールス・イェルネという人物は,見る人によっていろいろな側面が浮かび上がってくる。彼が晩年興味を示した抗体のイディオタイプ(その抗体の固有の構造)が,複数のパラトープ(見られる構造)として認識されるように。これは私の見たイェルネという人のパラトープである。多少バイアスがあっても,いずれにせよニールス・イェルネであることに変わりはない。
 生前の彼と親交のあったクラウス・ラエフスキーに最近会ったとき,イェルネについて最も印象的だったことは何だったかと尋ねた。彼は即座に「初めに会ったときの論文業績が,27編しかなかったこと」と答えた。いまどきの研究者では,若くても数百,少し名前の知れた学者なら,数千はあるに違いない。イェルネの論文は,クラウスの言うように驚くほど少ない。それもイェルネの一面を示す特徴であろう。
 私は,彼の若いころの論文を読んだことがある数少ない読者の一人である。有名な『Journal of Experimental Medicine』の二つの号にまたがった長大な論文,しかも一編は一冊の雑誌全部のページを占めていた。いくら昔といっても,こんなことは珍しい。
 主題は,ジフテリアの抗毒素の,毒素への親和性に関するものだった。結合力が抗体の濃度に依存するという事実を,確率論的にパラノイックなまでに詳細に解析し,後にアヴィディティと呼ばれる抗体の性質を記載した最初の論文である。イェルネが有名になっても,この原著論文を本当に読んだ人は少ないのではないか。そんなに革命的な研究ではないにしても,この完全主義は,イエルネのパラノイックな一面を,すでに色濃く反映している。
 私が初めてこの免疫学の巨人に出会ったのは,1973年か1974年の2月,スイスのバーゼルを訪れた時だった。
 バーゼルは,おりしも名物のファスナハトの最中であった。ファスナハトとは,聖灰水曜日のすぐ後の月曜から3日間,町中で繰り広げられる有名なカーニバルのことで,バーゼルの町は人波で埋め尽くされていた。
 私はこの日に,イェルネの主催するバーゼル免疫研究所に講演に招かれたのだ。私の免疫研究所でのセミナーは,ファスナハトの最終日に予定されていた。だから初めてのバーゼル訪問は,このファスナハトの喧騒の思い出と重なる。
 講義が終わって,所長のイェルネに面会するかと聞かれて,私は躊躇した。何しろ,イェルネといえば,当時免疫学を志すものにとっては,「抗体の自然選択説」で伝説的な巨人であった。私も「イェルネのプラーク・フォーミング細胞」を主な研究手段にしてきた。こちらは,この二,三年やっと名前が知られるようになった駆け出しの研究者に過ぎない。私の講演に顔を見せなかった高名なイェルネと,話の接点などなかった。それよりも若手の研究者と実験の議論を戦わせたり,パレードを見物したほうが気楽だった。
 私は,私を招待してくれたイタリア人の免疫学者ベンベヌート・ペルニス博士におずおずとそう告げた。彼も納得してイェルネとは儀礼的な挨拶をする程度にしようということになった。ところが思いもよらぬことに,イェルネのほうが会いたいと言っているという。
 そのころ私は,抗体産生を抑制する胸腺由来のリンパ球,抑制性T細胞の研究をしていた。その受容体が抗体と同じく抗原特異性を持っているらしいことが,世界の免疫学者の関心を集めていた。それなら抗体と同じネットワークに入ってもおかしくない。彼もそう思って,東洋から来た無名の研究者に会うと言ったのではなかろうか。
 講演が終わって,免疫学研究のメッカになっているバーゼルで,はなばなしく研究を展開している若い研究者のところを回って,意見交換をして時間をつぶした。イェルネを尊敬し,いわばイェルネ教の筆頭信者のようだった分子生物学者,大野乾(すすむ)博士とも,まだ無名だった利根川進博士とも初めてそこで会った。こうした世界的研究者を集めたのが,イェルネであり,彼が主催するバーゼル免疫研究所だった。
 何人もの研究者と白熱した議論に時を忘れ,気づいたときはイェルネとの面会時間をかなり過ぎていた。ペルニスがあわてて呼びに来た。
 イェルネの待つ所長室のドアをノックしたときは,1時間も遅れてしまった。もう外では,落ち日がライン川を煌めかしていた。
 イェルネは,驚いたことに,所長室のブラインドを全部下ろし,電気もつけずにそこにいた。下ろしたブラインドの隙間から,夕日の光が弱弱しく差し込んでいたのを覚えている。
 待たせた失礼にもかかわらず,彼は機嫌よく迎え入れた。しかし自己紹介が済んでも,椅子には座らせず,討論も始めようとはしなかった。何か気になることがあるように,私のほうは一瞥もせず,ペルニスに向かって,「これから私は出かけなければならない。食事にはお前が連れて行ってくれ。バーゼル市内でなく,フランスとの国境の向こうの村にあるレストランに連れて行くように」とそそくさと指示した。
 そのとき,私は気づいたことがあった。閉め切った彼の部屋は,ワインの匂いが充満していた。彼は,部屋を暗く閉め切ってワインを飲んでいたらしい。私は,世界の免疫学者から神話の主人公のように崇められて,なかなか親しい友人もできないであろうこの巨人の,孤独と寂寥を垣間見たような気がした。
 その夜は,喧騒の街を離れ,イェルネに教えられたフランスの村のレストランで,ペルニスと一緒に食事をした。国境を越えることがこんなに日常のことかと驚きながら。私はペルニスとともに,すばらしいペッパーステーキの饗応に預かった。上等のワインに,最高のビーフ,さすがグルメでも名の通ったイェルネ推奨の店だった。昨日までのバーゼルのホテルの食事とは,国境を越えたら雲泥の差だった。
 話題はもちろん,イェルネの日常にもおよんだ。ペルニスは,イェルネと同じアパートに住んでいるらしい。彼もイェルネ教の信者であることが,私にはすぐにわかった。
