医学界新聞

対談・座談会

2018.07.09



【座談会】

一般内科修練の原点とは
今に受け継がれる,大リーガー医に学んだ卒後研修

松村 理司氏(洛和会ヘルスケアシステム 総長)
森本 剛氏(兵庫医科大学臨床疫学 教授)=司会
濱口 杉大氏(福島県立医科大学総合内科 教授)


 1984年,京都府北部の市立舞鶴市民病院(以下,舞鶴市民病院)では,松村理司氏により北米型の卒後臨床教育システムを取り入れた新たな挑戦が始まった。それから30余年。米国・ニューオーリンズで今年4月に開催された米国内科学会(American College of Physicians;ACP)の年次総会で,松村氏はHonorary Fellowshipを授与された。優れた臨床能力を持つ大リーガー医を海外から招聘し,総合診療をベースに北米型の屋根瓦式教育体制を構築した功績などが高く評価されたためだ。

 一般内科(General Internal Medicine;GIM)を志向し展開された卒後臨床教育はどのような経緯で始まり,今に至るのか。かつて舞鶴市民病院で研修を受けた二人の医師と共にその足跡を振り返った。


森本 ACPのHonorary Fellowshipの受賞,おめでとうございます。

松村 ありがとうございます。何か賞を授かると「思いもかけず」と枕詞のように言う方が多いですが,簡単な英文履歴書しか持たない私が今回受賞したのは,本当に思いがけないことでした。

森本 ACP日本支部長の上野文昭先生が「異例中の異例」と表現したように,学会などの組織背景の支援ではない一医師の受賞は画期的なことではないでしょうか。というのも,同賞は従来,米国外の内科学会の会長がACPに出席した際に授与される,いわば職位や地位に対するアワードの性格が強いものだったからです。授与理由は具体的にどのようなものだったのですか。

松村 ACP側から示されたのは,①米国式臨床教育の経験者を招聘した教育を長期実施したこと,②教育の場を総合診療主体としたこと,③卒後医学教育体制を病院で確立したことの3点です。それぞれ私なりに言い換えれば,大リーガー医の招聘,一般内科主体の教育,そしてチーム医療下での屋根瓦式の教育指導です。

ACPに根付く教育重視の伝統

森本 松村先生に教えを受けた数多くの弟子や日本に招いた大リーガー医のリストが,受賞につながる“履歴書”となったのではないでしょうか。

濱口 内科医教育のノーベル賞と言っても過言ではない栄誉だと思います。内科の専門家集団であるACPが,履歴書に書かれる役職などではなく,松村先生がなさってきたことを認めたわけですから。

森本 ACPは会員数11万5000人,世界80か国に会員を有する世界最大の国際的な内科学会です。授与式も行われた年次総会に初めて参加した濱口先生は,どんな印象を持ちましたか。

濱口 規模の大きさはもちろん,皆で教え学び合う参加者の姿勢に驚きました。教育レクチャーも決して特殊な事例を扱うのではなく,プライマリ・ケア領域でよく出会う問題が取り上げられ,「そうだったんだ」とあらためて気付く内容が多かったですね。

森本 米国の内科医は,たとえ消化器や循環器などの専門領域に進んでも,自分たちは内科医であるとの高いプライドを持っています。患者に資する学問の追究,医師教育の重要性を強く意識している点も特徴でしょう。今回のHonorary Fellowshipの授与は名誉だけでなく,この両者を兼ね備えたプロフェッショナルであるとの評価を与えていると言えます。

濱口 各国の内科医が一堂に会したconvocation ceremonyで,内科学をより発展させていこうと一致団結する雰囲気の中で松村先生が賞を授与されたことは,本当に誇らしく思います(写真)。

写真 2018年ACP年次総会の授与式(左から2番目が松村氏)
「授与式では,数百人の参加者全員で『内科医の誓い』を斉唱する。その初心への回帰の姿勢は,とても印象的であった」(松村氏)

