医学界新聞

対談・座談会

2016.11.21



【座談会】

日本の近代医学の父 エルヴィン・ベルツ来日140周年
“学術の樹”としての医学を

永井 良三氏(自治医科大学学長)
モーリッツ・ベルツ氏(独フランクフルト・ゲーテ大学法学部日本法教授)
黒川 清氏(政策研究大学院大学客員教授/NPO法人日本医療政策機構代表理事)=司会


 日本が近代化の道を進んだ明治時代,欧米各国から来日した「お雇い外国人」は日本に学術の基礎を築いた。医学においてはドイツを手本とし,多数のドイツ人教師が来日したが,そのうちの一人,エルヴィン・フォン・ベルツ(MEMO)ほど繰り返し語られてきた例はない。西洋近代医学の導入のために,明治維新から間もない日本で教育を行っただけでなく,人類学にも造詣が深かったベルツは,日本の近代化の証人として日本人の思想的課題について鋭い見解を書き残している。

 本紙では,ベルツの影響を受け,ベルツと同様に日本を研究対象としてきた親族のモーリッツ・ベルツ氏の来日に合わせて座談会を開催。日本の医学・科学の歴史を振り返り,ベルツの言葉が示す日本の医学・科学界への教訓を話し合った。

エルヴィン・ベルツの執筆した書籍(永井氏所蔵)を手に議論を行った


黒川 モーリッツ・ベルツ先生と私が出会ったのは,1年前,私が講演で訪れた米ペンシルベニア大です。ドイツ人らしい風貌にベルツという名前。「日本の近代医学の形成に貢献したベルツ先生と何かの関係があるのか」と私が尋ねたことが始まりでした。

ベルツ 私はドイツのフランクフルト・ゲーテ大で日本法の教授をしています。エルヴィン・ベルツは当時ヴュルテンベルク王国文部事務次官だった私の曽祖父の兄です。私は医学の専門家ではないので,ベルツの医学的貢献の評価よりも,ドイツと日本の関係に対するベルツの貢献について,本日は見解を述べたいと思います。

黒川 そして本日はエルヴィン・ベルツを研究し,その業績に詳しい永井先生にもお越しいただいています。

永井 今年はベルツ来日140周年に当たります。ベルツは日本の医学の近代化に,研究・臨床・教育の面で多大な貢献をしました。また,西洋の影響を受けて大きく変わりつつあった明治初期の日本近代化の証人でもあり,『ベルツの日記』(邦訳岩波文庫,1979)などの手記を残しています。50年近く前,私は大学の教養時代に,『ベルツの日記』でドイツ語を勉強しました。

ベルツ 私は中学時代に『ベルツの日記』を読みました。ベルツは明治期の日本の様子を細かく書き残しており,それに心引かれたのを覚えています。私が日本に関心を持ち,日本法を研究しているのもベルツの業績があったからだと思います。若いころに『ベルツの日記』を読んでいるという点では,永井先生と私は似ていますね。

永井 そうですね。ベルツの資料を調べていて,ベルツの退任前年の1901年に行われた,在職25年記念祝賀会での有名なスピーチが,ドイツ語版『ベルツの日記』で一部削除されていることを見つけました。

黒川 日記を編集する際に“失われていた”内容は,永井先生が執筆されたベルツ賞50周年記念誌『ベルツ博士と日本の医学』で補完されています。日本近代医学へのベルツの貢献を記録したものとして,その出来栄えに私は心を動かされました。

 ベルツは好奇心にあふれ,オープンマインドだったと言われています。日本の伝統文化を知るのが好きだったようですね。

ベルツ ベルツは幼少時から遠く離れた異国への憧れを持っていました。日本に医学を伝えるだけではなく,日本や日本人について研究をしようと,あるいは美術品の収集を通じて文化を知ろうとしたのだと思います。