 バーゼルにはイェルネの崇拝者が数多くいた。どうしてなのか私にはわかる気がした。あの到達できない孤高,間違っているとわかっていても,人を引きつけずにはおかない魔法のような魅力,それを構築する知性,まったく別の視点から見る才能,はるか遠くから物事を眺める目,天上の聖性と俗界の行為の奇妙な混交。
 ペルニスは,イェルネと同じアパートに住んで,彼と毎日のように議論する喜びをこう語った。イェルネは夜中でも,突然ペルニスを自室に呼びつけ,彼の新しいアイデアが間違っているかどうかを,長時間問いかける。議論は朝まで続くこともある。時には,ペルニスの部屋の階上に住むイェルネが,夜通し歩き回る足音が響いていることもある。そんな時は翌日彼が何を言い出すかが楽しみだ。
 ペルニスは,イェルネとともに考え,何かを発見する喜びを共有していたらしい。そうなのだ。一流の知性とともにいることの喜びは,その知を共有し,発展させる作業に参加できることだ。
 こんな話を長々と聞いて,私はバーゼルに戻った。バーゼルではまだファスナハトの興奮が続いていた。笛と太鼓が,魔法をかけられた集団の上に鳴り響いていた。それを聞くと体中が動いて,踊らされてしまう。それはイェルネという魔術師に会った興奮のため,眠れなくなった私の枕に,いつまでも鳴り響いていた。
 私はその後何度かバーゼルを訪ねたが,イェルネと個人的にはつきあいが深まることはなかった。彼は私を覚えてくれてはいたが,学会などで会ってもよそよそしい会釈を交わす程度にとどまった。
 1976年のコールドスプリングハーバー・シンポジウムですれ違ったとき,イェルネが心なしか寂しげな微笑を浮かべていたことを思い出す。そのシンポジウムでは,利根川進博士の「免疫グロブリン遺伝子の再構成」の話題が衆目を集め,イェルネの血清学的研究を基にした「選択説」も,ここ十年余り免疫学を席巻した免疫細胞間の相互作用の研究も,かつての光を急速に失っていた。新しく勃興した分子生物学の鋭い光の下では,全体を見る古典的免疫学は,弱弱しい最後の光を放つ落ち日のようだった。
 その後何年かたって,私はアメリカのイーライ・セルカルツ,英国のエイブリオン・ミチソンなど免疫学の理論的側面に興味をもっていた友人と語らい,「免疫の記号論」という会を計画していた。イェルネの学説が凋落した後,免疫理論で全体的,統一的理解をしようとする者はほとんどいなかった。分子生物学に代表される徹底した還元主義に座を奪われた免疫学は,いかなる学説も光を失っていたし,本来の生物学としての免疫系に興味をもう一度呼び覚ますものはなかった。そんな風潮を憂いて,そのころ盛んだった言語学における記号論を応用し,細胞による認識や,情報交換,使われるサインや多様なメッセージの理解に,記号論的アプローチが応用できないかというアイデアからであった。
 NATOの援助を申請したところ,幸運にも補助金が下り,実現の運びとなった。場所は北イタリアのルッカの郊外,ピレネー山脈の山荘イル・チョッコだった。著名な記号学者の,ウンベルト・エーコも参加した。会議は成功とはいえなかったが,記録は英国のスプリンガー社から出版された。
 問題はかたくななイェルネの参加だった。チョムスキーの生成文法論と免疫系の成立にアナロジーを見出し,興味を持っていたイェルネが喜ばぬはずはないとみんな思った。果たして,イェルネは〈immnosemiotics〉という主題が気に入ったらしいと,連絡に当たったクラウス・ラエフスキーの報告が入った。
 ところが会の直前,約束のルッカの町に全員集まっても,イェルネは姿を現さなかった。何時間も待ったが彼は来なかった。
 業を煮やして,クラウスがイェルネのいるフランスのシャトーに電話をかけた。何度目かにやっと電話口に現れたイェルネは,憂鬱そうにこう言った。「私は具合がよくない。妻も不調である。私は死ぬのを待っているばかりだ。」
 そして「immnosemioticsにはもはや興味がない。第一ラテン語とギリシャ語をつなげた造語は気に入らない。」と取り付く島もなかったという。
 それが,イェルネとの交流の最後だった。その後もバーゼルに行って,彼の消息を聞くと,「給料日にだけは来るが,ほかには見かけない」とのことだった。研究所は徐々に新所長のフリッツ・メルヒャーズのドイツ合理主義的実学的研究一色に染まっていった。
 そして1984年のノーベル医学・生理学賞の受賞では,モノクローナル抗体を実際に作った業績のミルスタイン,ケーラーとの共同受賞だったが,イェルネだけは何か実物を作ったわけではなかった。いわばコンセプトの発明だった。
 どこかニュアンスが違っていた。もともと一緒にするのは無理だったのだ。選考委員会でも,イェルネだけは反対があったそうだ。イェルネの信者でもあった委員長ハンス・ウィグツェルが選考委員を説き伏せたと巷間伝えられた。
 でも私は,逆にイェルネこそ単独受賞してもおかしくないと思っている。彼のおかげで,この授賞が,世紀の一流の授賞となったとさえ思う。
 彼の仮説「ネットワーク説」(内容については拙著『免疫の意味論』〈青土社〉に詳しく解説した)は,免疫学における「統一場の理論」の可能性としてだけでなく,複雑な情報化社会を理解し,運営するための普遍的理論として,遠く美しく輝く。学説の美しさとはこういうものだ。アインシュタインの相対性原理に匹敵する科学思想だ。
 現在の還元主義的免疫学では,忘れ去られたというばかりか,今ではイェルネに言及することさえ異端としてタブー視されている中で,彼の孤高は厳然として高みに輝く。
 そして帝王は,フランスのシャトーの奥深く,人知れず死んだ。
 彼はやっと自由の身になったのだ。今は誰はばからず,イェルネのことを語ることができる。タブーではなくなった。
 近代免疫学の最後の傑出した理論家,預言者,伝道者としてのイェルネに,直接触れ,深い精神的影響を受けた者の一人として,私の想像の世界のイェルネに,再び語らせることも自由であろう。最後に私の想像上のイェルネの生涯に,二編の詩を贈って稿を閉じたい。全くの想像の世界で,彼と深く交わってきた産物である。