松村 来年100周年を迎える2019年のACP年次総会のキャッチコピーは,“STEEPED IN HISTORY IMMERSED IN EDUCATION(歴史に浸りながら教育に没頭する)”です。

森本 ACPにとって教育は核であり本質であり続けたわけですね。

松村 ACPの100年は,医学教育に取り組んできた100年でもあった。学会を通じた,知識,診療スキルの伝播こそが彼らにとっていかに大きな目的かを鮮明に感じ取ることができます。

森本 ACPは臓器別専門医も参加しますが,多くは総合診療医や総合内科医です。教育はやはり,専門に特化した医師よりもジェネラルな診療に当たる医師に,より求められるのでしょう。内科医を介した標準的な教育の提供がACPの根幹にはある。だからこそ,松村先生の30年にわたる日本での取り組みが評価されたのだと言えます。

一般内科への移行を決意させたウィリス先生との出会い

森本 年次総会では,大リーガー医として来日経験が豊富であり,本学招聘教授として毎年私と一緒に1単元全ての授業を英語で担当しているマイヤー(George W. Meyer)先生が,「かつて呼吸器外科医だった医師への授与は初めてではないか」と冗談半分で話していました。呼吸器外科医であった松村先生が,何をきっかけに一般内科医へとキャリアを変え,舞鶴市民病院での取り組みを開始するに至ったのか。経緯をお聞かせください。

松村 1974年に卒業してすぐ呼吸器外科医となった私は,次第に諸先輩から呼吸器内科を教えてもらうようになり,卒後10年目頃には一般内科にも目が向き始めました。

森本 本格的に内科を志向する転機は何だったのでしょう。

松村 1983年,沖縄県立中部病院での研修です。これからの医師人生をどう進むべきかを考えていた私は,ここでグラグラと気持ちを揺さぶられる経験をしました。

 研修中,外科診療部長だった真栄城優夫先生に,「君は,どれぐらいの手術をしているんだ?」と聞かれ答えたら,「それはダメだ。数が少なすぎて腕が鈍る道だ」と言われてしまったのです。当時は,卒業後,一般外科を経由せずに専門分野に進めたため,私は呼吸器外科に直接進みました。ところが県立中部病院は,一般外科を経て呼吸器外科や心臓外科に進む米国式の教育体制で外科医を育成していた。土台である一般外科の修練が自分にないことは,周囲の態度と言葉で知らされましたね。

 一方,良い意味で揺さぶられる経験もありました。同院で呼吸器内科,救急科,感染症科なども横断的に学ぶ中で,①ベッドサイド回診の徹底,②H&P(History & Physical)を重視した診断推論,③根拠となる文献を明らかにする姿勢の3点の重要性を学んだことです。さらにその後,約1年間の米国留学で呼吸器内科と循環器内科を経験したことが,一般内科医の道へ進む契機となりました。

森本 1984年に帰国後,早速大リーガー医を招聘した研修を舞鶴市民病院で始めています。中でも,ウィリス(G. Christopher Willis)先生の長期招聘はどのような経緯で実現したのでしょう。

松村 先生は1975年から5年間,県立中部病院で後進を指導されていました。救急や内科をオールラウンドにできる医療費節減派の医師だと,呼吸器科医長だった宮城征四郎先生に聞かされていました。ベッドサイドでは常々,「君たちの軽薄な頭脳で,検査の洪水が起こる。私なら10分の1,ウィリスだったら100分の1の医療費しかかからないよ」と話されていました。それで「ウィリス先生って,どんな人だろう?」と興味を持ち,留学した際にカナダ・モントリオール総合病院の救急室に先生を訪ねたのです。