ベルツの教えた近代医学

永井 私は2016年4月に,「医学における日独交流」についてドイツ内科学会で講演をしました。その中でベルツの業績を紹介しましたが,残念なことにドイツの医師はベルツを知りませんでした。しかしベルツが実践を主体とした臨床医学や異分野交流,さらに総合的な学術の重要性を主張していたことを説明したところ,大きな反響がありました。

 ベルツが日本で教えていたころは,医学界は革命の時代でした。ドイツ医学が世界の医学を大きく変え始めていたときだったのです。

黒川 その背景には英国やフランス,ドイツを中心にした科学の台頭がありましたね。ベルナール,ウィルヒョウ,パスツール,コッホ,北里などが先達の足跡の上に大きな成果を挙げ,19世紀後半から近代的な医学,内科学などの臨床医学も急速に進み始めました。

永井 そうですね。ベルツが最初に執筆した教科書『内科病論』や『鼈(べ)氏内科学』(MEMO)にも興味深い解説があります。例えば動脈硬化の本態が炎症だと一般に言われるようになったのは今から30年ほど前からです。しかし,明治時代である1882年発行の『内科病論』には,アテローム性動脈硬化は慢性の動脈内膜炎だとすでに明記してあるのです。このことはベルツの恩師であるヴンデルリヒの科学的医学の影響を受けたウィルヒョウが1858年に『細胞病理学』に記載しており,そうした最先端の知見をベルツは日本人のための教科書に執筆しています。ベルツの教えた科学的医学の水準は高かったと思います。

 ベルツは科学的医学を深く理解しつつも,患者第一の臨床姿勢を持ち,非常に尊敬されていたようです。ベルツが医学を修めたころは,観察と自然治癒を重視する伝統的なヒポクラテス医学と,近代的な科学的医学の両方を学べたのではないかと思います。ですから,日本の医学生もベルツから両方を教えられました。

ベルツ その通りですね。科学に基づく西洋医学のほうが優れている疾患については西洋医学を勧めつつも,医学では「人間」を見ることが重要で,心理効果によっても患者の容体が大きく変わることには私も納得できます。今では常識のようですが,ベルツはそれを見通し,日本にその考え方を浸透させたいと願っていたのでしょうね。

 医学に限らず,文化についても同じ考え方をしていました。『ベルツの日記』を読むと,当時のお雇い外国人の中には,日本の伝統を後進的で野蛮だと見なし,日本は早く西洋化するべきだと考える人もいたことがわかります。それでもベルツは日本文化を高く評価していました。例えば温泉入浴や武術に効能を見いだし,強化すべきだと訴えました。ベルツは日本の伝統を大いに尊重する態度を取っていたのです。

ベルツ在職25年記念祝賀会の日の日記(1901年11月22日)を見ながら,日本の科学界に残る課題を議論した。

科学を発展させる精神を日本は育ててこなかった

黒川 医療者や学者の話の中でも,『ベルツの日記』からの引用は多いです。ベルツの言説は今でも重要なメッセージだというのがその理由でしょう。

 欧米各国から来日した教師は皆,科学とは何か,特に学術とは何かを伝えようとしていました。でも,科学はソクラテスやアリストテレスの時代(紀元前4~5世紀)以来,長い時間をかけて西洋の歴史に根付いてきたものです。当時の日本人に,その精神の理解は困難だったのでしょう。そして,それは今でも変わっていません。おそらく昔も今も,「科学は何か実用に供する,便利な機械のようなもの」だと日本人は認識しています。そうではない。科学は“道具”ではないのです。

ベルツ そうですね。欧米でも,科学が勢いよく発展した19世紀末~20世紀初頭には一部の領域で科学を“道具”ととらえたような事例がありました。私の専門分野では,その時期に発展した比較法学分野で,欧米の学者は世界各国の法律に機械論的・分類学的アプローチを応用しました。これは植物や動物における種の分類と似ています。

 今の法学ではこのようなことは主流ではありませんが,当時は科学を“道具”と考え,分析しようとしたのではないかと私は思っています。この反省を踏まえ,今の欧米では科学をいかに発展させるかを強調する見方があるように思います。