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序章 ある科学者の一生を追う
I ロマンティックな性格の形成(1911-1947)
 1「私は一度として,いま生きている場所にいると感じたことはなかった」
 2「私の本性は,とてつもない皮肉屋であることだ」
 3「何か役にたたないことを学びたかった」
 4「周囲に霧がたちこめている」
 5「科学者として,私ほど多くの年月を無駄にした者はない」
 6「いまや誰も,私が医者になるのを止められない」
 7「私自身の魂の深みに,自然を反映させられるように」
 8「不実の烙印を押されたことから,目をそらすまい」
 9「手紙,夢見る女の魂を絡め取る蜘蛛の巣」
II 選択説の形成(1947-1954)
 10「人より優れていると感じる幸福」
 11「この研究が適用されるのは主として免疫学だと考えています」
 12「この抗体だの,あの抗体だのと言ったところで,彼らは実際大して興味がなかった」
 13「皆自分が何をやっているのかわかっていない」
 14「何かやらなくてはいけないな,実験か何か」
パラバシス 個人的な告白としての選択説
III 一人の男,彼の理論,彼のネットワーク(1954-1994)
 15「希望も失敗も,私のものだ」
 16「この仮説は大した反響を呼ばなかったが,さてどうしたものだろう?」
 17「念のためちょっと免疫学を勉強したほうがよさそうだ」
 18「最後になるが,大事な人よ,私は冴えた頭で抗体を作らなければならない」
 19「丸太がゆっくりと湖面に現れるように」
 20「私は今でも,もとの自然選択説のほうがよかったと考えている」
 21「免疫学はほとんど哲学的な主題になった」
終章 「逃れようとする何たる抗い」

