●研修医のためのリスクマネジメント鉄則集 |
第1回テーマ 医師とリスクマネジメント(前編) 田中まゆみ(聖路加国際病院・一般内科) 医療現場でのリスクマネジメントというと,いまだに「保身」,「防衛医療」,「名医なら患者との信頼関係で解決すべきこと」と顔をしかめる向きがあるが,性善説からくるとはいえ,まったく認識が誤っているというほかない。医療は航空機産業などよりはるかにハイリスク産業であり,飛行機に乗るたびに非常時のビデオを見せられることに違和感がないなら,検査のたびに死亡の危険性もあると説明を受けるのは当然であり,乗客が非常時の予備知識をもつほうがもたないより良いのと同様,むしろ患者にとって今からどのような危険に巻き込まれるおそれがあるのかを知るのは良いことなのである。 ■医療はハイリスク産業――説明することが患者のため患者を不安に陥れないかというなら,飛行機の乗客の不安も同じことである。「医療機関を受診すれば良くしてもらえる」という素朴な信頼は,「飛行機に乗れば目的地に連れて行ってもらえる」という期待よりもたちが悪い――と言ったら言い過ぎであろうか。医療機関を受診する患者は「どこか体に異常があるのでは?」という懸念のある,いわば「マイナス」状態から出発している集団であり,健康で旅行をしようという飛行機の乗客より,はるかに負荷に脆■日本固有の医療風土の問題点しかし,長い間「先生にお任せ」で,医師に質問することさえはばかられた日本の医療風土では,真の意味での患者の権利が尊重されてこず,患者の自立を妨げてきたことは紛れもない事実である。患者を「保護されるべき存在」「どうせ説明してもわからないし,なまじ残酷な真実を知ると害でさえある」として子ども扱いする「父権主義(パターナリズム)」が「医は仁術」と同義のように慈悲と徳のある態度として称賛されてきた。インフォームド・コンセントとは名ばかりでほとんどが一方的な説得であり,医療側の価値観と都合を押しつけてきたのである。絶対的権力は絶対的に腐敗する。医療側が知識でも力関係でも患者側を圧倒して裁量権をふるう風土は,医療事故が起こっても,何が起こったのかさえ患者や家族に明らかにする必要はない,隠し通せるという腐敗した驕りを蔓延させた。長い間のこのような封建的な秘密主義・隠蔽主義が生んだ弊害は計り知れない。患者側は医療側に深い不信と恨みを抱くに至ってしまった。 このようななかで,「医療の不確実性」や「死の不可避性」という正論を掲げて,患者に真のインフォームド・コンセント(インフォームド・チョイス)と自己責任を説いても,なかなか信用してもらえないのも無理はない。いわば,医療者の身から出た 患者が,いくら危険性を説明しても当惑して受容せず,むしろ「知らなかった,聞いていない」と言い張るのは,そのような過去の受動的立場への恨みからかもしれない。少し前までは尋ねても,「大丈夫。助けてあげます」「難しいことは素人さんは知らないほうが幸せ」「専門家に任せておきなさい」という態度だった医療界が,最近になって,手のひらを返したように「医療はこんなに危険なんですよ。合併症で死ぬこともあるが,それはミスではなくて当然予期される危険であって……」などと言い始めても,「患者の権利」や「インフォームド・コンセント」より「自己保身」が透けて見えるのであろう。
また,医療事故を隠蔽してきたツケは,司法・警察の医療に対する態度にも現れている。ほとんどの先進国では,医療事故は刑事事件にはそぐわないというのが基本的概念であり,医療事故による死亡にいきなり警察が介入することはない(監察医のような中立機関が検視する国もあり,その場合,刑事事件の疑いがあるかどうかは監察医の判断に委ねられる)。日本では,日本法医学会が1994(平成6)年に発表した「医師法21条『異状死』ガイドライン」での勇み足もあり,医療事故というとまず警察に届け出る義務がある,あるいは届出義務違反で警察が介入する事態に至り,現場の医師は怖れおののいている。この異常な事態の背景には,国民の健康管理が「富国強兵」政策のもと旧内務省(=警察)管轄であった日本特有の歴史的経緯があるにせよ,「医療事故を糾弾するのが社会正義」との世論の後押しがあることは明らかである。
しかし,医療の危険性と不確実性から故意に目をそらし,「結果責任」を問い続けるならば,医療はその負担に耐え切れず壊滅するしかない。すべての医療行為の「結果」は「死」であり,死は避けられないからである。死すべき運命にある生命の延長のために全力を尽くしているのに,「結果」で裁くのは明らかに不公正である。患者がリスクから目をそらそうとする問題(「患者は医療者とリスク認識を共有できるか」)について次回で述べる。
田中まゆみ |