医学界新聞

シリーズ ケアをひらく

寄稿

2020.11.02



シリーズ ケアをひらく
「あの人」と「この本」をひらいて


 本セミナーの第1部では,3グループに分かれてオンライン読書会を開催。シリーズ著者が別の著者の書籍を担当した今回の読書会では,参加前と異なるどのような視点が得られたのでしょうか。そして,ケアはどのように「ひらかれた」のでしょうか。各グループの参加者に語ってもらいました。


伊藤 亜紗さんと
『居るのはつらいよ』をひらいて

生駒 希さん


 私と「ケアをひらく」の歴史はまだまだ浅い。しかし関係性は深いと(勝手に)思っていて,2018年末に発刊された村上靖彦さんの『在宅無限大』は私の新しい道をひらき,私は集中治療室の看護師から訪問看護師になった。文字通り『在宅無限大』は私の人生を変えた1冊となった。それから私はケアひら最推し,ケアひら沼にズブズブにハマっていった訳である。どの本の中にも,どこかで自分の姿と像を結ぶ瞬間があったから。

 今回,シリーズ ケアをひらく20周年を記念した読書会に参加させていただいた。読書会への応募は必然だったともいえる。私がひらいた本は,東畑開人さんの『居るのはつらいよ』。『どもる体』の著者である伊藤亜紗さんをファシリテーターに10人の参加者で読んでいく。本書の面白かった点,そして本書の後半で出てくる「ケア的な別れ」と「セラピー的な別れ」について,具体的な別れのエピソードからケアとセラピーを考えるというお題を事前にいただいていた。

 きっと医療従事者が多いのだろうと勝手に思っていた読書会は,自己紹介を聞いていくと医師,看護師などの職種だけでなくIT業界や製造業,教師,ライター,編集者とさまざまなバックグラウンドを持つ人たちが集まっていた。会が始まった際に伊藤さんから追加で出されたお題「コロナ禍で“いる”は変わったか?」という話を聞いてくっきりと共通点が浮き上がった。“いる”に,つらさ・悩みを感じたことがない人はいないのかもしれない。“いる”は人類不変のテーマだ。

 別れについてのエピソードで私がひらいたのは,「あいまいな喪失」(別れのないさよなら)についてのエピソードだった。私の中では決して悲しいエピソードではないはずだった,むしろ今の今まで笑い話にしていたもので,だから表に出しても差し支えない話だと思っていたのに,なぜか話を進めるにつれて自分の声が上擦っていくのに気が付いてショックを受けていた。事前に準備したメモでは「以前親しかった人との別れの一種だが,ケアもセラピーも必要のないケースだと思っている」と締めるつもりでいたのに,少し感情を揺さぶられていた。

 後から考えて気が付いたことだが,読書会のオンライン空間が,まさにケアとセラピーの場だったように思う。相互に語ることで,与え合い受け取り合うケアが行われていたし,向き合うことで生じるセラピーも芽生えていたように感じた。


東畑 開人さんと
『リハビリの夜』をひらいて

石田 月美さん


 読書は孤独な作業である。頭の中は大忙しで気持ちが揺さ振られ続けていても,ハタから見れば一人きりで身動きもせず本というモノと向かい合っているだけだ。私はそんな孤独な作業を終え,『リハビリの夜』を鍵に扉を開けた。読書会の開幕である。

 画面上に参加者の顔が並ぶ。私はみんなをまなざし,みんなからまなざされているような気分になる。何だか賢そうな顔ぶれだ。著者の方々もいる。私は緊張で身体が強張る。この中に居るのはつらいよ。グループに分かれて自己紹介が始まる。焦りで思考がぐるぐる回る。すると司会の東畑開人さんが「この本がなんでこんなに面白いのか話してください」と言う。みんながこの本の面白さを語る。そうだ。ここに集まったみんなは,『リハビリの夜』が好きな仲間だった。まなざされていると強張っていた身体がゆるむ。自分の番が来てこの本が好きだーと思いっ切り語り,委ねる。委ねた言葉を東畑さんが拾う。画面上のみんなも拾う。

