顧客の期待と失望(井部俊子)
連載
2016.01.25
看護のアジェンダ | |
看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き, 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。 | |
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井部俊子 聖路加国際大学学長 |
(前回よりつづく)
片思いと心変わりの真相
2015年の年の瀬,その場にいた数人の仲間が口々に言い始めた。
「毎年,買っていたカレンダーが今年は買えなかった。品ぞろえが少なくなったのよ」
「そうそう,カレンダーフェアが地下の階に閉じ込められて活気がなくなったわ」
「この間,久しぶりに立ち寄って商品について店員に尋ねたら,すごく時間がかかって,しかも答えが的外れだったのよ」
「普通のファイルボックスを買おうとしたら,在庫がなくて“注文”になるというのよ」
「あのお店は特別に買いたいものがなくても,近くへ行くと入りたくなる魅力があったのに,今はそれがなくなった」
「遠くからわざわざタクシーで手帳を買い求めに来ていた人もいたのよ」
「以前のお店は上の階でゆっくり座ってコーヒーが飲めたのに,新しくなったお店は1階で飲み物が買えるけど椅子がないので立って飲まなくてはいけない。イヤだね」
「上の階に行くのになかなかエレベーターが来ない。不便なの」
そしてとうとうこうなった。
「結局,私たちのように昔から通っていた者たちの片思いだったのね」
「庶民を見捨てたね」
「コアな客を見捨てていいのかしら」
*
ターゲットになったのは東京銀座にある老舗文房具店,伊東屋である。ウェブサイトをみると,伊東屋は1904(明治37)年創業,「いつの時代でも,“一歩先の新しい価値”をお伝えする,文房具の専門店です。(中略)伊東屋は,クリエイティブな時を,より美しく,心地よくする文房具をご提案いたします。モノだけではありません,楽しさ・新しさ・美しさ……そういった感覚を,その時代時代の価値観の中で,表現して参ります」とある。1987年からは“レッドクリップ”をコーポレートシンボルとして,看板やオリジナル商品にも取り入れて,文房具好きの者にはおなじみの店である。
111年の歴史を持つ伊東屋は2015年6月にリニューアルされた。先ほどの仲間によると,「工事中は不便だったけれど,きっとすてきなお店ができると思って待っていた」のである。
ウェブサイトではさらに続けて,「銀座・伊東屋は,“モノを買う店舗”から様々な体験のできる“過ごせる店舗”へと生まれ変わりました」と言う。「全てのクリエイティブな時をサポートするレッドクリップのG. Itoya」と,「大人の隠れ家をテーマに2012年10月にオープンしたK. Itoya」がある。後者では万年筆・画材・地球儀などを扱っている(しかし伊東屋Loveの仲間は,この店の存在を知らなかった)。つまり伊東屋は価値の転換を図ったのだと,ここまで書いて私は気付いた。しかし,“過ごせる店舗”への転換は十分に成功しているとは思えない。そもそも顧客は伊東屋に優れた文房具を求めに行くのであって,そこで“過ごそう”とは思っていない。
期待と知覚とのミスマッチ
なぜこのようなギャップが起きるのか。そこで,手元にあるサービス研究書の「期待と知覚の間のミスマッチ」の項を開いてみた(近藤隆雄著『サービス・イノベーションの理論と方法』生産性出版,2012年,139-141頁)。それによると,「サービスについての顧客の期待や事後の知覚を理解することは,顧客の求めるサービス商品の内容を適切に決定し,望ましいサービス品質を計画し,サービスを適切なコストで生産するために不可欠な情報である」のだが,「期待とサービス生産」(ギャップ1),「サービス生産と知覚」(ギャップ2)にはミスマッチが生じて悪い影響を与える可能性があるという(われわれのように不満を口にするやからが出没する)。
ギャップ1はいくつかの理由で起きる。まずサービスが適切にデザインされていない。これは顧客の期待を管理者が正確に把握していないからである。また,適切なサービス生産に必要な資源が十分に得られていない。あるいは顧客が不適切な期待を抱いているからかもしれない(つまり,われわれの伊東屋に対する期待が不適切なのか,そうは思えない)。ギャップ2は,不適切なサービス生産か,顧客の不適切な知覚から生じることになる。不適切なサービス生産は,資源が十分でなかったり,従業員のモチベーションが低すぎたりすることから起きる。顧客の不適切な知覚は,不適切なマーケティング活動で顧客が高すぎる期待を抱いたり,顧客がその人独自の不合理な方法で評価することの結果であるかもしれない(われわれは少しそんなところがあるのかもしれない)。さらに,顧客は自分自身の経験のフィルターを通して判断するために,自分が関心を持つことを優先して観察したり,自分の信念や偏見から情報を集めたりする(確かにわれわれは「カレンダーフェア」にこだわっている)。しかし,「サービス組織では,『顧客が知覚したものが真実である』という原則があることも忘れてはならない」と指摘する。この記述を見つけて,われわれの知覚の正統性を確信し留飲を下げたのである。
(つづく)
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