森本 まさに体当たりでアプローチしたのですね。

松村 ええ。先生からは,「いずれアジア・アフリカの地で医学教育に貢献したい」との思いも聞き,そこでの接点をきっかけに舞鶴に長期間招聘することが実現できたのです。実はこのとき,故・日野原重明先生による後押しもいただきました。4年3か月間,ウィリス先生から一般内科学を吸収し続けられたことが私の一般内科修練の原点であり,一般内科への移行を決意させた出来事となったのです。

舞鶴市民病院の教育の形とは

森本 大リーガー医を招聘した画期的な研修を行う背景の一つに,当時,日本の臨床教育の現場に教育専任者が不在だったことが挙げられるのではないでしょうか。松村先生がこの重要性を再確認した事例は何ですか。

松村 1993年,米国内科系のプログラムディレクターが集まるAPDIM(Association of Program Directors in Internal Medicine)に参加したことです。25年前の米国には既に教育専任者であるプログラムディレクターが,全米1200前後の教育プログラムに見合う人数いて,その標準化を図っていました。ポイントは教育専任者に職責と教育への愛着があること。米国では臨床能力に加え教育力のある医師が,多年その役職を務め医師教育を支えていたのです。大リーガー医として招聘した医師の多くは,まさに米国のプログラムディレクターでした。中には内科部長や副部長もいましたね。内科部長が内科のトップの役職で独立しており,かつ特定の人が長く務めるのが,日米の大きな差です。

濱口 舞鶴市民病院では,教育専任者が病棟に常駐し研修医教育に当たっていたのが特徴的でした。

森本 その教育専任者を頂点とする屋根瓦式によって,指導医から研修医,そして先輩研修医から後輩へと教え継がれていったわけですね。私が研修を受けた1990年代後半,地方の中小病院に数多くの内科医が常勤でいて,臨床と教育を同時に行っていたのは,今思えば驚くべきことです。

松村 236床の地域病院で内科は60床の混合病棟。ここに研修医を含め内科医が少なくとも12~13人,多いときは17人いて,3チームに分かれて病棟回診を行っていました。

森本 濱口先生は,当時の研修を振り返っていかがですか。

濱口 大リーガー医の存在と,H&Pによるベッドサイド回診,屋根瓦式の教育スタイルと,どれも驚きの連続でした。研修自体は英語など苦労することもありましたが,その意義や良さを身に染みて感じたものです。

森本 大リーガー医はどのような存在でしたか。

濱口 今に生きる教えがたくさんありました。特に,米ジョンズ・ホプキンス大で循環器病学のトレーニングを受けたインド人大リーガー医のシャー(Kishor D. Shah)先生は,教え方がクリアでとてもわかりやすかったですね。病歴と身体診察や心電図,X線画像などシンプルな材料から診断を絞り込む様子には舌を巻きました。そして,屋根瓦式の教育は,後輩が入れば自分が受けたのと同じように教えることになり,自身の勉強にもなりました。

松村 専門医も少人数いるが,中心は一般内科であり,ジェネラリストの指導医が複数名いる環境で,研修医が教育を受けながら屋根瓦式の中で教育も施していく。今思えば,これは米国で言うResident-Oriented Ward(研修医志向性病棟)が日本で可能かを試す壮大な実験だったとも言えます。

教育のある場所には,必ず人が集まる

森本 その後松村先生は,新医師臨床研修制度の開始と同じ2004年に,今度は都市部にあり,規模の大きな洛和会に移りました。教育の形に変化はありましたか。

松村 初期研修必修化によって,研修医が内科全般を学ぶモチベーションに差が生じたため,洛和会では総合診療を学びたい卒後3年目以降を対象とした教育プログラムを作りました。

森本 新たな制度を立ち上げるのは,スムーズに進んだのでしょうか。

松村 困っている施設や部門を総合診療医が助ける形で実力を認めてもらいながら,専門科と折り合いをつけていきました。融通無碍というか,自由自在というか……。最初は「雑用を引き受ける」なんて言って。表現が良くないから呼称を「出前」に変えましたが,中身は一緒でした(笑)。結果,総合診療科には多いときで20人ほどの医師が全国各地から集まるようになりました。

