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『表情を解剖する』に次ぐチャールズ・ベルの名著発掘第2弾。ヒトのヒトたるゆえんを「手」に象徴させ、手の比較解剖学的検討から、その生理的、解剖学的な機能とその広汎な作用を自筆の多数の美しいイラストとともに供覧する。ダーウィンの「種の起源」に影響を与え、進化論の誕生を促した古典中の古典。
*「神経心理学コレクション」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ 神経心理学コレクション
岡本 保
シリーズ編集 山鳥 重 / 彦坂 興秀 / 河村 満 / 田邉 敬貴
発行 2005年05月判型:A5頁:272
ISBN 978-4-260-11900-9
定価 3,960円 (本体3,600円+税)

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  • 目次
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第1章 人間の手 序説
第2章 地球の変化と生物の適応
第3章 手の比較解剖学
第4章 筋肉,その優秀な機械装置
第5章 手の代行器官
第6章 器官の比較解剖学
第7章 痛覚の働き
第8章 触覚と一般感覚
第9章 筋感覚と触覚
第10章 人類の進歩と手の力
終章  手と眼-動物と人間の比較解剖学
動物の分類
手,その多面的アスペクト
座談会 表情を読む

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『手』と「設計」――ベル『手』の解題的な紹介
書評者: 長野 敬 (前・自治医大教授)
 脳は文字通り神経系の中枢であるとしても,周辺,末梢がなければ何もできない。切り取られた脳だけがいろいろ考えるというのは,手塚治虫の漫画にもあるし,陰気くさい小説もある(ヤシルド『生きている脳』)が,どちらでも筋書きは受動的に進むことしかできない。眼は,口と同じくらい「ものを言」ったりするかもしれないが,物理的な表出手段として,人間の場合に「手」より以上のものはない。単に物理的どころか,精神的なものも,手には反映する。

 チャールズ・ベルの『手』は,「ブリッジウォーター叢書」の一冊として刊行された(Sir Charles Bell: The Hand, Its Mechanism and Vital Endowments, as Evidencing Design. 1833)。叢書の呼称に,わざわざ「創造に示される神の英知と善を説くための」と書いてあることからもその趣旨は明らかだ。信心深いブリッジウォーター伯爵,フランシス・エジャートンが遺産から8000ポンドを宛てて,王立協会会長が8人の著者を選定して執筆してもらうようにと依頼したことから,「叢書」は成立した。いずれも自然科学の眼を通して見た「神の栄光」を説くことを目指している。地質学とか無機化学とか,包括的なものが多いなかで,この第6巻『手』は,ごく具体的な題名をもっている。依頼者としては,ベルがこの限られた入口から広大な思想的景観に導いてくれることを期待したのだろう。ベルはすでに神経系研究の大家であるとともに,以前に刊行した『表情論』のなかで,叢書の趣旨にふさわしい議論も展開していた。(表情論は1806年に前身というべき本が出て,その後1824年に本格的な第2版となった。ただし《神経心理学コレクション》に収められている『表情を解剖する』は最終の第4版によっていて,この版自体の刊行は1847年,つまり『手』よりかなり後で,ベルの没後でもあった)。

 王立協会会長からの執筆依頼は名誉なことだし,1000ポンドずつの印税もわるくないが,ベルはこうした不純な動機から書くのでないことを,冒頭でまわりくどく弁明している。「ある主張をしなければならない場合,それが偏見によるものではなく,自然な感情の表明であると知っていれば,人はその意見にいっそう容易に耳を傾けるだろう」つまり,ここに展開する議論は以前からあたため,発展させていた立場からのもので,自分の「自然な感情の表明」であり,「叢書」に賛同して提灯もちをしているのではないから,ぜひ「容易に耳を傾け」てもらいたいというのだ。その立場は,副題の最後の「設計(デザイン)を証拠立てるものとしての」という一句に集約されている。

 ベルが序文でも言及しているペイリー(William Paley, 1743-1805)の自然神学は,当時のイギリスで「創造主による行為」を説く際の範例となっていた。大学でも必習カリキュラムに含まれ,進化論のダーウィンも,学生のときに教えられた。『種の起原』(1859)が,それへの反発を引き金にしているという見方は,生物学思想史のなかでひろく定着している。ペイリーの所論のうち「ヒースの野原の時計」の比喩は,とりわけわかりやすくて普及した。時計が野原に落ちているのを拾った人は,その巧妙な設計(デザイン)から,設計者が必ずいることを確信する。時計よりも比較を絶して見事な設計産物である生物体,ことに人間が現にここにいるのだから,その設計者がいないはずがあるだろうか。

 解剖学者・医学者だったベルは,人体の解剖構造,また調節などの生理機能の見事さなどの知識を総動員して,横の方向では動物と人間の比較解剖学,そして縦の方向では(第2章「地球の変化と生物の適応」)「岩石が形成される以前に生存していた動物の骨格」まで考察範囲に含めて,基本的には「設計」の理念に立ちながら,具体的な議論を展開する。ただし縦の時間軸に深入りすると,それは必ずや生物の起原(「生命の起原」とまでは言わない)の問題にぶつかり,設計主=創造主の議論がむし返されるはずだ。このあたりではベルの論旨は解剖構造の比較などの明快さと違って,しばしば曖昧になる。化石で発見される動物は,まだ粗削りの地球環境下で創造され,完成した環境のもとで人類は「最後に創造」されたと言うのだが,いつごろ,合計何回(?)の創造があったなど,具体的なことは何も言われているわけではない。

 それにしてもこういう変遷観は,ある部分だけ切り取ってくると,ダーウィン以後に急展開した進化の見方と違和感なく重なったりする。「器官の変化がどれほど目をひくものでも,それは同一の偉大な創造的設計の一部分として原型と常にある一定の関係を保つ」(頁17)。これなど,「偉大な創造的設計」という一句を除いてしまえば,いまの高校教科書でいつも出てくる「コウモリとモグラと人の手の相同性」の図説明として,そのまま使えるせりふだ。

 ただ,ベルの知識と考察の範囲がひろくて深く,それに真剣に向き合うからこそ,こうした曖昧さが露呈してくるのであり,現代の原理主義の創造論に見られる不誠実なごまかしは,ベルの思想・文章とは無縁のものである。第一級の研究者だったベルは進化論前夜の背景のもとで,動物の構造と機能の合目的性などをどう捉えていたか。『手』は,それを興味ふかく知ることのできる貴重な原資料だ。ジャン・ブラン『手と精神』(中村文郎訳,叢書ウニベルタシス原書1963,訳書1990)はこの本に触れて論じている。フランク・ウィルソン『手の五〇〇万年史』(藤野邦夫・古賀祥子訳,新評論,訳書2005)でも補遺のなかでベルのこの本に対して,短いが濃縮された賛辞を捧げている。

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