HOME雑 誌medicina誌面サンプル 44巻8号(2007年8月号) > 連載●日常診療の質を高める口腔の知識
●日常診療の質を高める口腔の知識

最終回

下顎の痛み,しびれ

岸本裕充(兵庫医科大学歯科口腔外科学)


 これまでの連載においては,口腔内に棲息するむし歯や歯周病の原因菌をはじめとする微生物の為害性を中心に,口内炎の診断や唾液の重要性についてお話してきました.最終回となる今回は,少し視点を変えて,内科疾患とも関連する下顎の痛みやしびれを中心にお話しします.


■肩こりと歯・顎の痛みの関連

 患者さんが歯や顎に痛みを訴えるにもかかわらず,その部分には問題を認めないことがあります.その多くは「関連痛」(連関痛と言われることもあります)や「放散痛」によるものです.そのなかで,患者さんの「自己申告」としても最も多いのは「肩こり」に関連するものと思われます.

 典型的な「関連痛」の例として,「上顎臼歯にひどいむし歯(C3の急性歯髄炎)があるのに,『下顎臼歯が痛い』という患者さん」がときどきいます.歯や顎の知覚は三叉神経による支配ですが,その信号が途中で「混線」し,上顎を下顎と誤認するためと考えられています.この場合,上顎の歯科治療で(あるいは局所麻酔をしただけでも),嘘のように下顎の痛みがピタリと止まります.これと同様にひどい「肩こり」を歯や顎の痛みと誤認することもあり得るかもしれませんが,現実には「何らかの原因で肩がこっていて,歯や顎に関連する筋肉にも問題がある」というのが大部分だと思います.つまり,「肩に問題があるのにそれを自覚していない患者さん」は少なく,また「肩こりがひどくて歯や顎にも症状があるのに,歯や顎に全く問題ない患者」も少なく,真の「関連痛」は多くないと思います.

 痛みというストレスや痛みに伴う姿勢の変化などによって,「肩から歯や顎」へも,その逆の「歯や顎から肩」へも痛みが移行します.この場合,どちらが先かはともかく,どちらも実際に問題があって,痛いのです.

 両者に関連して歯が痛くなるのは,「過労・睡眠不足などで体力が低下し,自覚症状のなかった慢性の歯周炎が急性化する」というパターンで,そんなときには無理をしているので肩もこる,というわけです.顎の痛みに関しては,顎骨自体が痛むことは稀で,顎関節あるいは顎の開閉口運動に関連する筋肉に問題が生じます.私たちは患者さんに,次のように説明しています.

 「左の足首を捻挫すると,痛いのはもちろん左です.ところが,左をかばって無理した状況が続くと,同側の左の膝などが痛くなってくることもありますが,反対側の右膝や左の足首から離れた腰が痛くなってくることが珍しくありません.顎や肩でも同じようなことが起こるのです」.手や足の関節と顎関節が大きく異なる点は,左右の側頭骨に下顎骨はブランコのようにぶら下がっているため左右が連動する,つまり「片側に問題を生じたときに反対側を安静にすることが難しい」ことが挙げられます.

 個々の患者さんの許容性,適応力にもよるのでしょうが,先のたとえで言いますと,「原因であった足首の捻挫はすっかり良くなったのに腰痛が続く」のと同じように,歯や顎,肩こりなどに端を発して,いわゆる自律神経失調症にみられる症状が発現することがあります.そうなってしまってからの対応は難しい場合が多いので,「糸が複雑にもつれないうちに」原因となりそうな症状を解決できる専門家による対処が望まれます.

■急性冠症候群による下顎への放散痛

 前述した歯や顎,肩こりへの対応は,患者さんの「かかりつけ医」であれば生活習慣の指導や専門家の紹介を求められているのであり,通常緊急性はありません.しかし,ご存じでしょうが,狭心症や急性心筋梗塞など「急性冠症候群(acute coronary syndrome:ACS)」によって,左上腕,頸部,下顎,心窩部などに「放散痛」を生じることがあります.これを見落とすわけにはいきませんが,意識していないと,何もせず「下顎が痛いのなら歯科へ」となってしまいます.歯科では通常,心電図やエコーは無理ですし,一般に胸痛のないACSが2割程度あると言われていることから,必ずACSによる下顎への放散痛を否定してから歯科へ紹介してください

 一般に「胸痛」と言われますが,痛みというよりは「胸部前面の圧迫感」,「締めつけられるような絞扼感」,「焼けつくような灼熱感」,「強い不快感・気分不良(冷汗,めまい,悪心など)」といった症状が典型的です.内臓には知覚神経が分布しておらず,心臓に由来する痛みは自律神経を介して自覚されます.このため,いわゆる痛みではなく,深在性で広範な漠然とした症状となるわけです.糖尿病患者では,自律神経が障害され,痛み刺激が伝わりにくく,症状が出にくいため注意が必要とされています.

 痛みの持続時間は狭心症と急性心筋梗塞とで異なりますが,下顎への放散痛にも共通する症状として,「握りこぶし以上の範囲」,「痛い部分を押しても痛みが増強することはない」,「体位によって痛みが変化しない」などがポイントです.

 下顎を含めた頭蓋・顔面への放散痛の発現頻度は,虚血性心疾患患者の38%(186名中71名)との報告があります1).これによれば,頭蓋・顔面痛のあった71名中11名(うち急性心筋梗塞の3名を含む)には,胸痛などの典型的な症状がなかったと報告されています.

■Numb Chin Syndromeによる下顎のしびれ

 ACSによる下顎への放散痛の見落としは致死的となり得ますが,予後不良という点で,Numb Chin Syndrome(NCS)による下顎のしびれも重要です.

(つづきは本誌をご覧ください)

文献
1)Kreiner M, et al:Craniofacial pain as the sole symptom of cardiac ischemia;A prospective multicenter study. J Am Dent Assoc 138:74-79, 2007


岸本裕充
1989年に大阪大学歯学部を卒業し,兵庫医科大学歯科口腔外科学講座へ入局.化学療法後の口内炎に苦しむ患者さんを毎日のように往診し(研修医時代),頭頸部癌術後患者のMRSA定着・感染に苦しみ(医員の頃),その後は手入れが良くないと不潔になりやすい口腔内のインブラント義歯(人工歯根療法)に取り組んでいます.これらの経験が口腔ケアに活かされていると思っています.