引用文献
参考文献
訳者あとがき
索引

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さまざまなことを考えさせてくれる巨人イェルネの伝記
書評者: 山鳥 重 (神戸学院大教授・人間心理学)
 本書の主人公ニールス・イェルネ Neils Jerne(1911―1994)は1984年,「免疫系の発達と制御の特異性に関する理論とモノクローナル抗体の生成原理の発見」に対してノーベル医学・生理学賞を与えられた免疫学者である。著者トーマス・セデルキスト(Thomas Söderqvist)は受賞直後の公開講演を聞いて,彼に興味を持ち,生前の本人との頻回のインタビュー,記録魔の本人が残した膨大な資料,学術誌への発表論文,研究仲間・知人・家人から聞き出したエピソードなど,膨大な資料に基づき,10年の歳月を費やして本書を完成している。評者はまったくの門外漢で,彼の業績について何の評価もできないが,本書に序文を寄せているわが国の免疫学の泰斗,多田富雄氏によると,彼は「近代免疫学の最後の傑出した理論家,預言者,伝道者」で,免疫学の「帝王」と呼ばれた人である。まさに知的巨人なのである。

 著者は伝記の草稿を時々,当のイェルネに読んでもらって意見を聞いていたらしいが,本人自身が面白がって読むばかりで,何か注文をつけるというようなことはほとんど無かったという。たったひとつの反対は,伝記の題名に提案された「逃れようとする何たる抗い」に対してだったらしいが,本人の死後,デンマーク語で出版された原著は,結局この題が採用されている。この「逃れようとする何たる抗い」が,デイビッド・メル・ポール(David Mel Paul)によって「自伝としての科学:ニールス・イェルネのトラブル人生」という題名で圧縮・英訳された。本書はその翻訳である。

 デンマーク語版題名や英語版題名が示唆するように,イェルネは行動の振幅が大きく,相当に型破りな人間だったらしい。常識的な学者の範躇を大きくはみ出した彼の生き様に科学的創造力の源を見ようとする試みが本書である。

 両親はデンマーク人で,ロンドンで生まれた。5人きょうだいの4番目である。幼少期の一時期をデンマークの曽祖父母に預けられて過ごし,ついでオランダに移り,ここで大学(ライデン大学数学・物理学科)を卒業した。その3年後,23歳のときに今度はデンマークに移動して,コペンハーゲン大学医学部に入った。しかし臨床研修を終えてようやく医師資格を獲得したときにはすでに36歳になっていた。この間,会社に勤め,研究所に勤め,恋をし,結婚し,子供をもうけ,浮気をしている。

 32歳のときに,デンマーク国立血清研究所標準化部門の秘書に採用されたのが,その後の彼の研究人生を決定した。秘書ながら研究活動に参加し,翌年には最初の論文を発表している。37歳で血清研究所の研究助手となり,本格的な研究生活に入る。40歳で“Nature”に論文を発表し,一躍注目を浴びる。この年,標準化部門の研究室長になった。45歳で研究現場を離れ,ジュネーブの世界保健機構(WHO)生物資料標準化部門医務官という行政職に転ずる。51歳で米国ピッツバーグ大微生物学教室主任教授となる。しかし,米国は彼の好みでなく,わずか4年でフランクフルトのウォルフガング・ゲーテ大学教授とエールリヒ研究所所長としてヨーロッパへ戻る。57歳のとき,スイス,バーゼルに設立予定のホフマン・ラロッシュ免疫学研究所の開設準備責任者に招かれる。彼はこの仕事に情熱を傾け,2年後の開所時から所長として10年をバーゼルで過ごす。蛇足ながら,わが利根川進氏がノーベル賞受賞研究を行ったのがこの研究所で,この時期のことである。69歳で所長を退き,パリのパスツール研究所顧問となるが,わずか1年で辞め,南フランスの広壮な邸宅に隠棲し,ここで没した。83歳であった。

