医学界新聞

連載

2016.04.18



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第34回】
評価について:番外編 経歴詐称について

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 世は隠蔽,捏造,経歴詐称の話題で持ちきりである。もちろん,隠蔽,捏造,経歴詐称が近年増加しているというわけでもあるまい。インターネットが発達し,世界が小さくなり,「ウソ」が極端にバレやすくなったのである。かつてだったら,「パリのなんとか大学でなんとかを履修してました」とか「ハーバード大学のなんとか特任教授やってます」なんてウソをついても,それをわざわざ確認する術がなかった。ところが,現在なら大学のホームページにアクセスし,そこから問合わせのメールを一本送れば「裏」は簡単にとれる。

 ぼくは食べ物関係,栄養関係のトンデモ本をレビューして,『「リスク」の食べ方――食の安全・安心を考える』『食べ物のことはからだに訊け!――健康情報にだまされるな』(いずれも筑摩書房)を書いたのだが,そのときも「余命3か月のがんが,なんとか食事法でみるみるよくなった」とか「なんとか法で健康になれる」みたいな本の著者が留学歴とかで経歴詐称的なことをやっていた。もっとも,ぼくは本の内容そのものに関する「トンデモ」には興味があったが,経歴の詐称にはまったく興味がなかったので「疑わしい」というコメント以上の調査はしなかったけれども。ここでも実名を挙げて,「誰の話」とか明らかにしない。興味のある方は本を読んでみてください。宣伝,終わり。

 事ほどさように,ぼく自身は経歴詐称にあまり興味がない。というか,経歴そのものに興味がない。うちの医局員の一人は灘高⇒京大という経歴らしいのだが,その事実をぼくが知ったのはつい最近のことである。確か面接のときに履歴書も渡されたはずだが,たいてい流し読みで真面目に読んでいない。そもそもぼくに「その手の知識」が皆無なため,参考にならない。なにしろ,神戸に住む以前,ぼくは灘高を共学だと思っていたぐらいで,「うちの娘も大きくなったら灘高とか行くのかなあ」と口にして周りを凍りつかせていた。

 それで思い出したが,ユタ州で集中治療をやっている田中竜馬先生(LDS Hospital)は沖縄県立中部病院,St. Luke’s Roosevelt病院,亀田総合病院と3つの職場で一緒に仕事をしてきた腐れ縁だ。アレも灘高⇒京大なのだ。なので,あの高名な田中先生といえど,どうしてもぼくとしては「要するに竜馬くらいってことだろう」と,“低く(?)”見てしまうバイアスがかかる(全国の田中竜馬先生ファンの皆さま,ごめんなさい)。

 で,何でぼくは経歴とかに関心が薄いのかと考えてみた。島根県生まれの田舎者でそもそもそういう情報に疎い,ということもあるかもしれない。出身高校が隣町の高校と模試の平均点を毎回争っていて,そういうミミッチイ「俺が上だ,あいつが下だ」の優劣競争に心底辟易していたというのもある。当時,世は受験戦争時代だったのだ。

 しかし,本当の理由は他にあった,と最近気が付いた。実はぼくは小さいころから漫画家になるのが夢だったのだ。藤子不二雄が大好きだった。本連載で申し訳ないくらいのアホ漫画を描いているのもその残滓だけれども,とにかくぼくにとって職業といえば,そして“プロ”といえば「漫画家」だったのだ。たぶん,これがぼくの原点だ。

 漫画家というのは実に過酷で苛烈な職業である。こんな厳しい業界に足を突っ込まなくて本当に良かったと,今となっては思う。

 何しろ漫画家は「今」描いている作品でしか評価されないからである。小説家であれば,一回大ヒットを飛ばしたり,何かの賞を取ってしまえば,小説が売れなくてもエッセイを書いたり,テレビのコメンテーターとして生きていくことは可能だ。お笑い芸人もそうだろう。しかし,ごくごく一部の例外を除き,漫画家の場合は漫画を描き続ける以外に生きていき,そして評価されていく道がない。大ヒットで印税が入っても,数年経てば,そういうもうけもすぐにチャラになるようだ。

 漫画は進化し続けており,昔の漫画よりも今の漫画のほうが絵もストーリーも圧倒的にクオリティーが高い。皆が手塚治虫の『新宝島』(講談社)をバイブル扱いするが,まっさらな目で今この作品を読むと「古い」としか思えない。絵も稚拙である。当時としては斬新な構図もストーリーも,後進の漫画家がみんなパクりまくり続けたのだから,当たり前だ。後年,手塚が売れなくなって劇画風に走ったり,ブラック・ジャックなどの新機軸を模索せざるを得なかったりしたのは有名な話だ。神様ですら,そうなのだ。「昔の手柄」でトップランナーで居続けることが許されない,昔の技術や知識の維持だけでは生きていけない厳しい世界が,漫画の世界である。

 翻って,医療・医学の世界はどうだろう。昔の手柄で偉くなった人は,いつまで経っても偉いままである。知識は時代遅れ,技術は衰え,判断は常にトンチンカンでも,「昔の栄光がもたらした地位(=タイトル)」だけでチヤホヤされる。そのタイトルは著明な論文執筆かもしれないし,何とか大学の教授になりました,かもしれない。博士号取得や専門医資格かもしれないし,医師国家試験の合格かもしれない。いやいや,18歳=大学入学自体が,自身のプライムタイム,ということも珍しくない。そういう人は「18歳のとき」以上の努力をせず,パフォーマンスも示せず,そのとき以上のパラダイムシフトも起こせていない……にもかかわらず,現在の地位は安定したままである。医者とは何とお気楽な商売なのだろう。

 ぼくが藤子不二雄のような漫画家になりたいと思ったのは小学2年生くらいのときだが,そのとき以来「今ある自分が自分の全て」というメンタリティーがビルドインされてしまったように思う。誤解してもらっては困るが,ぼくは立派な学校に進学したり,卒業したりすることを悪いことだとは決して思っていない。学問は素晴らしく,優れた学友や教師との交流も貴重な財産だ。しかし,それが過去のものになった時点で,すなわち学「歴」となった時点で,現在の自分を評価する基準にはなり得なくなる。「10年前にこんな漫画を書いてました」は,「今,目の前にある原稿」の評価に1ミリ足りとも影響しないからだ。

 本稿は,現在日本の医療界に広がるエートスと真逆なことを書いている。だから,多くの共感を得ないであろうことも予想している。しかし,「今,ここ」の漫画的世界は,厳しいが,楽しくエキサイティングな世界である。その眼差しが常に前を向いているからだ。現在志向とは,実は未来志向なのである。

 ここがロドスだ,ここで跳べ。しがらみのエートスから自由になった世界は,一度は体感しておいてよいとぼくは思う。その後,またエートスの世界に逆戻りしても,もちろんそれはかまわないけれども。

つづく

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