永井 ベルツの東大在職後期にはすでに,日本政府は外国から教師を新たに招くのをやめ,残っていた外国人教師に相談せずに大学の運営を始めていました。外国人教師は,西洋の学術(Wissenschaft;根拠ある知識体系のこと)の考え方が日本人にはまだ十分根付いていない中でのそうした動きに批判をしていたようですね。

 ベルツは今から115年前,在職25年記念講演で次のように警鐘を鳴らしています。「西欧各国の教師は“学術の樹(der Baum der Wissenschaft)”が日本で根付いて成長できるように種をまくつもりだった。この樹は適切に育てれば,いつも新鮮で美しい実を結ぶ。しかし日本は成果を摘み取ることで満足し,この成果を生み出した精神を理解できていない」と,学術の発展の素地となる文化を育てることが必要だと忠告していました。

 “学術の樹”という表現はデカルトの「哲学の樹()」を踏まえているようです。この講演でベルツが強調したのは「学問の在り方をどうとらえるべきか」ではないでしょうか。

ベルツ ベルツの言葉からは,「“学術の樹”は文化の中に組み込まれている」という側面が強調されている印象を受けます。文化は所与のものではなく,発展させていくものだという共通認識が西洋人にはあります。地に根付き,有機的に高く伸びていくものとして,“樹”のイメージになっているのでしょう。

黒川 若い学生たちに,ベルツはそれを理解させたかったに違いありません。科学を哲学や道徳の立場から見て,文化の一部としてとらえてほしかったのだろうと思います。

永井 ベルツは「理論は消える,事実は残る」という言葉も残しています。臨床医学に科学的医学の理論を安易に導入することに対し慎重でした。

 例えば,ドイツで始まったハンセン病患者の強制隔離政策には批判的で,「冷酷な論理で問題を解決すると,恐ろしい結果を招く」,「人類の名において抗議する」と述べています。ベルツはハンセン病の感染力が弱いことを現場の経験から知っていました。医療の実践を大事にしていたベルツには,現実を見ることの重要性がわかっていたようです。

ベルツ この政策は当時の医学界でも過度に理論に依拠していたことを示す一例だと思います。一部の人は「人間を見る」という実践を軽視してしまったのですね。

永井 今でも日本では科学を道具として扱う傾向があります。科学の根源に哲学や道徳を持っていたベルツが忠告した学術や科学の在り方は,今も日本の課題です。

■分野を超えて知的資産を共有し,“たこつぼ”を脱しよう

黒川 英国のジャーナリストで,社会人類学のPh.Dを持つジリアン・テットの最近の著作に『The Silo Effect』(邦訳『サイロ・エフェクト――高度専門化社会の罠』,文藝春秋,2016)というものがあります。サイロとは穀物を貯蔵する機密性の高い保管庫で,サイロ・エフェクトは風通しが悪く,外部との接触に乏しい“たこつぼ”状態の組織で起きる視野狭窄を言います。病院で言えば専門科間で情報や考え方の共有がされず,他の科で何をやっているのかわからないといった状態です。

永井 私も読みました。サイロ・エフェクトは普遍的な問題ですね。

黒川 サイロのような組織を作ってしまうのは人間ならではの性質ですが,日本は欧米と比べてより閉鎖的だと私は感じます。著作物からベルツの哲学を学んだ永井先生は,サイロ化しやすい日本人の性質を,このときすでにベルツが認識していたとお考えですか。

永井 来日当初の資料にはそういった記述はありませんが,日本人教授が増えてくるとオープンな議論がなくなり,何度も大学と衝突したようです。

黒川 するとそれが今につながる日本の問題点の1つかもしれないですね。ベルツは長い滞日の中で日本人の特異性に気付いたのでしょう。戦後知識人の一人,丸山眞男も『日本の思想』(岩波新書,1961)で同様の指摘をしています。西洋の学者同士は,文系・理系が違っていたとしても分野を超えた議論が成立する。それは共通した知的資産として,学術の基本的価値を共有しているからです。一方で日本は分野間で知的資産の共有がなされていないために“たこつぼ”になりやすく,分野の違う学者間での会話が成り立たないことがよくありますね。