 彼は実験を嫌い,思索を好み,少ない実験から得られたデータを前に徹底的に考えたという。熟考するため,論文の発表はいつも遅れに遅れた。部下が早く完成してくれと懇願することがしばしばであった。学問的視野は広く,彼の最大の業績とされる「免疫のネットワーク理論」にはウィーナーのサイバネティクス理論や,チョムスキーの言語学理論が組み込まれているそうである。生物学の統一理論を構想していたという。彼のネットワーク理論はバーゼル研究所の研究体制に生かされているという著者の見方は面白い。さらにこの理論誕生のきっかけはデータそのものより,むしろ彼の個人生活にあるという指摘も面白い。個人や特異な性格に惹かれる傾向,個体間の確率的な衝突として人と人の出会いを見る傾向がそれだという。

 彼は読書家で,それも哲学を好み,キェルケゴール,ニーチェ,ベルグソンに親しんだ。小説ではプルーストを愛した。この知的な精神は,生涯「優越者の微笑を持って相手を眺めることに満足した」という。

 私生活は,彼がそれを不幸と感じたかどうかは知らず,客観的にはかなり荒れたものである。最初の妻は自殺に追い込まれているし,2番目の妻は,夫と子供を捨ててまで彼のもとに奔ったのに,ついに彼の精神生活に場を占めることはなく,離婚している。彼の死を看取ったのは,2番目の妻と離婚後,わずか3か月で結婚した3番目の妻であった。しかも,この3回目の結婚生活の時期にも,彼は別の女性と親密な関係を始め,第3子をもうけている。最初の妻との間の2人の息子のうち,1人が本伝記の作成に協力しているが,父親に対する眼は決して温かいものではない。

 彼を熱狂的に尊敬する人も多かったが,嫌う人もまた多かったらしい。著者自身はどうも後者に属し,本書全体に嫌な奴イェルネというトーンが響いているように思うのは評者の読み過ぎか。彼が人を愛するということを知っていたのかどうか,著者は疑っている。彼は常に何かから逃れよう逃れようとしていたのではないかというのがセデルキストの解釈である。

 本書は精読を要求するが,それに値する内容を持っている。生きるとはどういうことか,愛するとはどういうことか,研究するとはどういうことか,学問するとはどういうことか,さまざまなことを考えさせてくれる。ぜひとも,多田富雄氏の名著『免疫の意味論』(青土社)との併読をお勧めしたい。(おことわり:出来事と時間との関係を分かりやすくするため,西暦年でなく年齢を用いて彼の経歴をなぞったが,生年を基準に引き算しただけなので正確ではない。)
【特別寄稿】『免疫学の巨人 イェルネ』を読む―世界を揺るがした免疫学者 イェルネの謎 (『週刊医学界新聞』より)
書評者: 矢原 一郎 (医学生物学研究所)
◆自己演出にかけた科学者の物語

 著者によると,イェルネは,肺腺癌の病床においても,死後の名声がどうなるか非常に気にしていた。著者が,この本の書名を『逃れようとする何たる抗い』としたいと言うと,気に入らないという。イェルネは,「ジョン・キーツの詩から取ったのでは」と,「そうです」と著者。「その前の行は,『狂おしい何たる追求』だね」とイェルネ。「そうです」と著者。「それは,フランシス・クリックの自伝の書名だな」。「そうです」。著者のいぶかるのに対し,イェルネは「クリックの後塵を拝するのはごめんだ」と,はっきりと言った。

 死の2か月前。これが,イェルネと著者の最後の会話となったという。

 まさしく,本書は,どこまでも自己演出にかけた科学者の物語であり,いろいろな読み方ができる。

 例えば,女性遍歴だけとってみても,並の物語ではない。イェルネのサイエンスが開花したのは,芸術家であった妻チェックが自殺してからであるが(1945年10月),彼女はイェルネの心の伏流となって,最後まで彼の生きかたを支配した。イェルネの長男イヴァールによれば,イェルネは「チェックは天才だった」といい,同時に「私もただ者ではない」と回想していた。

