Editorial
客観から主観へ

中島 孝
独立行政法人国立病院機構 新潟病院

 現代医療は「Medicalization(医療化)が進んだため,医療に無駄(medical futility)が増えており,無駄な医療を中止し導入を控えることで無駄を減らすことができる」といわれ,その条件についての議論が絶えない.そこには極端な反科学的なものから,復古概念,新優生学,合理性の仮面を持つ似非〈エセ〉科学まである.それらに対して,現代医療やアカデミズムは十分な科学的回答や対案を示そうとしてこなかった.下手に回答すると無限の医療費や社会資源が必要になるのではと危惧しているのである.治らない病気の大洪水の中で,急性期医療や医療福祉行政施策の企画立案運営担当者は,真の課題を見失い,大きく混乱している.

 本稿の基礎となっている英国緩和ケア(1967年~)と日本の難病対策(1972年~)から考えれば,回答は明らかである.現代医療の問題は,単に健康概念によって持ち込まれた「健康が一番」「健康増進」「病気を早く治す」というかけ声の下で推進されている医療に由来している.そこでは,治らない病気の人は,どんな軽症であろうとも,否定され,落ち込まされ,「ケアしても治らない」と,医療や福祉を通してさらに否定されるしかないのである.いくらサポートしても,治療しても,患者や家族は満足できず,活き活きと生きることができなくなっている.人々から希望が失われ,活力が低下し,空虚な鼓舞はあるものの,際限のない依存社会に陥ってしまう.

 一方で,健康概念を見直し,どんな病気,障害,年齢であっても,客観的基準からではなく,その人の主観的な満足や,変化・成長し適応していくという目標を目指して多専門職種チーム (MDT:multi-disciplinary team)によるケアやサポートが行われると,その人々はどんな病気であっても,活き活きとし,自立度が増してくる.そして,他者と本人の関係においても,経済の仕組みにおいても,前向きな均衡に達しえるはずなのである.現代医療はそのようにすべきなのである.そうすれば,個人,家族,共同体は再生して,自立し,変化していける.もちろん「国家」と定義された存在もである.国家社会主義的な施策は減らせるはずで,結果的に,医療福祉費は減少するか,減らせなくても,満足度が向上するため国民から費用負担は許容され,均衡に達するのである.

 アカデミズムから,生活者の中から,また行政からも,このような方向性は提示されないため,この取り組みを紹介する必要があると思われた.この導入には共同体全体の力も必要だが,まず,医師を含む医療・福祉提供者が,単に自分の技術の業務範囲と診療ガイドラインに従い,顧客の申し出を受けたり,断ったりするという“職人”をやめる必要がある.患者・家族の主観的評価を基準に,患者が活き活きとし,価値を再創造できるように支援する本来のアドバイザー,患者の個々の問題を研究し支えるサポーターに,まず変わる必要がある.医療技術自体の変更が必要なのではなく,「客観から主観へ」という評価認識方法の変更であるので,本特集タイトルにはイマヌエル・カントの「コペルニクス的転回(the Copernican revolution)」という言葉を復活させた.

 難病医療が培ってきた認識論,方法,運動手法をぜひ,総合診療医の手法の中に取り入れて欲しい.総合診療医が,がんも,難病も,認知症も,疾患を問わず治らない病気と共に生きる人々と普通に向き合い,支援し,患者やご家族,地域の支援者の喜びの触媒となることを祈念して,本号を企画した.