 こういった文化が作られたのは江戸期の鎖国統治の影響が大きく,それが今に続いているのではないでしょうか。日本の実情は外部からの目を通したほうがよく見えますから,当時ベルツが投げ掛けたこの言葉の意味は重いです。これは読者の皆さんにもぜひ,しっかり考えてほしいのです。

ベルツ ベルツは日本人の性質やその伝統,文化のことを誰よりも知ろうという姿勢を持っていました。30年近くにわたる滞日でベルツが得た知見の中には,現代日本に通じるものがたくさんあるでしょう。ベルツが強調した“学術の樹”は,科学者のリベラルアーツと言えるものです。

永井 医学は幅広い基盤を持っていますから,科学的な成果ばかりを追い求めるのは危険です。科学研究を行う場合でも,その限界を知っておくことが大切ですね。医療の現場では科学だけでなく,人間の心理や社会の仕組みの理解も大事です。“たこつぼ”や“サイロ”から抜け出さないとこれらを学ぶことは難しいでしょう。

黒川 まさにその通りです。日本の“学術の樹”の未来を案じたベルツが残した言葉を問い直すことが,日本の医学・科学の発展につながると考えています。

MEMO エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz,1849~1913)

 ドイツ南西部シュトゥットガルト近郊に生まれる。少年時代より東洋,日本に関心を持っていたという。基礎医学を独テュービンゲン大で学び,臨床医学は独ライプツィヒ大を最優秀の成績で卒業。その後,独テュービンゲン大で当時の科学的医学の指導的立場にあったヴンデルリヒの下で内科学を学んだ。

 来日のきっかけは1875年に大学病院に入院した日本人留学生の診察をしたことで,東京医学校(現・東大医学部)の教師として招聘され,翌1876年から1902年まで教鞭をとった。1882年にはベルツの最初の教科書『内科病論』を出版。改訂版の『鼈(べ)氏内科学』(1896年,鼈氏=ベルツ氏の意)ではさらに近代的になり,細胞病理学に基づく病変の解説,ジフテリアの抗血清療法,1894年に北里柴三郎とエルザンにより発見されたばかりのペスト菌に関する記述も含まれている。

(左)東大退官直前に撮影された写真
(右)1896年発行の教科書

(了)

註:根は哲学,幹は広い意味の自然学,枝は学術分野(医学,機械学,道徳)で,その成果は枝に実るとした。


くろかわ・きよし氏
1962年東大医学部卒。69~83年在米。79年UCLA教授,89年東大教授,東海大医学部長,日本学術会議会長,内閣特別顧問,WHOコミッショナーなどを歴任。内閣官房健康・医療戦略室参与の他,国会による福島原子力発電所事故調査委員会委員長を務めるなど,幅広い領域で活躍。

ながい・りょうぞう氏
1974年東大医学部卒。同大第三内科助教授,群馬大第二内科教授を経て,99年東大教授。2004~08年同大病院長,12年より現職。科学技術振興機構上席フェローも務める。エルヴィン・ベルツに関する著作の収集家で,現在約30冊を所有。専門は循環器病学で,1998年に優れた医学研究に与えられるベルツ賞を受賞した。

モーリッツ・ベルツ(Moritz Bälz)氏
1991~98年にかけて独ベルリン自由大と慶大で法学,日本学,哲学を学ぶ。2002年に米ハーバード法科大学院で会社法と日本法の研究を行い,修士号を取得。05年に独ハンブルグ大で博士号を取得後,08年より現職。日本法についての著作の他,Journal of Japanese Law誌の共同編集者を務める。

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