 一方で,イェルネはチェックの友人である既婚者アッダとの情事に,「支配する」(実際のSM的な意味も含めて)よろこびを見出していた。その後,イェルネはアッダと再婚し(公的な記録はないが),マックス・デルブリュックが君臨するCaltechで一年間過ごした(1954年8月)。

 16歳のとき,ロッテルダムで,ジャニンに夢中になって以来,イェルネは一貫して性的な面では,ありふれた言い方をすれば,奔放であった。ただ,これもイェルネが自己を演出した結果と思われるふしがある。

 ちなみに,イェルネはその生涯にわたって,手紙やメモなどを何百ものスーパーマーケットの袋に入れて屋根裏部屋に保存して,自伝を書くために用意していた。もちろん,著者もこの資料を使わせてもらったが,抜けていたところがあった(イェルネが意図的に捨てた)。イェルネの女性関係と彼のサイエンスとの相関は,面白い分析対象ではあるが,私の最大の関心対象であるサイエンスそのものの問題に触れなければならないので,これ以上深入りは止めておく。

◆キェルケゴールに強い影響を受ける

 さて,イェルネが「抗体の選択説」の親であることは,だれもが知っていることである。イェルネがこの説を想起したのは,1954年3月の夕方,コペンハーゲンの国立血清研究所からアマリエの家に戻る途中(クニッペル橋を渡っているとき)ということになっている。これは,1966年デルブリュックの還暦を記念してコールドスプリングハーバー研究所から出版された“Phage and the Origins of Molecular Biology”にイェルネ自身が書いていることである。この芝居がかった発見物語も,3月ではなくもっと後(8月)でないと辻褄の合わないことが明らかになり,イェルネ本人も認めたという。なぜ,時期を早めにしたかというと,選択説のアイデアが,デルブリュックの研究室に加わってから生まれたのではないことを,はっきり示したかったのだという。そうして,Pasadenaに発つ前に,イェルネは「抗体の選択説」を記した書類を机の引き出しに入れて,「遺書」として保管した(遺言執行人として,上司であったO.モーレーとデルブリュックを指定した)。デルブリュック還暦記念のイェルネ論文の文頭には,セーレン・ケルケゴール(キェルケゴール)の「哲学的断片」の考察を引用してある。この本から離れて,ケルケゴールの本によって以下,説明する。
 ソクラテスは「メノン」の中で,「人は既に知っていること(真理)を求めることはできない。なぜなら,知っていることはもう知ってしまっているのだから,これから求めることはできない。また,知っていないことは何を求めるべきかを知らないはずだから,やはりそれを求めることはできない」という論争家好みの命題に対して,答えを出した。すなわち,「無知なる者にとって必要なことは,自分が既に知っている事柄を自分の力で思い出すことができるようにその想起を促してもらえさえすればよい」のだと(以上,ケルケゴール著作集6,「哲学的断片」,大谷愛人訳,白水社より抜粋引用)。

 イェルネは,デルブリュック記念論文で,この「真理(truth)」を“the capability to synthesize an antibody”と置換して,上のソクラテスの説明を,抗体の選択説の論理的基盤と考えられると述べた。

 イェルネは若い頃,コペンハーゲンの芸術家サークルに出入りしている頃に,ケルケゴールの哲学に触発されたという。出来すぎた話であるが,いいとしよう。

◆抗体の選択説発見の基盤

 イェルネの「選択説」の基盤は,国立血清研究所で,WHOからジフテリアと破傷風のトキソイドの国際基準を決めるという課題を与えられたときから育まれたと思われる。まず,抗毒素血清の希釈と毒素との沈殿形成の関係から,抗毒素は毒素と反応するとき多価物質であるとの結論になった(これ自体はイェルネのオリジナルではない)。次に,免疫を2回,3回と繰り返すたびに,血清の力価が大きな増加を示したことである。

 イギリスの研究者J.B.ホールトは,2回目以降の免疫反応は,既に貯蔵されていた抗体の遊離によるとの説を主張していた。しかし,イェルネは1回目の免疫で出現する抗体も,既に貯蔵されていたものであるという考えに傾いていった。イェルネの学位論文は,高度な統計学的処理によって解析されたジフテリア毒素と抗毒素の反応についてであった(1950年8月)。しかし,イェルネは国際標準化の仕事から距離を置きはじめ,バクテリオファージの研究に熱中していった。