 自己紹介が終わってもみんなの言葉は飛び交い止まらない。この本の意味をそれぞれに読み取り与え合っていく。『リハビリの夜』の不思議が溢れてくる。それで私は「正解」を知りたくなる。「正解」を言ってみんなをあっと言わせたいと企む。しかし「正解」は出てこない。著者の熊谷晋一郎さんが居ないからだ。それでみんな好き勝手言う。その言葉たちは好き勝手に拾われる。私も本とみんなの言葉を好き勝手につなげる。「それ違うんじゃないの?」「そうだったのか!」みんなと自分の間に隙間が見つかる。本と私が結ばれながら広がる。身体が弾んでくる。誰も正解なんて言わない。要らない。東畑さんが「この書き方,真似しよう」と言い出す。みんなが笑う。笑った身体は気持ちいい。

 『リハビリの夜』が好きだ。たったそれだけ。それだけでつながり合った私たちは,互いの言葉にふける。孤独な読書を通じてつながり合った私たちが,互いに言葉を交わし拾い結び合う。つながり合おうと言葉を紡ぐ。それでもつながれなさは残る。だから丁寧に結び直し合う。そして『リハビリの夜』は自由に広がる。読書会の時間はあっという間に過ぎた。身体が気持ちよさに包まれている。最後に全員で本の表紙をかざして記念撮影。たくさんの目玉がギョロリと映り,みんながまた笑う。まなざしを笑う。本に対する複眼的なまなざしは,本の意味をますます芳醇に分節化させていくプロセスであったことをこの写真一枚が伝える。

 読書会の翌日,ふと気付いた。みんなのおかげで私はまだほどけたままだ。もう一度本をひらこう。結んでひらいてつながって。さぁ,この本と共にさらなる転倒をしようではないか。


熊谷 晋一郎さんと
『どもる体』をひらいて

田中 みゆきさん


 医療関係者や大学教員,理学療法士,吃音の当事者の方など,切実な問題として『どもる体』を読んだ参加者が集まったことが画面越しにも感じられた読書会。議論のはじめに出された熊谷晋一郎さんからの「人生はパターンとモーフィングの概念で整理できるのではないか」という問題提起は,さまざまな背景を持つ私たちそれぞれの興味を惹きつけるものでした。熊谷さんは,『どもる体』で取り上げられている連発,難発,言い換え,リズムという問題を「パターンではなくモーフィングに困難が生じている状態」と鮮やかに置き換えられたのです。

 私は普段,障害のある人による表現を扱った展覧会や公演,映画などを企画しています。読書会では視覚に障害のある人に視覚情報を伝える「音声ガイド」を使った,当事者とダンスを鑑賞するプロジェクトについてお話ししました。ダンスはまさにパターンとモーフィングで語ることができる表現形態であり,ダンサーの体の動きのパターンとそこから想起されるイメージを鑑賞者の頭の中で滑らかにモーフィングさせるというのは,音声ガイドの重要な役割でもあるためでした。プロジェクトで興味深かったのは,舞台上でのダンサーの動きを追う(パターンをモーフィングでつなぐ)ように作った音声ガイドが,当事者にあまり評判が良くなかったことでした。そのことを聞いた熊谷さんは,「ダンスの楽しみがパターンのみならずモーフィングも含めたものだとするならば,モーフィングの部分に感情の機微や楽しみのエキスみたいなものが詰まっている。動きを追う音声ガイドからは,それがごっそり抜けてしまったと考えられるのではないか」と鋭い指摘をされました。さらに,目に見える動きを伝える語彙ではなく,感情的な語彙のほうがモーフィングを伝えられるのかもしれないという発言は,他者とイメージを共有する方法を考える上で,とても示唆的なものでした。

 他にも,小説家である平野啓一郎さんの「分人」の概念や,周囲から期待される役割や属性の間を遷移するモーフィング,社会の分断化によって個人が負担させられているモーフィングのコストなど,さまざまな社会的要因によって生じるモーフィングの問題が語られました。もともとは吃音において一つの音節から別の音節に移る際に生じるモーフィングの問題が現代社会の問題にまで広がっていったのは,さまざまな背景をもつ参加者がそれぞれの経験をテーマに引き寄せそれを熊谷さんがアクロバティックにつなぐという,ある種のパターンとモーフィングがその場で試みられていたからではないかと思います。思考のモーフィングが開かれ共有される場として,読書会という形式の可能性が感じられる時間でした。

オンライン読書会「熊谷晋一郎さんと読む『どもる体』」の様子

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