 トランスペアレンシー(透明性)とアカウンタビリティ(説明責任)が不可欠であることを再確認した時期でもあります。

濱口 私が2007年に赴任した江別市立病院は内科医総辞職の状況でしたが,舞鶴と同じような屋根瓦式の教育体制を整備することで若手医師が集まりました。総合診療,総合内科を頑張りたいという後期研修医が集まれば,彼らは即戦力になって病院を守り,地域医療に貢献します。

森本 そう,教育のある場所には,必ず人が集まるんですよね。

濱口 はい。舞鶴がそれを証明し,舞鶴をモデルとした他施設が各地で成功を収めています。海外の医師に教えを受ける形で始まった総合診療医を育成する文化は,松村先生の30年以上にわたる尽力によって育まれ,教えを受けた日本人の先生方が今や数多く巣立っています。

森本 各地に総合診療教育の種が飛び,“日本版大リーガー医”が新たなロールモデルとなって教育プログラムを花咲かせているわけですね。

松村 一緒に働いた若い先生方が,総合診療の分野でリーダーシップを発揮する姿を見ると,まさに「出藍の誉れ」とはこのことだとうれしく思います。中には森本先生のように,さまざまな臓器別の専門医と一緒に臨床研究論文を多数発表している方までいます。

森本 どんな疾患にも対応できる総合診療医は臨床研究を行う上で強みです。しかし,それ以上に教育――専門医に対する臨床研究の教育ですが,それを最優先にしてきたことが臨床研究の発展につながっていると思います。教育ファースト,結果は後から必ず付いてくる。松村先生から20年以上にわたって学んだことです。最後に,日本における総合診療や医学教育に伝えたいことをお願いします。

松村 始まったばかりの新専門医制度は,サブスペシャルティの前倒し傾向が目立ちすぎます。“Think more globally!”と訴えたいですね。

(了)


まつむら・ただし氏
1974年京大医学部卒。同大結核胸部疾患研究所胸部外科,京都市立病院呼吸器科勤務などを経て,83年市立舞鶴市民病院に着任。同年沖縄県立中部病院で呼吸器病学・救急医療・感染症学研修。83~84年米バッファロー総合病院循環器科,米コロラド州立大病院呼吸器科で研修を受ける。帰国後,市立舞鶴市民病院医局長として大リーガー医を招聘する研修を開始。91年同院副院長。2004年洛和会音羽病院副院長・同京都医学教育センター所長に着任,同年院長。13年より現職。京大医学部臨床教授(総合診療)。『“大リーガー医”に学ぶ』『地域医療は再生する』(いずれも医学書院)など著書多数。

もりもと・たけし氏
1995年京大医学部卒。市立舞鶴市民病院内科で研修を開始する。2002年米ハーバード大公衆衛生大学院修了,04年に京大大学院医学研究科内科系専攻博士課程修了。Brigham and Women's病院総合診療科フェロー,京大病院総合診療科助手,同大医学教育推進センター講師を経て,11年に近畿大医学部教授,13年兵庫医大総合診療科教授,14年より同大臨床研究支援センター副センター長,臨床疫学教授。04年Fellow of ACP(FACP),12~14年ACP日本支部Council。14年より兵庫医大では大リーガー医による臨床推論の授業を行う。

はまぐち・すぎひろ氏
1995年新潟大医学部卒。天理よろづ相談所病院での研修後,プライマリ・ケア,ホスピタルメディスンを学ぶため市立舞鶴市民病院へ。2001年より北海道の複数の病院でへき地・離島医療に従事。06年より英ロンドン大衛生熱帯医学大学院留学,熱帯医学修士取得。07年に江別市立病院に赴任し,内科医総辞職により危機に瀕していた同院の再生プロジェクトを牽引する。15年に長崎大大学院医歯薬学総合研究科博士課程修了。16年より現職。

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