 バクテリオファージの研究は時代の流れであり,モーレーもデルブリュックの研究室からコペンハーゲンの研究室に導入した(1949年)。直ぐに,22歳のジム・ワトソンと26歳のG.ステントが加わった(1950年10月)。共に狷介なステントとイェルネの交流はイェルネの晩年まで続いた。イェルネは,T4ファージ抗血清の中に,ファージを不活性化する抗体だけでなく,逆に活性化状態を維持する因子の存在に気付き,それもまた抗体らしいと考えた。この可能性は,この因子もT4ファージ免疫によって1000倍にも増えたという結果によって確信に変わった。つまり,抗体は生体防御(ファージを不活性化する)のために生産されるのではなく,化学反応として生産されることを理解した。また,ウマの正常血清中にも少量だが活性化因子(特異抗体)があることも見出した。ここから,「抗原はそれと反応する抗体を選択し,増やす」(イェルネの記述にしたがえば,抗体分子を増やす装置を備えた細胞に運ぶ)というアイデアが生まれた。これらは,イェルネの思想の根幹にかかわる部分であるが,彼がおそれていたように,T4バクテリオファージ・スクールの影響を強く受けていることがわかる。

 イェルネは理論家肌だと思われているが,一方では見事な実験データを出し,その解釈に圧倒的な非凡さを見せた。血清の標準化問題(希釈効果)やバクテリオファージの不活化実験などは,ほとんど網羅的にデータを蒐集してロジカルに結論を導き出した。この傾向がもっとも見事に発揮されたのは,「イェルネのプラークアッセイ」である(1963年5月)。これは,特殊な抗体を産生する一つ一つのリンパ球を溶血プラークとして検出する手法で,免疫学ではもっともエレガントな実験として知られている。

◆ダーウィニズムの支配への抗い

 最後に,本書を読んで感じた,いささか不思議な印象について述べたい。現代免疫学の基盤をなす「抗体の選択説」を提唱しながら,イェルネは,「彼の説の出発点を理解するのにダーウィニズムは重要でない」と言ったという。本書ではわずか3ページしか割いていないが,この問題は掘り下げてみる価値がある。1970年代の前半,私のボスであったジェラルド・エーデルマン(本書にも何回か登場する)は,イェルネときわめて親しく,また畏敬していたが,一貫してダーウィン2世(彼の研究室が作製したオートマトンがダーウィン3世)と自負していたのと対照的である。晩年のイェルネはチョムスキーの生成文法理論と抗体レパトワ形成の類似について論じたが,論理的な連関に敏感なイェルネがダーウィンを論じなかったのは,最初の妻チェックの支配から逃れようとしながら,結局逃れられなかった生き方と同じように,その思考が常にダーウィンに支配されていたためと想像できる。
 この点をさらに深追いして論ずれば,抗体の多様性形成の仕組みは,ダーウィンの選択説の範疇には含まれるものの,イェルネの選択説をもう一歩超えた原理に基づくことは,現代の免疫学が明らかにしたことである。すなわち,抗原と反応する抗体分子の部位(CDR領域という)は抗原刺激によって体細胞突然変異を頻繁に起こし(somatic hypermutation),その中から抗原との反応がもっとも適合したものが選択されるという,合目的性をもったメカニズムによって支配されている(このプロセスをaffinity maturationという)。イェルネの「既にあるものが選ばれる」というのは第一の原理であって,「選ばれるべき部位の多様性は後天的に付与され,選択の幅を広げる」という,まさに<適応>というダーウィンの選択説そのもののような原理が働いていることは,イェルネにとって不愉快なものであったと思われる。指令説に対するイェルネの選択説の勝利を決定づけたのは,まさしくワトソンとクリックたちが先導した分子生物学であったが,イェルネの選択説は,遺伝情報は変化しないという枠組みの中で精彩を放つものの,高親和性を有する真の意味での生理的意義を持つ抗体がどうやってできあがるかについて,言及することができなかった。芸術家のように絶対を求めるイェルネにとって,選択説の幅が自説の枠を越えることは,彼に不機嫌な晩年をもたらした。

 本書は,イェルネの人間を見事に描き出しており,数百のスーパーマーケットの紙袋につまったイェルネ自身が集めた資料が生きた結果である。それは,イェルネの思惑にはまった感がする一方で,著者が意図的にはまったとも思える。医学の原点である免疫学に興味がある人が,考えながら読む本としてはこれ以上のものは極めて稀である。

(『週刊医学界新聞』第2793号に【特別寄稿】として掲載)

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