Editorial
空のもう半分のために
1980年12月8日,彼は家族と暮らすニューヨーク,ダコタ・ハウスの前でファンを装って近づいてきた男に背後から銃で撃たれ命を落とした.享年40歳.5年間の隠遁生活を経て久しぶりのニュー・アルバムを発表した直後の彼の突然の訃報は,瞬く間に世界を駆け巡った.そしてその2カ月後.アルバム・カットされたこの曲は,ソロ・アーティストになって初の全英1位,全米2位をはじめ,世界中で大ヒットした.それまで関係が不安定だった彼の妻に向け,わずか15分で書かれたという本曲について,彼自身は生前「すべての女性に向けて書かれたものだ」と語っていた.2歳年上の姉の影響で洋楽を聴き始めた当時の私はカセット・テープに録音したこの曲を,その背後にあるそんな深い意味もわからず,文字通りすり切れるまで聞いたものである.
さて2016年最初の特集は,「妊婦・褥婦が一般外来に来たら」である.この特集はこれまで本誌において同じテーマで特集が何回か組まれた,いわば「定番」である.救急診療をはじめとして,総合診療医が妊婦・褥婦の一次診療に携わる機会はとても多い.すぐに産婦人科医へ相談できない環境で診療にあたる場面が多いからこそ,頭を悩ませることも少なくない.また「女性をみたら妊娠を疑え」との格言もあるように,女性の診療ではつねに妊娠の可能性を考える必要があることは言うまでもない.本号では副題「エマージェンシー&コモンプロブレム」にあるように,時宜を得た産婦人科医への連携が不可欠である救急対応と,妊婦・褥婦のよくある外来プロブレムへの一次対応の2つに的を絞って特集を組んだ.また特に,妊婦の家族が感染症に罹患した場合の対応とその予防法について概説された松田・岡崎・鳴本・杉村論文(→p53)は,家族ぐるみの診療を行うことの多い診療所医師にとって,すぐにでも外来診療で役立つものである.その他,高年妊娠・出産と出生前診断についての中西・矢野論文(→p59),妊娠と内科系慢性疾患管理についての橋本・荒田論文(→p48)など,診療のあらゆる側面において有用な論文が満載である.私たちにとって定番であると同時に永遠の課題であるが故に,読者の診療の助けにしていただきたい.
さて,本稿の表題「空のもう半分のために」は,彼の最後のナンバー・ワン・ヒットとなった本曲の冒頭でささやかれる言葉のことである.これは中国のことわざ「女性は空の半分を占めている(Women hold up half of the sky)」を引用した言葉であり,つまりは,女性のためにこの曲を捧ぐ,という意味なのだそうだ.彼と同じく,私にとっての異性である女性に対し語るべきことは果てしなくあり,しかもその多くは悔恨と懺悔に満ちたものである.しかし,空を分かつことができないように,私たちはお互いが独立した別の存在ではなくともにあって,いや,ともにあるからこそ,この世界は成り立っているのである.
彼がこの世を去って35年.今なお世界は大きな哀しみと果てない苦しみに満ちている.今,私たちにできることはいったい何だろうか.
この曲のラストで彼は,とても単純な言葉を繰り返す.「これからもずっと.」と付け加えながら.
憎しみに満ちた2016年の幕開けの今,改めてこの言葉を心に深く刻みたい.